【摺上原古戦場跡】
摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)は、
戦国時代の天正17年(1589年)7月17日、
磐梯山裾野の摺上原
(福島県磐梯町・猪苗代町)で
行われた出羽米沢の伊達政宗軍と
会津の蘆名義広軍との合戦です。
この合戦で伊達政宗は大勝し、
南奥州の覇権を確立したのでした。
福島県の北西部、耶麻郡東部の磐梯町・
猪苗代町・北塩原村との境にあり、
猪苗代盆地の北にそびえる火山、磐梯山があります。
その磐梯山南麓裾野には、
猪苗代町西部から
磐梯町東部にかけて広がる原野、
摺上原(磨上原とも書く)があります。
摺上原は、天正17年(1589年)、
会津蘆名氏と米沢伊達氏との
決戦地となったことで知られており、
原の中央、近世会津藩が鷹狩などを行なった際に
藩主が布陣したという御上覧場には、
摺上原合戦での葦名方の
金上盛備、佐瀬種常とその子常雄の武勲を称え、
会津八代藩主松平容敬が建立した
三忠碑が残されています。
三忠碑(さんちゅうひ)とは、
天正17年(1589年)に
起こった摺上原の戦いにおいて
主君の危急を救うために
戦死した蘆名氏の家臣三名
(金上盛備・佐瀬種常・佐瀬常雄)の
忠誠心を後世に伝えるために建てられた石碑です。
嘉永3年(1850年)に
会津藩主である松平容敬が古戦場跡に建立しました。
碑文は儒学者・高津泰の撰で、
書は唐の顔真卿の書体を集めて刻んだとのことです。
碑は福島県耶麻郡猪苗代町長田の
五十軒集落の北側に位置しており、
この辺りは江戸時代は
二本松街道が通っていました。
なお、碑は現在、
猪苗代町史跡に指定されています。
【町指定史跡 三忠碑】
【所在地】
〒969-3283 福島県耶麻郡猪苗代町長田
【合戦までの経緯】
天正12年(1584年)に
伊達家の家督を継いだ伊達政宗は
積極的な勢力拡大策を採用しましたが、
このために複雑な血縁関係で
結ばれている奥州や北関東の諸大名、
蘆名家や佐竹家を敵に回す事になりました。
天正13年(1585年)には
畠山義継のために伊達政宗の父・伊達輝宗が横死。
これにより伊達輝宗の存在のために
確立していた伊達家周辺の
諸大名との外交関係は大幅に後。
更に伊達政宗は家督を継いで
1年とさしたる実績も権力基盤もなく、
孤立無援に近い状態でした。
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【人取橋の戦い】
伊達輝宗の死去を好機とみた
佐竹義重ら反伊達勢力は
岩城常隆、石川昭光、二階堂家、蘆名家と連合し、
伊達政宗を攻めました。
伊達政宗は連合軍の圧倒的兵力の前に押さていましたが、
佐竹軍内で義重の叔父・佐竹義政(小野崎義昌)が
裏切りで殺され、
常陸に里見家が侵攻しようとしたため、
連合軍は解散して撤退しました。
その後、伊達政宗は天正16年(1588年)の
郡山合戦でも佐竹家・蘆名家を
中心とした連合軍と戦い、
これも引き分けに終わっています。
【蘆名家の事情】
反伊達勢力の主力をなす蘆名家は
当時、深刻な事情を抱えていました。
天正3年(1575年)に蘆名盛興が死去し、
嗣子がなかったため二階堂家から
人質としてあった盛隆が家督を継ぎました。
天正8年(1580年)には隠居の
蘆名盛氏が死去し、
蘆名盛隆も天正12年(1584年)10月6日に
側近の大庭三左衛門
(相模大庭御厨を支配した大庭氏の子孫とも)
に暗殺されたのでした。
このため蘆名家は蘆名盛隆の
生後1か月の遺児である亀王丸が
継ぐ事になるのですが、
その亀王丸も天正14年(1586年)11月21日に
3歳で夭折してしまいました。
他家から養子を迎えることになり、
候補に挙げられたのが
伊達政宗の同母弟・小次郎と
佐竹義重の次男である義広でした。
