【足利公方邸跡(鎌倉)】
その昔、六浦道と呼ばれ
鎌倉を支えた要港である六浦港と
鎌倉中心部を結んだ、
現在の金沢街道沿いに今は
石碑のみがある足利公方邸跡。
【屋敷を構えた人物】
源頼朝と同じ河内源氏の血統であり、
北条政子の妹である時子を妻とし、
源頼朝とともに
鎌倉幕府創成に活躍した源頼朝の門葉である、
足利義康が屋敷を構えました。
それから200年以上に渡り
足利氏の子孫が屋敷とした場所となります。
室町時代には足利公方(鎌倉公方)の御所となり、
この場所から関東以東を治めました。
室町時代の鎌倉の中心はこの場所でした。
現在は特に施設はなく、
金沢街道沿いに石碑のみが建っています。
近くの浄明寺バス停近くには
足利氏の菩提寺である浄妙寺もあります。
浄明寺は足利義兼が創建したお寺で、
足利尊氏やその異母兄・足利高義、
尊氏と同母弟である足利直義の
父親である足利貞氏の宝篋印塔があります。
よってこの地域は足利氏ゆかりの地ともいえます。
【足利尊氏の時代】
室町幕府をつくった足利尊氏も
この邸に居住していました。
足利尊氏が室町幕府を開き京都に移った後、
京都の幕府は子の足利義詮(よしあきら)が
第2代将軍となりました。、
【鎌倉公方】
その足利義詮の弟の足利基氏が
関東管領(後の公方/鎌倉・古河公方)
となりこの地において政務を行いました。
【歴代の鎌倉公方】
以後、鎌倉公方は
足利基氏の家系が世襲し、
足利氏満、足利満兼、
足利持氏、足利成氏と続き
この邸に居住しました。
【鎌倉公方と関東管領】
初代の鎌倉公方である
足利基氏を補佐するために
鎌倉公方足利基氏の執事に
上杉 憲顕(うえすぎ のりあき)が
任じられました。
なお、上杉 憲顕は
山内上杉家の始祖であり、
足利尊氏の母清子は
父方の叔母であるため、
足利尊氏とは従兄弟の関係でした。
足利尊氏の死去後、
2代将軍となった足利義詮と
鎌倉公方となった足利基氏兄弟は
正平17年/貞治2年(1362年)から
勃発した関東の政変によって
それまで代々の
東国武家の畠山国清
及び宇都宮氏綱が務めていた
関東管領職及び
越後・上野守護職を公式に剥奪します。
そして新興勢力の上杉憲顕が
その後釜に座り、
上杉氏は代々その職に就くことになりました。
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こうして鎌倉公方と関東管領(上杉家)は、
関東十か国を治め、
後には陸奥国、出羽国も加わり
関東から東をすべて
管轄することとなるのでした。
上杉氏は関東に土着化して、
その勢力を広げ、
権力を掌握していくことになります。
【室町幕府と対立する鎌倉公方】
広大な地域を支配する鎌倉公方は
やがて室町幕府と
対立するようになっていきます。
室町幕府、
鎌倉公方、
関東管領という
三つ巴となって
その後幾度も争いを起こします。
なお、京都の室町幕府が任命する
関東管領である上杉家は
幕府方に近い存在でした。
【上杉禅秀(氏憲)の反乱】
応永23年(1416年)、
前関東管領であった
上杉氏憲が鎌倉公方である足利持氏
に対して反乱を起こしました。
上杉禅秀(氏憲)の乱です。
またこの乱には
山内上杉家と
犬懸上杉家の確執も
内包していたのでした。
足利持氏が鎌倉公方となり
山内上杉家の上杉憲定が
関東管領になりますが、
応永18年(1411年)に失脚し、
犬懸上杉家の上杉氏憲が
関東管領に就任します。
けれども、上杉氏憲は
鎌倉公方足利持氏と対立し、更迭。
山内上杉家の上杉憲基が
関東管領となります。
上杉氏憲は足利持氏の叔父である
足利満隆を持ち上げて挙兵しますが、
室町幕府の命を受けた
今川範政、上杉房方、小笠原政康、
佐竹、宇都宮などの
足利満隆・上杉氏憲討伐軍に敗れ、
鎌倉の雪ノ下で自害しました。
こうして犬懸上杉家は滅びました。
ところで犬懸上杉家の邸は
