【通化寺(つうけいじ)】
大同2年(807年)の創建です。
黄檗宗の寺で、本尊は観世音菩薩です。
毛利氏家臣の天野隆重夫妻の墓、
天野元嘉夫妻の墓、
そして阿川毛利氏の祖となった
繁沢元氏の墓(毛利元氏の墓)があります。
幕末の遊撃軍陣営地で、
高杉晋作が「遊撃軍諸君即吟」と
題する詩を残しています。
境内には雪舟作と伝われている庭園、
安倍真三内閣総理大臣揮毫の石碑などがあります。
慶応元年(1865年)年より、
幕府軍による征長に備え、
東境の守りの要として遊撃隊の本陣がおかれました。
<繁沢元氏の墓(毛利元氏の墓)入り口>
繁沢元氏の墓(毛利元氏の墓)は少しわかりにくい場所にあります。
駐車場奥の小径?(藪多し)を歩きます。
【所在地】
〒7420413
山口県岩国市周東町上久原1957
【交通アクセス】
山陽自動車道玖珂ICより車で約10分
JR岩徳線 周防高森駅より車で10分
【駐車場】
あり
【周防 天野氏館跡】
通化寺の近くにあります。
慶長年間(1596年~1615年)に
天野元嘉によって築かれました。
天野元嘉は安芸国金明山城天野氏の家系で、
天野隆重の五男となります。
天野氏館は現在の久田児童公園の
ある辺りに築かれていました。
平地にある城館としては珍しく、
「未指定文化財総合調査報告書 史跡-中世-編」
に掲載されている地図の位置と、
写真の位置があっているとのことです。
掲載されている写真は
県道7号線沿いにある
上岡商店の付近とのことです。
【遺構】
石垣
【所在地】
山口県岩国市周東町上久原字久田
【天野隆重】
天野 隆重(あまの たかしげ)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将です。
大内氏、のちに毛利氏の家臣となりました。
【出自】
安芸天野氏は、
藤原南家工藤氏の一族で
安芸国に下向し国人化しました。
天野隆重の系統は天野政貞から始まる
金明山天野氏にあたるとのことです。
同じく安芸の国人である
天野興次・天野興定・天野元定の一族の系統は
生城山天野氏です。
【生涯について】
文亀3年(1503年)、
安芸国金明山城を本拠とした
国人の天野元貞の長男として生まれました。
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【大寧寺の変】
はじめは大内氏に従属していましたが、
天文20年(1551年)
大内義隆が陶隆房(陶晴賢)の謀反によって
殺害されると、毛利元就に従属しました。
天野隆重の妻は
福原貞俊(毛利氏の筆頭重臣)の妹だったため、
毛利元就から厚い信頼を受けたとのことです。
その後はある程度の独立性を維持しながらも、
毛利氏に従い厳島の戦いや
防長経略など多くの戦いで活躍しました。
出雲国の尼子氏が滅亡すると、
月山富田城の城代を任されました。
永禄12年(1569年)、
尼子勝久率いる尼子再興軍が
隠岐国より出雲に上陸し、
出雲奪還へと行動を開始しました。
これに呼応し尼子氏残党も
一斉に蜂起してこれに加わり、
6000を超える人数が
尼子再興軍の勢力下に入りました。
当時、毛利氏はその主力を
北九州の大友氏との戦いに向けており、
月山富田城を守る兵は僅か300であったそうです。
けれども、天野隆重は城主の毛利元秋と
相談して一計を案じ、
降伏する旨の書状を送り、
尼子再興軍を月山富田城に誘引して奇襲をかけ、
秋上宗信率いる2000の兵を
散々に打ち破ったのでした。
この敗戦の後、
尼子軍は月山富田城に籠もる
毛利軍を伏兵により殲滅しようと画策し、
城下の浄安寺に山中(鹿介)幸盛らが率いる
1000の伏兵を置きました。
天野隆重はこれを察知して、
浄安寺に静かに近づき、
鉄砲や矢を寺内に猛射して、
またもや打ち破ったのでした。
これにより、尼子側の戦意は失い、
城攻めは膠着状態に陥ったのでした。
その後、毛利軍本隊が大軍を率いて
出雲国へ迫り、
尼子軍による月山富田城の包囲を突破し
城を開放したのでした。
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天正12年(1584年)3月7日に死去。
享年は長寿を全うし82歳でした。
墓所は通化寺にあり、
天野隆重夫婦は子である
天野元嘉夫婦と共に眠っています。
【天野元嘉】
天野 元嘉(あまの もとよし)は、
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将です。
毛利氏の家臣です。天野隆重の五男です。
母親は福原広俊の娘、
正室は今田忠久の娘(吉川広家養女)です。
【生涯について】
永禄5年(1562年)、
毛利氏に属する安芸国の国人である
天野隆重の五男として生まれました。
天正11年(1583年)5月27日、
父である天野隆重に所領を譲られ、
毛利輝元の承認を受けました。
また、同年6月5日には
吉川元春及び吉川元長父子に
伯耆国と因幡国に存在した
天野隆重の所領の相続を認められています。
五男である天野元嘉が
天野隆重の所領を相続したのは、
長男の天野元明が天正年間に
毛利輝元から天野隆重とは別に所領を与えられ、
三男の天野元祐は叔父である
天野隆良の家督を継いでいたためでした。
天正15(1587年)、
吉川氏を相続した吉川経言(後の吉川広家)へ
吉川元春及び吉川元長父子と
同様の昵懇を誓う起請文を提出し、
その返答として同年7月5日には
吉川経言から起請文を受けています。
天正20年(1592年)から始まる
文禄の役と慶長2年(1597年)から始まる
慶長の役の2度にわたって朝鮮に渡海しました。
帰国後、長い在番の功を賞され、
毛利輝元から感状を与えられました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後に