小次郎と義広は政宗の曽祖父であえる
伊達稙宗の血を受け継いでおり、
その伊達稙宗は蘆名盛氏の叔母を
正室にしていたのです。
つまり、曽祖母を介して両者は
蘆名家の血統を受け継いでいたのでした。
血統も年齢も互角である両者の対立は、
そのまま蘆名家の家臣団の分裂にもつながったのでした。
小次郎には蘆名一門衆の猪苗代盛国、
蘆名宿老の四天の大半、外様の国人領主などが味方し、
一方義広には蘆名一門衆で執政である
金上盛備が味方していました。
金上盛備は執政として外交も担当しており、
当時中央で政権を確立していた
豊臣秀吉と誼を通じており、
その豊臣秀吉との関係を背景にして
小次郎の派閥を切り崩し、
義広を蘆名家の新当主としました。
その結果、義広が蘆名家に入嗣すると
同時に佐竹家から転身してきた
大縄義辰らにより、
小次郎派に対する粛清が開始されました。
四天の宿老家では佐瀬家を除く
三家が中枢から排除されて失脚。
また小次郎を支持した国人層は
遠ざけられて佐竹家から転身した
家臣で中枢は占められ、
これは蘆名家の内訌をさらに
激化させる事につながっていきました。
伊達政宗が蘆名家の居城である
黒川城を攻めるには、
猪苗代湖の北にある猪苗代城を
落とさなくてはなりませんでした。
当時の猪苗代城主は猪苗代盛胤で、
天正13年(1585年)に
父の猪苗代盛国から
家督を譲られて城主になった人物です。
しかし猪苗代盛国は隠居ながらなおも
隠然たる影響力を持っており、
先の継嗣争いでも小次郎派に与していました。
ところが継嗣争いで敗れ、
また猪苗代盛胤とも不仲になり、
隠居を次第に後悔するようになっていきます。
また猪苗代盛国は後妻が生んだ
猪苗代盛胤の異母弟・亀丸を溺愛し、
猪苗代盛胤を廃嫡して亀丸に
家督を譲りたいと思うように
なっていたとされています。
そのため天正16年(1588年)5月10日、
猪苗代盛胤が黒川城に出仕している間に
猪苗代盛国は猪苗代城を乗っ取ったのでした。
家臣の大半は猪苗代盛国に従い、
あくまで猪苗代盛胤を支持する家臣は斬られ、
激怒した猪苗代盛胤は
猪苗代盛国を攻めましたが、
猪苗代城は奪還できず、
金上盛備が仲介に入って
ひとまず父子は和睦したのでした。
伊達政宗はこの猪苗代盛国の後妻に近づきました。
そして後妻を通じて猪苗代盛国に内応を呼び掛け、
猪苗代盛国が遂に応じたということです。
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【前哨戦】
天正17年(1589年)4月22日、
伊達政宗は米沢城を出発して
翌日に大森城に入ります。
当初は郡山合戦以降田村氏の所領を巡って
対立を続けていた岩城常隆が4月15日に
田村郡に侵攻したことに対応するものでした。
が、24日になって蘆名氏に仕えていた
片平城の片平親綱(大内定綱の弟)が内通すると、
伊達政宗は蘆名攻めの好機と捉え、
さらに二本松城に入城して
伊達領のほとんどから兵をかき集め、
2万の大軍を編成したのでした。
5月3日、伊達政宗は南下して本宮城に入城。
5月4日、片倉景綱を先鋒に
大内定綱、片平親綱、伊達成実ら伊達軍は
猪苗代湖から東に4里の地にある
安子島城に迫り、
城主の安子ヶ島治部はすぐに開城。
5月5日、伊達軍は安子島城から西に
1里の地にある高玉城を攻城。
城主の高玉常頼は伊達軍相手に
果敢に応戦しましたが
圧倒的兵力の前に落城し、
高玉常頼夫妻や娘婿の荒井新兵衛夫妻以下
60余名の城兵は
悉く撫で斬りとされたということです。
そのまま伊達軍は越後街道を西に向かって
猪苗代・黒川に迫るのが普通ですが、
ここで伊達政宗は進路を変えて急に北上。
そして5月18日には伊具郡の金山城に入城。
ここは反伊達勢力のひとつである
相馬領と接する城でした。
この時、相馬義胤は岩城常隆の要請を受けて
