【藤原実資】
藤原 実資(ふじわら の さねすけ)は、
平安時代の公卿です。
藤原北家小野宮流、
参議・藤原斉敏の四男です。
藤原北家嫡流・小野宮流の
膨大な家領を継ぎ、
有職故実に精通した
当代一流の学識人でした。
藤原道長が権勢を振るった時代に
筋を通した態度を貫き、
権貴に阿らぬ人との評価を受けました。
最終的に従一位・右大臣に昇り、
「賢人右府」と呼ばれました。
藤原実資の残した日記である
「小右記」は
この時代を知る貴重な
資料となっているとのことです。
【生誕】
天徳元年(957年)
【死没】
永承元年1月18日(1046年2月26日)
【改名】
大学丸(幼名)⇒実資
【別名】
賢人右府
号:小野宮
【官位】
従一位、右大臣
【主君】
冷泉天皇⇒円融天皇⇒花山天皇⇒
一条天皇⇒三条天皇⇒
後一条天皇
【氏族】
藤原北家小野宮流
【父】
藤原斉敏
【母】
藤原尹文の娘
【養父】
藤原実頼
【兄弟】
高遠、懐平、実資
【妻】
源惟正の娘
婉子女王(為平親王の娘)
源頼定乳母の娘
【子】
良円、女子、千古、観薬、女子
【養子】
資平、資高、資頼、経季
【生涯と経歴】
【小野宮流を継承】
祖父である藤原実頼の養子となり、
非常に愛されて家領の多くを相続し、
小野宮流を継承しました。
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【小野宮流】
小野宮流は藤原北家嫡流でありながら、
分派であるはずの九条流に
摂関家の主導権を奪われてしまいます。
が、九条流に対して記録資料の面で優れ、
故実に通じる家として著名となっています。
藤原実資は膨大な記録資料を
藤原実頼より継承したといわれています。
また学問のみならず、蹴鞠の達人としても知られ、
長徳3年(997年)4月17日には、
賀茂祭の余興として自邸で鞠会を開き
(「小右記」より)、
後世大江匡房からは「当世の名人」
と評されたということです。
(藤原頼輔「蹴鞠口伝集」)
その膨大な家領については
未だ不明な部分も多いとのことですが、
相当な財力を有していたことは
当該期史料から判明しているとのことです。
【故実家で資産家で良識人】
藤原実資は故実家・資産家としても
知られたいますが、
物事の要点を押さえ、
個人の利得や名声のために
真実を覆さないという
良識人でもあったのでした。
【公卿に列するまでの軌跡】
安和2年(969年)に叙爵。
同年侍従に任じられ、
天禄2年(971年)に右兵衛佐、
同4年(973年)に右少将となります。
円融天皇のときの天元4年(981年)、
蔵人頭に補されます。
永観元年(983年)左中将に転任します。
同2年(984年)の花山天皇践祚に伴い
再び蔵人頭となります。
寛和2年(986年)の花山天皇の退位、
一条天皇の践祚に伴い蔵人頭を去りますが、
翌年の永延元年(987年)に
蔵人頭に補され、
永祚元年(989年)に参議となり
公卿に列しました。
【九条流の道長が主導権を掌握】
正暦元年(990年)に権勢を誇っていた
九条流の藤原兼家が他界しますと、
子の藤原道隆が関白となり、
次いで藤原道兼を経て、
藤原道長が内覧を許されて右大臣となり、
藤原伊周(道隆の嫡子)との政争の末に
主導権を握り、左大臣となり
権勢を振るうようになります。
【筋を通し、屏風への歌の献上を拒否】
長保元年(999年)、
藤原道長の娘の彰子が入内することになり、
その調度品の一つとして
四尺の屏風を作らせ、
それは当時の公卿名士たちから和歌を募り、
藤原公任が選首となり、
書家の藤原行成に筆を入れさせる
趣向でありました。
これには公卿たちだけでなく、
花山法皇までも御製の歌を贈ったのでした。
このとき、中納言であった藤原実資だけは
「大臣の命を受けて、その屏風に歌をつくるなぞ、
未だに前聞なし」と言って、
藤原道長から何度催促されても
歌を献じるのを拒んだとのことです。
