【藤田行政】
藤田 行政(ふじた ゆきまさ)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
明智光秀の重臣で明智五宿老の1人と伝わっています。
通称は伝五郎または伝五ですが、
2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では
藤田伝吾(ふじたでんご)と表記されています。
没年は天正10年6月14日(1582年7月3日)
【明智五宿老】
明智光秀が、織田信長に仕える前から
明智光秀に仕えており、
光秀が最も信頼していたとされる重臣たちです。
また、本能寺の変を起こす意思を予め
告げられていた家臣たちでもありました。
明智秀満(あけちひでみつ)
明智光忠(あけちみつただ)
斎藤利三(さいとうとしみつ)
藤田行政(ふじたゆきまさ)
溝尾茂朝(みぞおしげとも)
【生い立ち】
明智光秀の父・明智光綱の代から仕えたとされています。
けれども、前半生は不明点が多く、
生まれた年もわかりません。
明智光秀とともに畿内を転戦し、
やがて山城国静原山城主となります。
「信長公記」によれば、
明智光秀が本能寺の変を決意した際、
明智秀満、斎藤利三らとともに、
いち早くその決意を打ち明けられた
重臣の1人であったとされています。
【本能寺の変から山崎の戦】
本能寺の変では明智光忠、溝尾茂朝とともに
第二陣4000を率いていました。
本能寺の変後、大和郡山城主筒井順慶を、
明智方に与力するよう勧誘すべく郡山まで赴きましたが、
日和見の姿勢に終始する筒井順慶を
説き伏せることはできなかったそうです。
山崎の戦いでは明智軍右翼隊を率い、
体中六箇所に負傷し、淀まで退却しました。
翌日、勝龍寺城が陥落したとの報告を受けて、
自刃して果てたと伝わります。
なお、2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では
徳重 聡(とくしげ さとし)さんが演じられることが決定されています。
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【両軍の参戦武将】
「太閤記」によりますと、
明智光秀軍の構成は、以下の通りであったとのことです。
【明智軍(約1万6000)】
<美濃衆>
斎藤利三・柴田勝定:2000
<近江衆>
阿閉貞征・溝尾茂朝(明智茂朝):3000
<山城・丹波衆>
松田政近・並河易家:2000
<旧足利幕臣>
伊勢貞興・諏訪盛直・御牧兼顕:2000
<河内衆>
津田正時:2000
<明智光秀本隊>
藤田行政など:5000
<その他>
小川祐忠、進士貞連、可児吉長、
津田信春(=津田平蔵とする説あり)
【羽柴軍(約4万)】
高山右近・木村重茲:2000
中川清秀:2500
池田恒興・池田元助・加藤光泰:5000
丹羽長秀:3000(秀吉本隊の中に入れる資料もあるそうです)
織田信孝:4000(秀吉本隊の中に入れる資料もあるそうです)
秀吉本隊:20000
(羽柴秀長・黒田孝高・蜂須賀正勝・堀秀政
中村一氏・堀尾吉晴・神子田正治・蜂屋頼隆など)
【静原城・城谷山】
京都府京都市左京区静市静原町城山所在の城です。
標高470m、比高270m。
【遺構】
曲輪・土塁・石垣・堀切
【登城口】
静原神社の本殿裏から
城谷山山頂への登城道があるそうです。
但し、程なく道は谷筋のところで
途切れてしまうそうです。
この谷筋を渡らずに左手の尾根筋を直に登るそうです。
本格的なトレッキングの格好と、
飲料水・地形図・コンパス・縄張り図が必需品とのことです。
【歴史】
弘治3年(1557年)、
三好長慶が築城し、
土豪の山本氏を城代としました。
天正元年(1573年)、
足利義昭についた
山本実尚と明智光秀との合戦となります。
三ヶ月にも及ぶ攻防戦でしたが、
明智光秀の大軍にやがて降伏します。
其の後は明智方の城となりました。
藤田行政が城主となった「静原山城」は
検索しても出てきませんでしたが、
名称のよく似たこのお城を記しておきます。
この城は二つあります。
一つは三好長慶が築城した城で、
「城谷山」と呼ばれています。
もう一つは「シロヤマ」と呼ばれています。
【静原城・シロヤマ】
京都府京都市左京区静市静原町城山所在
【遺構】
曲輪・土塁・石垣・堅堀・堀切
【歴史と場所】
「城谷山」のある山頂部南東にのびる
尾根筋の先端部に築かれている山城です。
この城は、明智光秀が、
三好長慶築城の静原城・城谷山攻略のために
築いたものであると伝わっているそうです。
尾根筋を大堀切で遮断して、
城側には高さ3m程の土塁を築いて
防備を強化しているのが判明出来るそうです。
この大堀切はこの城跡で最も注目する場所との事です。
シロヤマの築城形式は、
山頂の城谷山の遺構と比較して、
曲輪や虎口の配置が明らかに
新しい時代の形式となっていたものであることが
わかるそうです。
分かる方はその比較として
登城されるとよいかもしれません。
【登城口】
静原小学校正門前から見て
正面左手の山が静原城のある山です。
正門前から農道を約200m程歩くそうです。
そして小川を渡って左手の農道を進むそうです。
やがて行き止まりになりますが、
行き止まりの先にある
水田のあぜ道を通って山を目指すそうです。
すると正面に農作業用の小屋があります。
この小屋の左手を通って山に入ります。
ここからは山になりますので、
登城される方は更に念入りに調べ、
出来れば、最新の情報を入手してから
登城されることをお勧めします。
【服装や持ち物】
かなりの急こう配があるとのことです。
城谷山での服装や持ち物に加えて、
軍手があると良いともされています。
あと、登城初心者向きではないとも言えます。
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【畿内】
畿内(きない、きだい、うちつくに)とは、
京(きょう)に近い国々を指す呼称として用いられているそうです。
なお畿内とは以下の5国であり、
近現代の行政区分では、
大阪府の大部分と、京都府の南部、
兵庫県の南東部、奈良県の全域に当たるとのことです。
山城国(やましろのくに)
(京都府京都市以南。ただし左京区広河原、右京区京北は山陰道丹波国)
大和国(やまとのくに)(奈良県)
河内国(かわちのくに・かはちのくに)(大阪府東部)
和泉国(いずみのくに・いづみのくに)(大阪府南西部)
摂津国(せっつのくに)
(大阪府北中部および兵庫県神戸市須磨区以東。
ただし高槻市樫田と豊能町牧・寺田は丹波国、
神戸市須磨区須磨ニュータウン西部と北区淡河町は山陽道播磨国)
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