鎌倉殿の13人

足立遠元~十三人の合議制のメンバー、平治の乱で活躍し、東国武士ながらも文官の素養を持つ人物でした。

鶴岡八幡宮 境内



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【足立遠元】

足立 遠元(あだち とおもと)は、
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将です。
足立氏の祖となります。
武蔵国足立郡
(現東京都足立区から埼玉県北足立郡)
を本拠としていました。
館跡は現在の桶川市や
さいたま市など数か所にあります。

【生誕】
不詳(1130年代前半?)

【死没】
不詳

【別名】
四郎、遠基

【官位】
左衛門尉、右馬允

【幕府】
鎌倉幕府十三人の合議制、
公文所寄人

【氏族】
足立氏
(藤原北家魚名流または
勧修寺流、
武蔵武芝後裔とも)

【父】
藤原遠兼

【母】
豊島康家の娘

【兄弟】
信家、遠衡

【子】
元春(基春)、
元重、
遠光、
遠景、
遠村、
遠継、
藤原光能妻、
畠山重忠妻、
北条時房妻

【足立遠元の出自】
足立氏は武蔵国足立郡を
本拠とした在地豪族です。
足立遠元の父である藤原遠兼が
武蔵国足立郡に土着し、
遠元から足立を名乗ったとされています。
「尊卑分脈」によりますと、
藤原北家魚名流の藤原山蔭の後裔であり、
安達盛長は藤原遠兼の弟としています。

兵庫県丹波市足立九代次氏所蔵
「足立氏系図」
(「新編埼玉県史」別編4年表・
系図一九九二年埼玉県六八~七二頁)では、
藤原北家勧修寺流の藤原朝忠の後裔されています。

一方で、武蔵国造家の流れで
承平天慶の乱の時代に足立郡司であった
武蔵武芝の子孫とする説もありますが、
武蔵国造家の系譜「西角井系図」
(「浦和市史」第2巻〔古代・中世史料編1〕)には、
武芝の外孫・菅原氏が
氷川神社の祭司・足立郡司を
引き継いだことが記されてはいますが、
足立遠元の名は出てきません。
いずれにしましても、
足立遠元以前の系譜は
曖昧ではっきりはしていないとのことです。




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【足立遠元の生涯】
源義平の17騎として】
平治の乱で源義朝の陣に従い、
右馬允に任官し、
源義平率いる17騎の一人として戦いました。

【治承・寿永の乱】
治承・寿永の乱においては、
治承4年(1180年)8月に挙兵した
源義朝の遺児である源頼朝より
前もって命を受けていました。

【武蔵国の武士として最初に参上】
源頼朝が下総国から武蔵国に入った
10月2日に豊島清元・葛西清重父子らと共に
武蔵武士で最初に迎えに参上して、
源頼朝が鎌倉入りした直後の8日、
武蔵国足立郡を本領安堵されました。
これは、源頼朝による
東国武士への本領安堵の最初でもあります。

【公文所では寄人のメンバー】
元暦元年(1184年)10月6日、
公文所が設置されると、
5人の寄人の1人に選ばれました。
建久元年(1190年)に
源頼朝が上洛した際、
右近衛大将拝賀の布衣侍7人の内に
選ばれて参院の供奉をしています。
さらに、奥州合戦の勲功として
源頼朝に御家人10人の
成功推挙が与えられた時、
その1人に入り左衛門尉に任ぜられています。

【十三人の合議制のメンバー】
源頼朝の死後、
2代将軍源頼家の時に
成立した十三人の合議制の1人に
安達盛長とともに加わっています。

【没した時期】
「吾妻鏡」承元元年(1207年)3月3日条の
闘鶏会参加の記事を最後に
史料から姿を消しています。
少なくとも70代の高齢に達しており、
程なく没したと見られています。

【足立遠元の人物像】
幅広い縁戚関係を築いたとされています。
足立遠元の娘の1人は
後白河法皇の近臣の藤原光能に嫁ぎ、
京都権門とも深い繋がりを
有していました。
また、別の娘は
畠山重忠および北条時房に
それぞれ嫁して、
男の子を産んでいます。