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【右大将の地位に42年間】
長保3年(100年)、
権大納言に任じられ、
右近衛大将を兼ねます。
これ以降藤原実資は42年の間
右大将の地位にありました。
【三条天皇から頼りにされる】
寛弘8年(1011年)、
一条天皇が崩御して三条天皇が即位しました。
三条天皇と藤原道長は不仲で、
やがてことごとに
対立するようになったのでした。
ところが朝臣の多くは
権勢家の藤原道長に阿り、天皇は孤立、
朝廷の綱紀は日々
弛緩するようになりましたた。
この時も藤原実資は敢然として
公平な立場に努め、
天皇も密かに藤原実資に頼るように
なったとされています。
【藤原道長の強烈な嫌がらせ】
三条天皇には東宮時代からの女御に
藤原道長の娘の妍子と
藤原済時の娘の娍子がいました。
即位と共に妍子は中宮とされましたが
子はなく、一方、娍子は
敦明親王を生んでいました。
長和元年(1012年)、
天皇は娍子を皇后に立てるよう欲しますが、
藤原道長に憚って決しかねていたところ、
藤原道長から立后の提案がありました。
ところが立后の儀式の日になると
藤原道長は嫌がらせを行い、
同日を中宮妍子の参内の日として出席せず、
諸公卿もこれに同調して
皆中宮の東三条第へ行ってしまいました。
天皇は勅使を東三条第へ送って
出席を命じますが、
諸公卿は勅使を嘲り、
参議藤原正光に至っては
瓦礫を投げつける始末であったとのこと。
【藤原実資、病身を押して儀式を取り仕切る】
藤原実資はこの日は病身でしたが
「天に二日なし、土に両主なし」
と言うや中納言藤原隆家と共に参内して、
儀式を取り仕切ったのでした。
【藤原実資の賢明な立ち回り】
三条天皇は藤原実資の態度を徳として感謝し、
藤原実資の養子・資平に
「朕は長く東宮にあって物情を知らず、
一旦登極すれば全て意のままになると
思っていたのに、
后を立てるにも皆左大臣(道長)を憚り、
勅命に応じようともしない。
(実資の)忠懇を嘉とする。
これからは諸事、大将と議したい」と伝え、
これを聞いた藤原実資は歓喜したとのことです。
もっとも、賢明な藤原実資は
藤原道長と正面から対決するようなことはせず、
あくまで筋を通す態度を貫き、
また、三条天皇も資平を蔵人頭に任じると
約束しながら、藤原道長を憚って
止み沙汰にしてしまうなど、
あまり頼りにはならなかったのでした。
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【三条天皇の譲位と道長の画策】
道長と対立を続けた三条天皇でしたが、
やがて失明寸前の眼病となり、
藤原道長から強く退位を迫られ、
結局、長和5年(1016年)に
敦明親王を東宮とすることを条件に
後一条天皇に譲位しました。
春宮大夫には藤原実資が推薦されましたが、
藤原実資は老衰の身であるとして固辞しました。
翌年の寛仁元年(1017年)に
三条上皇が崩御すると、
約束は反故とされ、
道長の画策で敦明親王は
東宮を辞退となったのでした。
【藤原隆家の刀伊の入寇撃退の件の裁定】
寛仁3年(1019年)、
刀伊の入寇を撃退した
大宰権帥・藤原隆家が
部下らに対する恩賞を懇請し、
これに対して諸国申請雑事定が
公卿らによって行われました。
大納言藤原公任と中納言藤原行成は、
「彼らは追討の勅符が到達する以前に戦った。
故に私闘であるから賞するには及ばない」と主張。
これは貴族たちが藤原隆家は
藤原道長の政敵であった
藤原伊周の弟でもあることから
藤原道長に追従したせいでもありますが、
同時に文官統治を維持する立場から
当時各地の豪族や在庁官人が
武装化して勢力を拡大しつつある現状に
危機感を抱いていたことも背景には
あったとのことです。
そのため、勅符なしでの軍事行動を
許容することで彼らが
朝廷の命令を無視して
独自の判断で軍事行動を起こすことが