毛利氏が減封されて長門国と周防国へ移ると、
天野元嘉には周防国玖珂郡の久原村、
長野村、午王内村、中曽祢村、樋余地村に
1500石の所領を与えられ、久原村に居を構えました。
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長男の兵衛入道浄心は眼病であったため、
慶長17年(1612年)2月13日、
浄心の長男である天野元重に家督を譲り、
同年12月20日に死去しました。
享年は51歳でした。
【毛利元氏】
毛利 元氏(もうり もとうじ)・
繁沢 元氏(はんざわ もとうじ)は、
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将です。
毛利氏の家臣でした。
【出自】
弘治2年(1556年)、
吉川元春の次男として生まれました。
永禄11年(1568年)1月21日に
毛利輝元の加冠により元服し、
毛利元就より「元」の字の一字書出を受け、
元棟と名乗りました。
【仁保氏を相続】
永禄9年(1566年)11月21日に
周防国の仁保隆在が
男子のいないままに死去し、
元亀2年(1571年)に
仁保隆在の娘と婚姻し、
婿養子として仁保氏の1700貫の所領と
家督を相続しました。
【仁保氏は三浦氏庶流】
尚、仁保氏は三浦氏庶流です。
三浦為継の三男である通継が
平子氏を称して周防三浦氏の祖となり、
その子である平子重経は源頼朝の家臣でした。
平家滅亡後に周防国吉敷郡内仁保等の所領を得て、
建久8年(1197年)に
仁保荘、恒富保の地頭職に任じられ、
周防国に下向して土着し、やがて仁保氏を称しました。
【出雲国へ出陣】
永禄12年(1569年)、
尼子勝久や山中幸盛ら
尼子氏再興軍が出雲国へ侵攻します。
父親の吉川元春や兄の吉川元長らと共に
元氏も出雲国へ出陣しました。
永禄13年/元亀元年(1570年)には
父や兄と共に、尼子勝久や大内輝弘と手を組んで
毛利氏の後方を撹乱していた
三隅国定を討ち取っています。
その後、恩賞として
三隅氏の旧領3000貫を得ました。
天正3年(1575年)12月には
安芸国上下庄北の北就勝の旧領100貫の地、
天正5年(1577年)2月には
出雲国の秋上氏の旧領を与えられました。
また、後に山陰地方の肥中港
(現在の山口県下関市豊北町神田肥中)や
瀬戸崎港(現在の山口県長門市仙崎)
を押さえて、山陰の海運を担うこととなりました。
出雲国への出陣以降も中国地方各地を転戦し、
天正6年(1578年)の
播磨国上月城の戦い、
天正9年(1581年)の
因幡国鳥取城での戦い等に参加。
父や兄と共に救援として参陣した
鳥取城の戦いでは、
外曲輪への一番乗りを果たしています。
【繁沢元氏へ改名】
豊臣秀吉による九州平定に
元氏も従軍しましたが、
天正14年(1586年)11月15日に
父親の吉川元春、
天正15年(1587年)6月5日に
兄である吉川元長が従軍中に
相次いで病死しました。
弟の吉川経言(後の広家)が吉川氏を相続し、
元氏は輝元の意向によって
仁保氏の名跡を神田元忠に譲り、
苗字と名を改めて繁沢元氏と名乗りました。
吉川氏の後継が元氏でない理由としては、
元氏が病がちであったためとされています。
また吉川広家が家督相続した後、
しばらくは元氏と吉川広家は不仲であったようです。
天正19年(1591年)6月13日に
小早川隆景が吉川広家へ宛てた書状では、
元氏と融和することを勧めています。
【石見国浜田城】
天正15年9月6日には
石見国の福屋隆兼旧領である3000貫の地を
与えられて石見国浜田城を改修し在城しました。
その後も所領は増えて、
文禄5年(1596年)3月23日の
分限帳では、合計12351石9斗5合が
元氏の所領となっていました。
慶長2年(1597年)に
吉川広家から安芸国内の2000石を
元氏一代限りで分与されています。
なお、一般的には石見浜田城は江戸期に入った
1619年~1620年に
古田重治が築城したとありますが、
それ以前に既に石見浜田城はあったと推測されます。
【周防国へ】
慶長5年(1600年)、
関ヶ原の戦いで西軍が敗れ、
毛利氏が長門国と周防国の2か国に減封されると
元氏も周防国へと移り、
同年11月2日に玖珂郡内に
3166石を与えられました。
【関ヶ原以後】
慶長18年(1613年)、
嫡男の元景が名字を毛利に復することを許され、
周防高森から転封、
現在の豊北町阿川・滝部地区周辺を治めます。
子孫は長州藩一門家老の
阿川毛利家として存続しました。
なお、元氏は以後も「繁沢」
の苗字で通したようで、
慶長20年(1615年)4月14日の、
毛利元就の遺訓に従い、
毛利家へ別心を抱かない旨を誓った
連署起請文では「繁澤左近入道立節」
と署名しているとのことです。
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慶長19年(1614年)、
大坂冬の陣では、嫡男である毛利元景を
大坂へ出陣する毛利秀就に従軍させ、
元氏は留守居として萩城へ詰めました。
同じく大坂へ出陣したものの、
病によって帰国した毛利輝元は、
元氏の留守居の功を賞して
祝儀として小袖一つと両樽折を送っています。
寛永2年(1625年)12月22日には
隠居領として周防国玖珂郡の
天野伝三郎先知行地の内の
中曽根村200石を与えられました。
寛永8年(1631年)閏10月16日に死去し、
享年は76歳でした。
元氏の200石の隠居領は
末子の繁沢就真が相続しました。
なお、吉川元春の子の中では最も長命でした。
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