朝廷

近衛前久 行動力抜群のスーパー関白~織田信長・上杉謙信・徳川家康と親交のあった流浪の公家

奈良 法隆寺



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【近衞 前久】

近衞 前久(このえ さきひさ)は、
戦国時代から江戸時代初期にかけての公卿。
太政大臣・近衛稙家の子です。
官位は従一位・関白、左大臣、太政大臣、准三宮。
近衛家17代当主。

【父】
近衞稙家、
【母】
久我慶子
【兄弟】
花屋玉栄、足利義輝正室、
本人、陽山、道澄、尊信、
朝倉義景継室、秀山尊性、
渓江院、斎藤正義(庶子)
【正室】
久我晴通の娘
【側室】
波多野惣七の娘、
若狭武田氏の娘
【子】
信尹、尊勢、宝光院、前子、光照院
猶子:堯真、慈運、豊臣秀吉、教如、津軽為信

【生まれ】
天文5年(1536年)、
近衞稙家の長男として京都に生まれました。
母は久我通言の養女・慶子(細川高基の娘)。

【元服から関白まで】
天文9年(1540年)に元服し、
叔母である慶寿院の夫である
室町幕府12代将軍・足利義晴から
偏諱を受け晴嗣(はるつぐ)を名乗ります。
天文10年(1541年)には
従三位に叙せられ公卿に列します。
天文16年(1547年)に内大臣、
天文22年(1553年)に右大臣、
天文23年(1554年)に関白左大臣となります。
また、藤氏長者に就任しました。

【足利将軍からの偏諱を捨てる】
天文24年(1555年)1月13日、
従一位に昇叙し、
足利家からの偏諱(「晴」の字)を捨てて名を
前嗣(さきつぐ)と改めています。

上杉謙信との盟約】
永禄2年(1559年)、
越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)が上洛した際、
近衛前嗣と長尾景虎は互いに肝胆照らし合い、
血書の起請文を交わして盟約を結びました。

永禄3年(1560年)、
近衛前嗣は関白の職にありながら
越後に下向しました。
更に永禄4年(1561年)の初夏には越山し、
長尾景虎の関東平定を助けるために
上野・下総に赴くなど、
公家らしからぬ行動力をみせたのでした。
長尾景虎が越後に帰国した際も、
危険を覚悟の上で古河城に残り
情勢を逐一越後に伝えるなど、
大胆かつ豪胆な人物でもあったとのことです。

この後、上杉謙信は信濃へ出兵し、
武田信玄と第四次川中島の戦いを
繰り広げることになります。
上杉謙信の活躍はただちに
古河城の近衛前久にも伝えられ、
近衛前嗣は上杉謙信に宛てて
戦勝を賀す書状を送っています。
この頃、名を前嗣から前久(さきひさ)に改め、
花押を公家様式から武家様式のものに変えたそうです。
古河入城にあたった
近衛前久の決意めいた気概が窺えます。
けれども、武田・北条の二面作戦から
上杉謙信の関東平定が立ち行かなくなると、
次第に近衛前久は不毛感を覚え、
永禄5年(1562年)8月、
失意のうちに帰洛したのでした。
この帰洛は上杉謙信の説得を振り切ってのことで、
上杉謙信はかなり立腹したとされています。
けれども、一説には上杉謙信の関東平定後に
上洛を促す計画であったともされているとのことです。




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二条晴良足利義昭との対立】
永禄8年(1565年)5月、
永禄の変で将軍・足利義輝を殺害した三好三人衆は
将軍殺害の罪に問われる事を危惧して
揃って近衛前久を頼りました。
近衛前久は足利義輝の従兄弟でしたが、
その正室である自分の姉を保護した事を評価してこれを認め、
彼らが推す足利義栄の将軍就任を決定しました。

【朝廷からの追放】
永禄11年(1568年)、
織田信長が足利義昭を奉じ上洛を果たしました。
足利義昭は永禄の変後の近衛前久の行動から
兄の死には近衛前久が関与しているのではと疑います。
更に先関白の二条晴良も近衛前久の罪を追及しました。
吟味の結果、足利義昭は
ついに近衛前久を朝廷から追放しました。

【関白の解任】
近衛前久は、都から丹波国の赤井直正を頼って
黒井城の下館に流寓します。
その後、本願寺11世・顕如を頼って
摂津国の石山本願寺に移り関白を解任されました。
この時、顕如の長男である教如を
自分の猶子としています。
後に「信長包囲網」の動きが出てくると、
近衛前久も三好三人衆の依頼を受けて
これに参加して顕如に決起を促したと言われています。
しかしながら、近衛前久自身は
織田信長に敵意は無く、
将軍である足利義昭と
関白である二条晴良の排除が目的であったそうです。