危惧されたこともによりあったので
藤原公任・藤原行成らの主張にも
一理ありました。
藤原普段、公任らに対して
批判的な記事の多い
藤原実資が記した「小右記」でも、
この主張そのものに関する
批判的な記述は見られません。
藤原公任・藤原行成らの主張に対して
藤原実資は勅符が到達する以前に
戦った点には問題があることを認めつつも、
「勅符が到達したかどうかは問題ではない。
たとえ勅がなかったとしても、
勲功ある者を賞する例は何事にもある。
寛平6年(894年)に
新羅の凶賊が対馬国を襲撃したとき、
島司文室善友は直ちにこれを撃退し、
賞を賜った。これと同じことである。
特に今回の事件は、外敵が警固所に肉薄し、
各島人が一千人余りも誘拐され、
数百人が殺された。壱岐守・藤原理忠も戦死した。
しかし、大宰府は直ちに軍を動かして
これを撃攘せしめた。
何故に賞さないことがあろうか。
もし賞さないならば、今後進んで事に当たる勇士は
いなくなってしまうであろう」
と弁じ立てたとのことです。
まず、大納言藤原斉信がこれに同意し、
続いて藤原公任・藤原行成も翻意、
ついに公卿ら皆意見を同じくして
褒賞は決議されました。
また、当時政治の一線から
退いていた藤原道長も
これを是としていたとのことです。
このとき藤原実資は右大臣に
任ぜられるか否かで同僚らの歓心を
買わなければいけない時期でしたが、
それでも付和雷同・阿諛追従することなく、
ものごとの道理を滔々と陳述していたのでした。
【刀伊の入寇】
刀伊の入寇(といのにゅうこう)は、
寛仁3年(1019年)に、
女真の一派とみられる集団を主体とした
海賊が壱岐・対馬を襲い、
更に九州に侵攻した事件です。
刀伊の来寇ともいうとのことです。
【藤原隆家と九州武士団】
藤原隆家は中関白家出身の公卿であり、
眼病治療のために大宰権帥を拝命して
大宰府に出向していました。
専門の武官ではありませんでしたが、
撃退の総指揮官として
活躍したことで
武名を挙げることとなりました。
九州武士団および、
東国から派遣された武士団のうち、
討伐に活躍したと記録に見える主な者として、
大蔵種材・光弘、藤原明範・助高・友近・致孝、
平致行(致光?)、平為賢(為方・大掾為賢・伊佐為賢)・
為忠(為宗)、財部弘近・弘延、紀重方、
文屋恵光(忠光)、
多治久明、源知、僧常覚らがおりますが、
寄せ集めに近いもので
あったといわれています。
源知はのちの松浦党の先祖の1人とみられており、
その地で賊を討って
最終的に逃亡させる活躍をしたとのことです。
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なお、中世の大豪族菊池氏は
藤原隆家の子孫と伝えていますが、
専門家は在地官人の
大宰少弐藤原蔵規という人物が
実は先祖ではないかとの見解を
示しているとのことです。
九州・東国武士団は鎮西平氏とも呼ばれ、
このうち伊佐為賢(平為賢)が
肥前国鹿島藤津荘に土着し
肥前伊佐氏となり、
薩摩平氏はその後裔と称しているとのことです。
【従一位】
治安元年(1021年)、
藤原実資は右大臣を拝し、
皇太弟傅を兼ねます。
長暦元年(1037年)、
従一位に叙されました。
【晩年の藤原実資】
【九条流への柔軟な行動】
常に九条流に対抗する
小野宮流の当主として活躍しましたが、
晩年は養子の資平への家督継承と
家領温存のため、
藤原道長・頼通親子に
口入を申し出るなど、
九条流への柔軟な行動も見られました。
特に藤原実資は藤原頼通に
非常な好意を抱いていたようで、
「小右記」には藤原頼通を
批判する記事はほとんどなく、
藤原頼通の方も
政界の長老である藤原実資への敬意を
怠らなかったということです。
その一方で当時の慣例に反して
藤原頼通が関白のまま
藤原実資と共同で一上の職務を行い、
藤原公季の死去により空席になった
太政大臣への昇進を
藤原頼通が藤原実資の死後まで
控えたのでした。