武士出身でありながら
公文所寄人に選ばれるなど、
坂東武士の中にあって
文官的素養を持つ人物であったのでした。

【足立遠元の子孫】
足立遠元の嫡曽孫である足立直元は
霜月騒動(1285年)で自害しており、
足立郡嫡系は以後没落したこととなります。
武蔵国足立郡の子孫は
円覚寺黄梅文書」に14世紀末まで
植竹郷・河田郷の地頭職と見えるので、
南北朝時代までは存続していたことになります。




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【丹波足立氏】
足立遠元の孫となる足立遠政は
丹波国氷上郡佐治郷の地頭となりました。
足立遠政は承元3年(1209年)、
武蔵国から、70人くらいの
屈強の者を連れて佐治庄小倉へ移住していきます。
のちに山垣へ本拠を移し、山垣城を築きました。
これが、丹波足立氏の始まりとされています。
なお、足立遠政の丹波移住は
「承久の乱」の功によると見る説もあります。
また、当時の時代背景として
北条氏を中心とした熾烈な政権争いがありました。

【丹波に移住した理由】
和田・畠山・三浦などの源家有力御家人が
北条氏により悉く滅亡させられた時期でもありました。
それらの戦に参加して功を挙げたのか、
あるいは、北条氏に与することを
潔しとせず左遷されたのか、
足立氏の丹波移住に関する理由は
諸説あり、不明となっている点も多いのです。

【勢力を拡大】
山垣城を築いた後に小和田城を築き、
二男の足立遠信に治めさせました。
さらに遠阪城、岩本城、稲土城など
要所要所に支城を築き、
但馬および久下・芦田らの諸豪族に
備えたとのことです。
また太平記に登場する佐治孫五郎は
丹波足立氏族の一族である佐治氏です。

明智光秀の丹波攻略で帰農化】
戦国時代まで武士として当地に基盤を持ち、
明智光秀の丹波攻略により、帰農化して、
この子孫が現在もこの地に居住しているとのことです。

足立氏の菩提寺は、
丹波市青垣町山垣1581にある報恩寺で
足立遠元・遠光・遠政三代の位牌が
残されているとのことです。
また、丹波市青垣町小倉809にある妙法寺は、
足立遠政の屋敷跡とされています。
足立氏の系図が今日に伝えられているそうです。

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
大野 泰広(おおの やすひろ)さんが
演じられます。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

源頼家~悲劇の2代目~北条VS比企、時々朝廷、そして東国武士の権力闘争が渦巻く時期。

比企能員~源頼朝を支え有力御家人として権勢を握るも北条氏に嵌められ1日で滅ぶ。

安達盛長~源頼朝を流人時代からの側近で生涯に渡って支え続け厚い信頼を得た人物。

梶原景時~鎌倉ノ本体ノ武士~文武両道で実務能力の高さ故に疎まれやがて滅ぶ。

北条時政~先見性を持ち才腕を振るって幕府の実権を掌握するが暴走して寂しく去る。

大江広元~四男の毛利季光は毛利氏の祖となりやがて戦国大名の毛利氏へと続きます。

中原親能~朝廷と幕府の交渉役のエキスパート~実務官吏でありながら戦にも従軍する

三善康信~鎌倉幕府の初代問注所執事で母は源頼朝の乳母の妹です。問注所とは裁判機関のことです。

八田知家~小田氏の始祖であり十三人の合議制の一人で源氏4代に仕えた人物です。

二階堂行政、13人の合議制のメンバーで初期の鎌倉政権を支えた実務官僚でした。

北条義時~鎌倉幕府2代執権~冷酷無情・現実を客観視して行動できる理想家なのか?

北条時房~初代連署で六波羅探題南方、北条義時の弟で甥の北条泰時とは最高の相棒であり好敵手でした。

三浦義澄~源頼朝を支えた宿老の一人で13人の合議制のメンバーで相模守護。三浦一族の栄枯盛衰。

和田義盛と和田合戦~三浦一族~鎌倉幕府創始の功臣だが北条義時に嵌められる

源義朝の墓(鎌倉)、忠臣の鎌田政家(政清・政長)と共に眠るもう一つのお墓。

伏見広綱~源頼朝の有能な右筆、のハズが頼朝の兄嫁への恋文の使いと亀の前を匿って遠江に流罪となりました。

明智光秀について、駆け足で手短にわかる明智光秀の生涯。

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