現在も杉本寺の近くに残る
犬懸橋の奥にあったといわれています。
【永享の乱の勃発】
永享10年(1438年)、
鎌倉公方の足利持氏と
関東管領の上杉憲実の対立に
端を発した永享の乱が起こり、
室町幕府第6代将軍足利義教は
足利持氏討伐を命じます。
上杉禅秀(氏憲)の乱の後、
厳しい粛正、
室町幕府に近い佐竹氏討伐など
鎌倉公方足利持氏の
室町幕府に反する行動が
目立つようになります。
第6代将軍の足利義教が就任し
元号が正長から永享に変わっても
正長の元号を使い続けるなど、
完全に室町幕府に従わないことを
態度で示すのでした。
そして幕府に近い
関東管領上杉憲実と対立します。
【鎌倉公方の敗北】
けれども、室町幕府軍に敗れてしまい、
足利持氏は称名寺にて
出家しましたが、
永安寺において自害します。
更に足利持氏の嫡子である
足利義久はまだ10歳でしたが
鎌倉の報国寺において自害したのでした。
【享徳の乱・関東の大乱】
自害した第4代鎌倉公方であった
足利持氏の後を継いだ
足利成氏が関東管領上杉憲忠を
暗殺したことに始まり、
室町幕府・関東管領(山内・扇谷上杉)と
足利成氏が争いました。
享徳3年(1455年)から
文明14年(1483年)まで
足掛け28年にも及んだこの乱は
関東の大乱と称され、
文字通り関東一円に波及し、
鎌倉公方、古河公方、堀越公方など
関東を治める公方がいくつも誕生しました。
そしてこの大乱が
関東地方における戦国時代の始まりと
位置付けられています。
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【足利成氏VS関東管領&室町幕府】
足利成氏は享徳3年(1455年)、
父の足利持氏が自害する原因であった
上杉憲実の子である上杉憲忠を殺害。
殺害された上杉憲忠の子である
上杉房顕が関東管領に就き、
従弟であった越後守護の
上杉房定と合流して
上野平井城に入ります。
かくして鎌倉公方足利成氏と
関東管領上杉房顕・幕府勢力の戦いが
始まったのでした。
【古河公方の誕生】
足利成氏は
北関東を転戦している間に
室町幕府の命を受けた
今川範忠に鎌倉を奪われたため、
下総の古河城に入り御所とします。
これ以後、
足利成氏の系譜は
古河公方と呼ばれ
以後130年に渡って
古河において続いていきます。
【古河公方・関東管領・堀越公方】
この乱の結果、利根川の東側を古河公方、
西側を関東管領(上杉)が支配し、
さらに室町幕府から
鎌倉公方として派遣されたものの
関東に入れなかった
足利政知による
堀越公方が伊豆を治めるという
状態になりました。
【関東地方における戦国時代の幕開け】
室町幕府は古河公方となった
足利成氏を滅ぼすことはできず、
以後はこの古河公方が
関東の権威を持つことになりました。
関東の勢力を2分して争った
享徳の乱は関東地方における
戦国時代の幕開けとされています。
やがて後に北条氏康、
長尾景虎(上杉謙信)なども
その覇権に加わり、
時代は戦国の渦の中に入っていくのです。
【古河公方の行く末】
小田原北条氏の時代に
自然消滅した古河公方は、
豊臣秀吉が喜連川家として復興します。
江戸時代に入っても大名格として残り、
明治にはいって家名を
足利家に戻して現在まで続いています。
【所在地】
〒248-0003 神奈川県鎌倉市浄明寺4丁目2−25
【交通アクセス】
「鎌倉駅」よりバス
「泉水橋」下車、徒歩1分
※バス停下車後鎌倉駅方面に90mほど戻ります。
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北条時子~足利義兼の正室で北条政子の同母妹、身の潔白の為に自害。お腹が膨れた原因は寄生虫の可能性あり。
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