【三太刀城】
【所在地】
広島県三原市本郷南4
詳細は不明です。
土肥遠平が居城したと伝えられています。
三太刀城は沼田川に面した
比高30m程の丘陵に築かれていたとのことです。
この丘陵は南側の谷間を囲むような形の山で、
「広島県中世城館遺跡総合調査報告書」
にも遺構は描かれておらず、
丘陵の谷間を利用した居館だったのではないかと
推測されているとのことです。
三原市本郷町本郷の
三太刀遺跡(みたちいせき)の南側部分で
中世の館跡を示す囲い跡が見つかりました。
14世紀前後の遺構とみられ、
約45cm幅の溝で、
底に直径20cmほどの穴が
約1m間隔に並んでいたとのことです。
竹や木を編んだ「柴(しば)垣」跡で、
穴は支柱の跡らしいとのことです。
遺跡の場所は、小早川氏の最初の拠点とされ、
「御館(みたち)」が語源という
地名のいわれも裏付けられる、とのことです。
【御館(みたち)について】
関西では領主の居館のことを土居(どい)と称します。
これに対して関東では御館(みたち)と称します。
この「みたち」が地名になっていることから、
関東の相模から入った土肥遠平(小早川遠平)が
最初の頃に建てた屋敷跡ではないかと推測されるように
なったとのことです。
三太刀城跡からは高山城跡と新高山城跡が見えます。
【土肥遠平】
土肥 遠平(どひ とおひら)は、
平安時代後期から鎌倉時代にかけての武将で
鎌倉幕府御家人でした。
土肥実平の嫡男です。
土肥小早川氏の始祖となります。
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【生誕】
不明
【死没】
嘉禎3年9月5日
(1237年9月25日)
【改名】
土肥遠平⇒小早川遠平
【別名】
弥太郎、万寿冠者
【戒名】
天祥院広山寛公
【墓所】
広島県三原市の米山寺
【官位】
筑後守
【幕府】
鎌倉幕府
【主君】
源頼朝⇒頼家⇒実朝
【氏族】
桓武平氏良文流土肥氏(小早川氏祖)
【父】
土肥実平
【兄弟】
遠平、
新開実重(⇒武蔵の新開氏に養子へ)
【妻】
正室:万劫御前(伊東祐親の娘、工藤祐経前妻)、
妙仏尼(伝源頼朝の娘)
【子】
維平、伊東祐時室、三浦義村室
【養子】
小早川景平
【土肥遠平の生涯】
父である土肥実平に従い、
相模国土肥郷に隣接する早川荘を領し、
小早川村に館を築いたことから
後に小早川を名乗るようになりました。
【石橋山の戦い】
源頼朝方の有力豪族として治承4年(1180年)、
源頼朝の挙兵に父である土肥実平とともに参加します。
その主力として戦いましたが、
石橋山の戦いで敗北しました。
源頼朝が安房国に脱出する際には使者となり、
北条政子に源頼朝が無事であることを
知らせたとのことです。
【源平合戦】
源平合戦(治承・寿永の乱)では、
源義経らとともに
平家追討のために西国に下ります。
平家滅亡後はその功により
安芸国沼田荘等の地頭に任命されます。
平賀義信の子景平を養子に迎え、
小早川景平と名乗らせて
沼田荘を相続させ、
相模国内には嫡男である
土肥維平を残して土肥宗家と所領を相続させました。
【和田合戦】
けれども、建保元年(1213年)、
幕府内の勢力争いから和田合戦が勃発します。
和田氏と血縁関係にあった
土肥氏は土肥維平が和田方に加わりましたが、
敗北してしまいます。
土肥維平は囚われて同年9月に処刑されました。
土肥遠平はこの戦いに無関係を貫き通し、
土肥郷と沼田荘を引き続き所領としました。
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【相模から安芸国沼田荘へ】
土肥維平の三男である維時は
辛うじて生き延びましたが、
土肥維平の父の土肥遠平が
養子である小早川景平の継承していた
安芸国沼田荘に下向したこともあり、
その後は、相模における
土肥氏の勢力は失われていきます。
【墓所は米山寺】
土肥遠平は沼田荘で人生を終えたと思われています。
墓所は小早川氏歴代の墓所がある米山寺です。
(2021年2月28日に墓所の復旧工事が終わりました。
2021年6月8日に「米山寺のしおり」の一部を
改定したそうです。
墓所の柵内部は立ち入り禁止で
柵の外からの参拝となります。)
【所在地】
〒723-0146 広島県三原市沼田東町納所460
また妻の天窓妙仏尼(寺伝では頼朝の娘)
を弔うために棲真寺
(広島県三原市大和町平坂)を
父の土肥実平と共に創建したとのことです。
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