一上には通常左大臣が就任して、
関白及び太政大臣は
その職務には携わらず、
左大臣が関白を兼ねる場合には
右大臣が一上となる
慣例であったとのことです。
この慣例に反しての藤原頼通の行為は
藤原実資が左大臣として昇進し、
藤原頼通と対抗することを懸念したものとも
見られていますが定かではありません。
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【地方における両陣営の対立を指摘する見解】
ただ、長保5年(1003年)に
発生した平維良による
下総国府(下総守宮道義行)襲撃事件や
長元2年(1029年)に発生した
平季基による大隅国府(大隅守船守重)
襲撃事件について、
襲撃した維良・季基及び季基を
庇おうとした大宰大弐藤原惟憲は
いずれも藤原道長・頼通父子の家司・家人で、
襲撃された義行や守重は
藤原実資の家司・家人でありました。
このことから背景に地方における
両陣営の対立を指摘する見解があります。
しかも、両事件とも襲撃・擁護側は
処分されなかったのでした。
【大恋愛と最愛の娘・千古】
花山院の女御・婉子女王と大恋愛して
結婚しましたが子供に恵まれず、
晩年、現代でいう認知症が進行してからは
焦りのためなのか手当たり次第に手を出し、
妻が非常に少なかった
政治上の弟子である
宇治関白頼通を嘆かせたとのことです。
兄で権中納言・懐平の子である
資平を養子としましたが、
最愛の子は実娘の千古(ちふる・ちこ)
であったとされています。
万寿元年(1024年)に行われた
千古の裳着に際しては、
藤原実資は右大臣としての権力を用いて
受領に対して諸国所課を行って
物資の取立を行ったほどでした。
藤原千古は藤原実資が50歳過ぎにして
漸く出来た娘ということになり、
非常に藤原千古を溺愛したとのことです。
(清少納言父娘と同様ですね)
【小野宮家の財産の大半を継承させる】
「大鏡」によりますと、
彼女に「かぐや姫」と愛称を
付けたとされています。
また、寛仁3年12月9日
(1020年1月6日)には
処分状を作成して、
小野宮家に伝わる荘園などの
財産の殆どを千古に継承させ、
「道俗子等一切不可口入」と宣言して、
養嗣子の資平(甥)や
僧侶にしていた庶子良円には
殆ど財産を残さなかったのでした。
【薨去】
永承元年(1046年)に90歳で薨去。
信仰厚い仏教徒でしたが、
今わの際まで現実社会で
活躍することを好み、
その死に臨んでも出家することは
なかったのでした。
天寿を全うするとき、
藤原実資の小野宮第には
朝野上下の人々が参集し、
声を放って慟哭したと云われています。
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【小野宮家没落・事実上の消滅の原因】
藤原実資は小野宮家の財産を多く
千古に継承させ、養子の資平には
一部しか継承させませんでした。
藤原千古はのちに藤原道長の孫である
藤原兼頼(藤原頼宗の子)の妻になりました。
(藤原頼宗の母親は源明子)
その後、藤原兼頼との間に娘を授かりましたが、
長暦2年(1038年)頃に
父である藤原実資よりも先に他界しました。
結果的に、藤原道長ら九条流の
最大の競争相手であった
小野宮流の財産の殆どが
九条流(正確には道長の御堂流)
に入ることとなり、
男系子孫に財産が
渡らなかったことによって
小野宮家の経済的な衰微を招き
経済的基盤を失った
小野宮流は院政期には没落して
事実上消滅することになったのです。
【「小右記」】
藤原実資は日記史料として後年、
故実に必携の書となる「小右記」
(小野宮右大臣家記の略)を残しました。
ここで藤原実資は、
現存する限り蔵人頭から
右大臣右大将を兼任するまで日記を残し、
膨大な儀礼の記述を残しました。
また、個人的見解を記したことでも著名で、
有名な藤原道長の「この世をば…」の和歌は
藤原実資の「小右記」から
