【金ヶ崎城】
金ヶ崎城(かながさきじょう・かねがさきじょう)は、
福井県敦賀市金ヶ崎町にあった日本の城。
城跡は国の史跡に指定されています。
【概要】
敦賀市北東部、敦賀湾に突き出した
海抜86mの小高い丘(金ヶ崎山)に築かれた山城。
治承・寿永の乱(源平合戦)の時、
平通盛が木曾義仲との戦いのために
ここに城を築いたのが最初と伝えられています。
現在でも月見御殿(本丸)跡、木戸跡、曲輪、堀切などが残り、
1934年(昭和9年)には国の史跡に指定されています。
金ヶ崎城跡のふもとには、
足利氏と新田義貞の戦いで城の陥落とともに捕縛された恒良親王と、
新田義顕とともに自害した尊良親王を祀った「金崎宮(かねがさきぐう)」があります。
その「金崎宮(かねがさきぐう)」は現在は「恋の宮」として有名となっています。
【金崎宮】
金ヶ崎城址の麓にあります。
恒良親王と尊良親王を祭神としています。
約1000本のソメイヨシノがあり桜の名所として知られており、
4月1日~15日には神事・花換まつりが行われます。
天筒山の北面にあり、周辺は金ヶ崎緑地として整備されていて、
山麓から本神社を通り山頂及び金ケ崎古戦場に到る遊歩道が整備されています。
<花換まつり>
「男女が花(桜)を交換すると幸せになる」という言い伝えがあり、
明治40年頃から開催されるようになったそうです。
毎年募った福娘から花を交換することで恋愛祈願となり、
(花は祈願後もらえます)。
そこから金崎宮が「恋の宮」と称されるようになりました。
<地図>
赤印1⇒金ケ崎城跡
赤印2⇒金ケ崎宮
青印⇒最も近い駐車場(未舗装)・金前寺付近
<駐車場>
<金崎宮及び金ケ崎古戦場への道・階段>
<金崎宮の鳥居>
まずは金崎宮へ参拝します。
<敦賀の町並みと赤レンガ倉庫>
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【南北朝時代・金ヶ崎の戦い 】
金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)は、
南北朝時代の延元元年/建武3年(1336年)から
延元2年/建武4年翌(1337年)にかけて、
越前国金ヶ崎城(福井県敦賀市)に籠城する新田義貞率いる南朝方の軍勢と、
それを攻撃する斯波高経率いる北朝方の軍勢との間で行われた戦いです。
延元元年/建武3年(1336年)10月13日、
足利尊氏の入京により恒良親王、尊良親王を奉じて
北陸落ちした新田義貞が入城、直後、
足利方の越前守護斯波高経らの軍勢に包囲され兵糧攻めにされます。
延元2年/建武4年(1337)2月5日、
義貞らは、闇夜に密かに脱出し、
杣山城(福井県南条郡南越前町)で体勢を立て直します。
2月16日、義貞は金ヶ崎城を救援しようとしますが、
敦賀郡樫曲付近で足利方に阻まれてしまいます。
3月3日、足利方が城内に攻め込み、
兵糧攻めによる飢餓と疲労で城兵は次々と討ち取られるてしまいます。
尊良親王、新田義顕(義貞嫡男)、城兵300名は城に火を放ち自害、
恒良親王は捕縛され、3月6日、落城します。
延元3年/暦応元年(1338年)4月(旧暦)には
越前の軍事的主導権を握った義貞に奪還されますが、
その後、足利方の越前平定により、
越前守護代甲斐氏の一族が守備、敦賀城と称しました。
<絹掛神社>
ここも参拝しました。
<絹掛神社>
<尊良親王御墓所見込地>
<尊良親王御墓所見込地・当地>
<月見御殿跡>
山頂到着。
訪れた日は保育園の遠足かつ中学校の職場体験だったみたいです。
園児たちのはしゃぐ可愛い声と「手持無沙汰~」気味の中学生男子が
対照的でした。
<敦賀新港>
月見御殿跡からの眺めです。
月見御殿は実は物見の役割だったかもしれません。
本当の本丸はもっと別の場所、かもしれないと
訪れて思いました。
<金ケ崎古墳>
主に近畿地方より西側の地域で、
中世以前の時代から築城された城の中には、