田村郡に兵を進めていましたが、
いきなり伊達軍主力が
思いもよらない場所に現れ、
しかも5月19日には相馬領の駒ヶ嶺城を
落としてしまったのでした。
しかも5月20日には蓑首城も落城し、
城代の泉田甲斐は伊達政宗に降り、
杉目三河や木崎右近らは討死。
このため、相馬義胤は田村郡侵攻を諦めて
引き返しましたが、
その時伊達政宗はすでに戦後処理を
亘理重宗に任せて相馬領から撤退。
伊達政宗の目的はあくまで
相馬家の参戦阻止が目的であり、
それは果たせたのでした。
伊達政宗は主力を率いて南下し、
安子島城に戻りました。
そして6月1日、
今まで態度を明確にしていなかった
猪苗代盛国が遂に
亀丸を伊達政宗の人質に差し出して
恭順したのでした。
この時、蘆名軍は佐竹や二階堂ら
諸氏の軍が合流して2万近くに増大して
小倉城まで進出していました。
ところが猪苗代盛国が離反した事で
伊達政宗は直接、
黒川城に迫る事が可能になったのです。
しかも伊達政宗は米沢城から
原田宗時の別働隊を米沢街道沿い
に南下させて黒川城に迫らせていました。
蘆名家は東と北の両方面から
敵に迫られる事になったのでした。
蘆名軍はやむなく黒川城に撤退したのでした。
政宗は6月3日の日没後、
重臣の反対を押し切って
雨中の夜間行軍を強行し、
6月4日の午後に猪苗代城に入城。
また別働隊を率いる原田宗時も、
蘆名方の菅原城に進軍を阻まれる事になりました。
【摺上原合戦】
6月5日、蘆名軍は猪苗代城から
西におよそ2里の地にある
高森山に本陣を置いて
伊達軍を待ち構え、
挑発のため、猪苗代湖畔の民家に放火しました。
これに応じて伊達政宗も猪苗代城から出撃し、
猪苗代盛国を先鋒にして
蘆名軍に攻めかかりました。
この時、伊達軍は2万3000人、
対する蘆名軍は別働隊を警戒して
黒川城に留守を残したため、
1万8000人と伊達軍が
やや有利な状況でした。
両軍ともに陣形は
魚鱗であったと伝わっています。
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摺上原は緩やかな丘陵地帯ですが、
開戦当初は強風が西から東にかけて
吹いていたとのことです。
そのため砂塵が舞い上がり、
東に陣取る伊達兵はまともに
目を開けていられない状態だったそうです。
そこに蘆名軍の先鋒である
猪苗代盛胤が攻めかかります。
因縁ある猪苗代親子は
同族間で激突することとなったのでした。
蘆名軍は実質指揮を執るのは
大縄義辰ら佐竹氏から附属された家臣であり、
第1陣は猪苗代盛胤、
第2陣は金上盛備と佐瀬種常・常雄、松本源兵衛ら、
第3陣は富田氏実と佐竹の援軍、
第4陣は岩城・二階堂・石川・富田隆実らでした。
これに対し、伊達軍は
第1陣は猪苗代盛国、
第2陣は伊達成実と片倉景綱、
第3陣は片平親綱、後藤信康、石母田景頼、
第4陣は屋代景頼、白石宗実、浜田景隆、
鬼庭綱元らでした。
当初は風向き、そして猪苗代盛胤や
金上盛備らの活躍で
蘆名軍が圧倒的に有利でした。
ところが第3陣の富田隊を含め、
松本・平田ら重臣衆や
援軍による後詰め諸隊は
動かずに傍観を決め込み、
さらに風向きが東から
西に変わったことを機に、
守勢に回っていた伊達軍が一斉に攻勢に出ました。
津田景康が鉄砲隊を率いて
蘆名軍の真横から狙撃したため、
蘆名軍の足並みが大いに乱れたとのことです。
しかも傍観を決め込んでいた富田氏実が、
伊達軍と戦わずに西に向かって、
独断で撤退を開始しました。
もともと蘆名軍は諸氏連合の寄せ集めであり、
劣勢になれば自軍の被害を惜しんで
すぐに撤退します。
それは先年の人取橋・郡山らの合戦でも
実証済みでした。
また、これら傍観・撤退組は
佐竹氏出身の蘆名義広の
養子入り当主相続の際、
伊達氏からの養子を迎える意見を持った
対立派閥でありました。
故にそれ以降蘆名家中では
