【若狭局】
若狭局(わかさのつぼね、
生年未詳⇒建仁3年(1203年))は、
鎌倉時代初期の女性です。
鎌倉幕府の御家人、比企能員の娘です。
鎌倉幕府二代将軍源頼家の妻妾です。
源頼家の嫡男一幡の母です。
竹御所も若狭局が生母だとされています。
【正室は誰?】
若狭局は愛妾、
足助重長の娘は正室との記述が存在しています。
若狭局が産んだ源頼家の長男の一幡は
嫡子に等しい扱いを受けており、
誰が正室かは実ははっきりとはしていません。
なお、足助重長(あすけしげなが)の娘は
公暁の母とされています。
また、一説には禅暁(ぜんぎょう)を
産んだともされています。
足助重長(あすけしげなが)の娘は
源頼朝の叔父にあたる源為朝の孫娘となります。
本来ならば、正室が産んだ子供が「嫡子」となり、
正室が誰であるか決めたのは、
源頼朝だと考えられています。
そうなれば自分の叔父の血を引く足助重長の娘が
正室とすることが妥当だと思われますが、
一幡が生まれたのは
源頼朝が生きている間で
源頼朝にとっては初孫となります。
公暁が生まれたのは源頼朝が亡くなった後です。
まして一幡は源頼家の乳母父であり、
自分の乳母で何かと支援をしてくれた
比企尼の甥でもあった比企能員の娘が産んだ子。
一幡を嫡子扱いにするのは
当然の流れだったのかもしれません。
嫡子扱いではなかったからこそ、
公暁は生き長らえたともいえるのですが、
公暁自身にとってはそれが
面白くなかったのかもしれません。
最も、公暁も若狭局の産んだ子とする説がありますが、
そうなれば一幡と共に殺されていたと思うので
自分は、一幡と公暁の母親は異なると考えています。
【若狭局の生涯】
父である比企能員は
初代将軍源頼朝の乳母であった
比企尼の甥です。
その縁故によって源頼朝の嫡男である
源頼家の乳母父となりました。
源頼家の妻妾となった若狭局は
建久9年(1198年)、
源頼家が17歳の時に長子である一幡を生みます。
源頼朝にとっては初孫となります。
【比企能員の変】
一幡が6歳になった建仁3年(1203年)8月、
病となった源頼家が危篤状態に陥り、
その家督相続を巡って
若狭局の一族である比企氏と、
源頼家の母方の外戚である
北条氏との対立による
比企能員の変が起こります。
9月2日、比企能員が北条時政によって謀殺され、
知らせを受けて一幡の屋敷である
小御所に立て籠もった比企一族は
北条義時率いる大軍に攻められ、
屋敷に火を放って自害し、
一族は滅亡しました。
「吾妻鏡」では一幡と若狭局も
その時焼死したとのことですが、
「愚管抄」では一幡は母が抱いて逃げ延びたものの、
11月になって北条義時の手の者によって
刺し殺されたということです。
【若狭局は讃岐局になった?】
一幡を産んだ源頼家の妻妾の若狭局ですが、
比企一族の菩提寺である妙本寺では
「讃岐局」となっています。
現在では「若狭局」と「讃岐局」は
同一人物であるとされています。
誤記ともみなされていますが、
「若狭局」が後に「讃岐局」となった説もあります。
理由の一つとしては、
父親である比企能員が
「愚管抄」によりますと、
阿波国出身であるという記述があります。
比企一族の中では出身地で呼ばれていた可能性があり、
父親の出身地の隣である「讃岐」から
「讃岐局」となったともされています。
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讃岐といえば・・・弘法大師(空海)の出身地。
空海と水に関する伝説は多く、
また水信仰は蛇信仰につながります。
何故なら蛇は湿気の多い処に
住んでいる場合が多いからです。
若狭局も最後は井戸に飛び込み、
蛇になった伝説もあるので
何か関連付けてしまいます。
【讃岐局蛇苦止霊之墓 (若狭局)】
妙本寺内にある比企一族墓の右手にある
苔むした石段を上ると、
大きないちょうの木の根元に
讃岐局(若狭局)の供養塔があります。
墓標には「讃岐局蛇苦止霊之墓」とあり、
比企氏一族滅亡の年月
「建仁三癸亥(みずのとい)九月」と刻まれています。
この供養塔は、
千代保の五輪塔や
「一幡の袖塚」を見下ろす位置にあります。
【蛇苦止堂】
妙本寺には、境内に蛇苦止堂(じゃくしどう)という
因縁めいた名で呼ばれる小さな社があります。
方丈門のところに境内の案内図があり、
それを見ると蛇苦止堂という名前が見つかります。
門に入らず脇の細い道を進んで、
階段を上った先にそのお社はあります。
この社が蛇苦止堂で、
「蛇苦止明神」の額がかかっています。