現代に伝えられたのでした。
【藤原実資の人となり】
32歳で議政官となった有能な官僚です。
藤原道長や藤原頼通の相談相手でもありました。
儀礼については厳しく、
「小右記」では儀礼に失敗したものを
「愚の又、愚なり」と厳しく批判する記述があります。
長和5年の後一条天皇即位の際には、
奉幣使に持たせる官符の
作成作業の監督にあたりました。
しかし部下のミスにより、
官符に太政官印が
押されていないものが含まれてしまいました。
藤原実資はミスを誘発した
少納言藤原庶政を
厳しく批判しています。
しかし印が押されていない官符が
使用されることについては
儀式が終わっているのだからどうしようもない、
もし摂政藤原道長から
なにか言われてきた場合には
自分に告げろと述べ、実務面においては
柔軟な運用を行っていたのでした。
・・現代ではこのような官僚はもはや
消滅しておりますね・・。
時を超えて召喚できたらなど
思ってしまいます。
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【藤原道長との関係】
藤原実資は藤原道長の所業に対して
強い批判を書き残しています。
豊かな国への受領の任免権が
藤原道長の権益となっていることや、
藤原実資の実兄である
藤原懐平を差し置いて、
年少の藤原教通が
造宮行事所別当に
任官されたことなどについてがあります。
その一方で藤原道長の
能力・人物については
高く評価しており、
藤原道長も藤原実資に
一目を置いていたとのことです。
以下「小右記」に記述がある
とのことですが、
長和元年(1012年)、
藤原道長が病気になった際に
実資・道綱・隆家・懐平・通任の5人が
悦んでいるという噂が立てられた際に、
藤原道長は実資と道綱に限って
そういうことはないと述べて、
噂を立てられた以上
運を天に任せるしかないと
嘆息していた藤原実資を
安堵させたとのことです。
三条天皇の病気や
後一条天皇の幼少で久しく
中断されていた官奏が復活して
藤原実資が職事を勤めた際に、
藤原道長は息子である藤原教通が
なぜ物陰からでも
藤原実資の様子を見て
その作法を学ばなかったのかと、
藤原実資に嘆いているとの
記述があるとのことです。
藤原実資は摂政となった
藤原道長が病に倒れ一時重態となった際に
「朝(朝廷)之柱石」が
失われることを憂慮したとのことです。
藤原道長が
「この世をば 我が世とぞ思ふ
望月の 欠けたる ことも なしと思へば」
の和歌を披露した際、
藤原道長は藤原実資に対して
これに必ず和してもらいたい
(返歌を作って欲しい)と述べたとのことです。
藤原実資は白居易が元稹の詩を絶賛して
和せずにただその詩を繰り返し
吟唱した故事をあげ、
居並ぶ公卿とともに
その歌を数度吟詠したとのことです。
【女性関係】
気難しい性格であった藤原実資も
女性関係は盛んであったようで、
「古事談」に以下の逸話が
伝わっているそうです。
藤原実資の邸宅であった
小野宮第の北対の前に
よい水の出る井戸があり、
付近の下女たちがよく
水を汲んでいました。
下女の中で気に入った女性がいると
藤原実資はよく誰もいない部屋に
引っ張り込んでいたとか。
そこで藤原頼通が一計を案じ、
自邸の侍所の雑仕女の中から
美人を選んで水汲みにやらせ、
もし藤原実資から
引っ張り込まれそうになったら、
水桶を捨てて逃げ帰るように命じました。
案の定、藤原実資は
その雑仕女に手を出そうとしましたが、
予定通り女性は水桶を捨てて逃げ帰りました。
後日藤原実資が藤原頼通を訪ねて
公事について話をした際、
藤原頼通が「ところで、先日の侍所の
水桶を返していただけないか」と言った所、
さすがの藤原実資も赤面し
返事ができなかったということです。
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なお「古事談」には上記以外にも
藤原実資と藤原教通(藤原頼通の弟)とが