そのため、天正元年(1573年)、
足利義昭が織田信長によって京都を追放され、
一方の二条晴良も織田信長から疎んじられるようになると、
近衛前久は再び赤井直正のもとに移って
「信長包囲網」から離脱したのでした。

天正3年(1575年)2月、
織田信長の奏上により、帰洛を許されています。

【織田信長との親交】
帰洛以後は織田信長との親交を深め、
特に鷹狩りという共通の趣味を有していた事から、
近衛前久と織田信長はしばしば互いの成果を
自慢しあったと言われています。

天正3年9月、
毛利輝元への包囲網構築を画策する
織田信長に要請される形で、九州に下向し、
大友氏・伊東氏・相良氏・島津氏の和議を図っています。

天正5年(1577年)2月、
京都に戻り、翌年の天正6年(1578年)には
准三宮の待遇を受けています。

【石山本願寺を退去】
天正8年(1580年)、
次いで織田信長と本願寺の調停に乗り出し、
顕如は石山本願寺を退去したのでした。
特に約11年近くかかっても攻め落とせなかった
石山本願寺を開城させた事に対する
織田信長の評価は高く、
近衛前久が息子である信基にあてた手紙によれば、
織田信長から
「天下平定の暁には近衞家に一国を献上する」
旨の約束を得たということでした。

天正10年(1582年)2月、
太政大臣となりましたが、5月には辞任しています。
これは織田信長の三職推任問題に関連して
近衛前久が織田信長に
同職を譲る意向であったからだとも推測されています。
同年の3月の甲州征伐には織田信長と同行しています。




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本能寺の変
けれども、同年6月2日の本能寺の変によって、
織田信長が横死したため、
近衛前久の運命も変転を余儀なくされたのでした。
失意の近衛前久は落飾し龍山と号しています。

【秀吉から疑われる】
「本能寺を攻撃した明智光秀軍が
前久邸から本能寺を銃撃した」との証言があり、
織田信孝や後に猶子となる羽柴秀吉からも詰問されたのでした。
そのため、以後は徳川家康を頼ります。
ちなみに徳川氏の創姓は前久と吉田兼右が関わっていました。
そのため、遠江国浜松に下向したのでした。

小牧・長久手の戦い
一年後、
徳川家康の斡旋により
羽柴秀吉の誤解は解け京都に戻りますが、
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い
両者が激突したため、
またもや立場が危うくなった近衛前久は奈良に身を寄せ、
両者の間に和議が成立したことを見届けてから帰洛しました。

【隠居生活へ】
天正15年(1587年)以降、
足利将軍家ゆかりの慈照寺東求堂を
別荘として隠棲しました。
貞享3年(1686年)刊行の「雍州府志」によりますと、
近衛前久が隠棲していた時代の慈照寺は
「時に此の寺、住職無し」の状態だったそうです。

関ヶ原合戦時】
慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦時には、
東軍に与した水谷勝俊の嫡男である
水谷勝隆を匿う一方で、
西軍の島津氏と音信する等中立を保ちながら、
関ヶ原合戦の詳細な情報を子供の近衛信尹に伝える等、
かつての活躍を伺わせる行動をしていました。

【最期】
慶長17年(1612年)5月8日、薨去。
享年77歳でした。
京都東福寺に葬られました。
法名は東求院龍山空誉です。

【人となり】
近衛前久は藤原氏嫡流の五摂家らしく、
和歌・連歌に優れた才能を発揮しました。
書道は、青蓮院流を学び、
有職故実にも詳しかったそうです。
更に馬術や鷹狩りなどにも
抜群の力量を示して「龍山公鷹百首」という
鷹狩りの専門的な解説書を兼ねた歌集も執筆し、
豊臣秀吉と徳川家康に写本を与えています。
京都を離れ、地方を流浪遍歴しましたが、
近衛前久にとっては、
単に経済的困窮や戦乱を逃れるためだけではなく、
むしろ政治への積極参加のための手段の一つでした。
同時に地方に中央の文化を伝播する上で
重要な役割を果たしたと評価されているそうです。




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【織田信長への追悼歌】
歌道については織田信長の七回忌(天正十六年六月二日)に
詠んだ追悼歌の六首が残っています。
六首全てで五七五七七の書き出しの一字が
それぞれ「なむあみだぶ」で揃えられています。

なけきても 名残つきせぬ なみた哉 猶したはるゝ なきかおもかけ
むつましき むかしの人や むかふらむ むなしき空の むらさきの雲
あたし世の あはれおもへは 明くれに あめかなみたか あまるころもて
みても猶 みまくほしきは みのこして みねにかくるゝ みしかよの月
たつねても たまのありかは 玉ゆらも たもとの露に たれかやとさむ
ふくるよの ふしとあれつゝ ふく風に ふたゝひみえぬ ふるあとの夢

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