【蛇苦止の井】
比企能員の変で父親である比企能員が殺され、
比企一族は小御所と呼ばれていた屋敷に立てこもりますが、
北条家を中心とする軍勢に囲まれ、
比企ヶ谷の屋敷が炎上する中、
若狭局(讃岐局)は家宝を抱えて
井戸に身を投じたと伝えられています。
蛇苦止堂のすぐ近くにある井戸が
その井戸とされ、
蛇苦止(じゃくし)の井と呼ばれています。
あるいは
蛇形(じゃぎょう)の井という名でも呼ばれています。
この井戸の中では、今でも若狭局が
蛇に姿を変えて家宝を守り続けているとも
言われています。
また境内にある蛇苦止の井は、
名越にある六方の井と
つながっているともささやかれています。
今も大蛇が二つの井戸を往復しているということです。
【吾妻鏡による奇怪な事件】
比企一族滅亡から、約60後のことです。
この井戸を巡って奇怪な事件が勃発したのでした。
それは「吾妻鏡」の
文応元年(1260年)10月小の条に
記録が残されています。
十五日 己酉。
相州〔政村〕の息女邪気を煩ひ、今夕殊に悩乱す。
比企判官の女(むすめ)讃岐局が霊が祟をなすの由、
自詫に及ぶと云々。
件の局は大蛇となりて頂に大きなる角有り。
火炎の如く、常に苦を受く。
当時比企谷の土中に在るの由、言を発す。
これを聞く人、身の毛が堅つと云々。
<現代語訳>
相州政村(北条政村)の娘が
何かに取り憑かれたようになって、
この夜は特にもだえ苦しんだ。
比企判官(比企能員)の娘である
讃岐局の霊が(政村の娘に)
祟りをなしているということを、
(娘にのり移った讃岐局の霊が)言った。
この局(讃岐局)は大蛇となり、
頭に大きな角がある。
火炎のような苦しみを常に受け、
今も比企ヶ谷の土中にあると言う。
これを聞いた人々は身の毛がよだつ思いであった。
北条正夢らの娘の尋常でない状態は、
1ヶ月以上も続いたとのことです。
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「吾妻鏡」同年11月27日の記録によりますと、
北条政村は娘のために1日で法華経を写経するなど、
怨霊を鎮めるために手を尽くします。
鶴岡八幡宮の別当である隆弁を招いて
祈祷を行った時の様子が
生々しく描かれているとのことです。
隆弁に説かれて霊は鎮まり、
北条政村の娘はやがて
眠りから覚めたように元に戻ったそうです。
そして、その後も讃岐局(若狭局)の霊が
安らかであるようにと、
蛇苦止明神が建てられたということです。
現在、蛇苦止明神は
妙本寺の鎮守さまとして、
またこの地一帯である
比企ヶ谷(ひきがやつ)を護る存在として
大切にされているということです。
比企能員の変が起きたのは
建仁3年(1203年)9月2日。
毎月1日は、蛇苦止明神の例祭とのことです。
また9月には例大祭が行われているとのことです。
【東松山にある足跡】
現在の埼玉県東松山市大谷400にある宗悟寺。
この宗悟寺には若狭局が持参したという源頼家の位牌が
残されています。
このお寺の東の谷である城ケ谷(じょうがやつ)の丘陵上に
比企能員の館があったと伝わっています。
また地名も、修善寺谷、扇ケ谷、比丘尼山など残っています。
この辺り一帯(武蔵国比企郡(現在の埼玉県比企郡と東松山市))は
比企一族の所領地でした。
宗悟寺の西、比丘尼山麓には、
若狭局が源頼家の唯一の形見である櫛を
頼家の命日の日に沈めたという串引沼があります。
「串引沼」は徒歩でしか行けないようです。
道が・・・見当たりませんでした。
源頼家の死後、若狭局がこの地に移り住んだという
伝承があります。
【ナゾが残る】
鎌倉で自ら命を絶ったとも、一幡と共に
炎の中で焼死したとも言われている若狭局。
鎌倉の妙本寺には一貫して「讃岐局」となっています。
「若狭局」と「讃岐局」は同一人物と見られていますが、
果たして・・・?
鎌倉で亡くなったのは姉妹の「讃岐局」で
「若狭局」は生き延びたのでしょうか?
【生き延びた比企一族】
なお、比企能員の変後、生き延びた一族が、
地方の所領に潜伏していたとも
名前を変えていたとも言われています。
そして、室町時代初頭に
再び比企地方に姿をあらわし
上杉氏等に仕えた後、
小田原北条氏の勢力が拡大すると
小田原北条氏に仕えたとも言われています。
2022年NHK大河ドラマ
「鎌倉殿の13人」では
山谷 花純(やまや かすみ)さんが演じられます。
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