遊女・香炉をめぐって
鞘当てをした話も伝わっているとのことです。
2024年NHK大河ドラマ
「光る君へ」では
秋山竜(あきやま りゅうじ)さんが
演じられます。
円融天皇~政治に関与し兼家と疎隔・対立するも、藤原詮子との間に後の一条天皇が誕生します。
花山天皇~藤原氏の策略で19歳で出家、独創的な発想の持ち主で好色、観音巡礼が後に「西国三十三所巡礼」として継承。
一条天皇~「叡哲欽明」と評された賢王は笛の名手で皇后との「純愛」を育み、やがて平安王朝文化が開花。
藤原頼忠~従兄弟の兼通とは親しく兼家とはライバル、天皇の外戚になれず失意のうちに世を去る。
藤原公任~藤原北家小野宮流で政治的・芸術手的にも名門の出で「お坊ちゃま」、藤原道長とは同い年で四納言。
紫式部~世界最古の長編小説とされる「源氏物語」を執筆した女流小説家で平安時代きっての才女。
大弐三位(紫式部娘・藤原賢子)~母からは和歌や文才を、父からは明朗で自由快活な気性を受け継ぎ、行動力溢れ長寿を全うしました。
藤原為時~漢詩の才能に長け、人格形成で紫式部に影響を与えたとされており、子らに先立たれる。
藤原惟規~紫式部の兄弟で和歌の才能があったが、越後にて父より先に亡くなる。
藤原兼家~熾烈な権力闘争に勝ち、のちの藤原氏最盛期を築いた人物です。
藤原道隆~藤原道長の長兄、容姿端正、明朗で豪快、気配り上手な優れた跡継ぎでしたが病で急逝します。
藤原定子~朗らかで才気に満ち華やかで美しい女性、父道隆の死で状況は一変し若くして散る。
藤原伊周~藤原道隆の嫡男、急速に出世するも叔父・道長との政争に敗れ失意のうち世を去る。
藤原隆家~藤原道隆の四男、「刀伊の入寇」で武勇を挙げ政敵・道長も一目置いた気骨ある人物です。
藤原道兼~父は藤原兼家、兄は藤原道隆、弟は藤原道長、待望の関白に就くも数日でこの世を去る。
藤原道長~初めは目立たずも後に政権を掌握、「一家立三后」をなし「この世をば わが世とぞ思ふ」と詠む。
藤原彰子~真面目で努力家で控えめな少女は成長して国母となり政治力を発揮し「賢后」となりました。
藤原道綱~藤原道長の異母兄で母は「蜻蛉日記」の作者、おっとりとした性格で才に恵まれず。
藤原頼通~藤原氏の栄華の象徴である平等院鳳凰堂を造営、摂関政治から院政と武士が台頭する時代へ。
藤原教通~同母兄の頼通への卑屈なまでの従順と確執、やがて藤原摂関家の衰退を招いていきます。
藤原斉信~藤原道長の従兄弟で当初は道隆に仕えるも後に道長の腹心へ、清少納言との交流があり「枕草子」に登場します。
藤原行成~世尊寺流の祖、実務に高い能力を発揮し人徳高く当代の能書家として後世「権蹟」と称されました。
源俊賢~一条朝の四納言の一人、父の源高明が政変で失脚するもバランス感覚に優れ権大納言まで昇進します。
源雅信~皇室の血筋で源倫子の父、藤原兼家にとっては邪魔な存在、宇多源氏の始祖で子孫は近江源氏・出雲源氏へと繋がっていく。
源倫子~6人の子供に恵まれ、夫である藤原道長の外戚政権を 実質的に完成させた女性です。
源明子(源高明の娘)~藤原道長の妾妻で源俊賢の異母妹、明子の家系はやがて五摂家に繋がっていくのです。
藤原穆子~源倫子の母親で藤原道長の才能を見抜き結婚を勧めた女性で紫式部とは遠縁です。
藤原詮子~藤原道長の姉、国母となりやがて日本最初の女院となって、権力を握り政治に介入する。
藤原時姫~藤原兼家の妻で藤原道隆・道兼・道長・超子・詮子の生母、一条・三条両天皇の祖母です。
春日大社~藤原氏の氏神を祀る全国の春日神社の総本社で世界遺産に登録されています。
高階貴子~身分は高くないが和歌と漢詩に秀でた才媛で藤原道隆の嫡妻、百人一首54番の情熱的な和歌が有名。
清少納言~末娘で父親からとても可愛がられて育ち、定子に仕え世界最古の随筆である「枕草子」を執筆します。
藤原宣孝~性格も女性関係も華やかで20歳以上も年上であった紫式部の夫。
この記事へのコメントはありません。