蘆名義広擁立派閥や
佐竹氏から送り込まれた家臣団により
冷遇されていた諸氏だったのでした。
富田隊の撤退に続いて
二階堂隊、石川隊も撤退しはじめました。
こうなると蘆名義広も撤退せざるを得ず、
蘆名軍は総崩れとなったのでした。
摺上原から黒川に逃れるには、
日橋川を渡るしか道はありませんでした。
蘆名義広は渡ることができましたが、
富田氏実は自軍が渡り終えると橋を落としました。
そのため、逃げようとする
蘆名軍は逃げ道がなくなったのでした。
最も日橋川の橋を落としたのは
伊達軍の工作隊によるものという説があります。
【戦後・蘆名家】
蘆名家はこの摺上原合戦で事実上壊滅しました。
金上盛備、佐瀬種常・常雄らは戦死し、
日橋川で溺死した者は1800余、
伊達軍に討ち取られた兵は
3580余という未曽有の数となったのでした。
このため逃亡兵も相次ぎ
守備兵力を確保できず、
6月10日の夜に蘆名義広はやむなく
黒川城を捨てて常陸の父のもとに逃走しました。
これにより、戦国大名としての
蘆名家は滅亡したのでした。
【戦後・伊達家】
伊達政宗は6月6日に塩川に至り、
6月7日には菅原城を落とした
原田宗時の別働隊と合流して周辺を制圧しました。
そして6月11日に黒川城に入城しました。
蘆名家の旧臣ら、いわゆる富田氏実、
長沼盛秀、伊東盛恒、松本源兵衛、
横沢彦三郎、慶徳善五郎らは
伊達政宗に恭順を誓いました。
こうして会津の大半は伊達政宗の支配下に入り、
伊達政宗は奥州の覇者となったのでした。
けれども、蘆名家の旧臣全てが
降ったわけではありません。
奥会津の中丸城主・山内氏勝や
久川城主・河原田盛次らはなおも抵抗し、
さらに石川・二階堂など
親蘆名家の豪族はなおも
伊達家に抵抗し、
全てが平定されるのは
年末までかかる事になったのでした。
伊達政宗は家臣宛と見られる7月5日の書状に
「為御満足候」と書くなど、
田村勢の勝利に満足していたとみられています。
けれどもこの伊達政宗の行動は
天正15年(1587年)に
豊臣秀吉が発令した「惣無事令」
を無視する行動でした。
このため、天正18年(1590年)の
小田原征伐で伊達政宗は豊臣秀吉に
旧蘆名領など摺上原の勝利で得た所領を没収されました。
会津若松城(鶴ヶ城)~日本100名城、蘆名氏が築城、伊達・上杉・蒲生・加藤・保科・松平と続いた天下の名城。
鴫山城~約600年前に築城された長沼氏の城跡、自然の地形を巧みに利用した山城です。
猪苗代城 ~三浦一族で蘆名氏と同族の猪苗代氏が築城し約400年間支配、江戸時代は会津藩の重要拠点でした。
伊達政宗~独眼竜・東北の覇者~内向的だった子供が成長し、とことん人生を楽しんだ生涯!
須賀川城跡~二階堂氏が室町時代に築城、やがて伊達氏と争い去っていきます。
二本松城~国史跡、日本100名城・日本さくら名所100選、二本松少年隊の悲話があります。
三春城(続100名城)~仙道地域の拠点として戦国時代に田村氏が築城し、江戸時代は三春藩となりました。
芦名城~戦国大名・蘆名氏の発祥の地であり、三浦一族の本拠地である衣笠城の支城でした。
佐原義連と相模・佐原城、一ノ谷の合戦「鵯越の逆落とし」一番乗りの武勇で有名、会津・蘆名氏の祖です。
向羽黒山城(続100名城)~蘆名盛氏が築き、上杉景勝・伊達政宗・蒲生氏郷も改修した東北最大級の要害です。
黒川西館~会津若松城下町の発祥の地にあった伊達政宗が母と弟に毒殺されかけた館跡。
会津新宮城跡~三浦一族の佐原盛蓮の六男である新宮氏が築城、国の史跡です。
会津鉄道会津線「会津田島」駅にはC11形蒸気機関車254号機が静態保存されています。
翁島駅(旧駅舎)と日本硫黄沼尻軽便鉄道の車両(静態保存)~猪苗代湖畔の緑の村にあります。
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