古墳だった場所であることも少なくありません。
<三の木戸跡>
<二の木戸跡>
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【室町時代・金ヶ崎の戦い】
長禄3年(1459年)5月13日、
守護斯波氏と守護代甲斐氏の対立が深まり、
やがて長禄合戦に発展し、
古河公方足利成氏征討の幕命を受けた
斯波義敏は兵を引き返して金ヶ崎城を攻撃するも、
甲斐方の守りは堅く、義敏方は大敗しました。
この戦いは8代将軍足利義政の怒りを買い斯波義敏は失脚しました。
【戦国時代・金ケ崎の戦い】
戦国時代の元亀元年(1570年)には、
織田信長と朝倉義景との戦闘が起こりました。
金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)または
金ヶ崎崩れとも呼ばれ、戦国史上有名な織田信長の撤退戦です。
朝倉氏が越前を掌握した後は
朝倉氏一族の敦賀郡司がここを守護していました。
元亀元年(1570年)4月26日、
援軍が遅れたため、郡司朝倉景恒は織田信長に対し開城します。
しかし、浅井長政が離反して近江海津に進出し挟撃戦になったため、
織田信長は池田勝正隊3000を主力に、
明智光秀と木下藤吉郎(豊臣秀吉)に殿(しんがり)を任せ、
近江朽木越えで京に撤退します。
【天筒山城】
天筒山城(てづつやまじょう)は、
金ヶ崎城の枝城で標高約171mの天筒山に構築された山城です。
金ヶ崎城とは稜線伝いに繋がっています。
元亀元年4月25日、織田軍(10万人)に攻め込まれ、
双方数千の戦死者が出る戦いとなったが陥落し、
朝倉景恒は金ヶ崎城に陣を引くことになりました。
現在は公園化されており、曲輪、櫓台跡などが残っています。
【金ケ崎の退き口】
金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)は
戦国時代の1570年(元亀元年)に起きた、
織田信長と朝倉義景との戦闘のひとつです。
金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)または金ヶ崎崩れとも呼ばれ、
戦国史上有名な織田信長の撤退戦です。
<金ケ崎古戦場跡>
【あらまし】
織田信長が越前(福井県)の朝倉義景を攻撃したところ、
同盟関係にあった妹婿の小谷城(琵琶湖東岸)の
浅井家の裏切りにあい、挟撃の危機に瀕します。
そのため、木下藤吉郎(豊臣秀吉)と、
信長の同盟軍の徳川家康が後衛となり、
(徳川家康については諸説あり)
更に明智光秀と池田勝正は背面より崩れそうになる兵をよくまとめつつ、
迅速に後退させることに成功します。
信長本隊が信長勢力地まで
帰還するのを援護したのがこの戦いのあらましです。
敦賀口における金ヶ崎城(敦賀市)攻略自体はすでに成功していましたが、
浅井家離反の情報を受けて、
おおよそこの地で信長軍の撤退が始まり、
木下藤吉郎(秀吉)の殿軍は最初にこの地を拠点にして撤退戦を行いました。
【金ケ崎合戦前】
『言継卿記』によりますれば、
永禄13年4月20日(1570年5月24日)、
織田信長・徳川家康連合軍は3万の軍を率いて京を出陣。
織田軍の武将のほか池田勝正・松永久秀といった近畿の武将、
公家である日野輝資・飛鳥井雅敦も従軍しています。
なお、出陣中の4月23日(1570年5月27日)に
元号が元亀と改元されています。
越前遠征に向かいましたが、「越前へ手遣い」(『多門院日記』)とする文面のほか、
「若州へ罷り越す」(『言継卿記』4月20日)と言う史料もあり、
信長から毛利元就に宛てた書状(『毛利家文書』)にも「若狭国武藤を成敗する」
という文意の行りがあるので、出陣の口実は若狭攻めでした。
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【合戦の経過】
4月25日(5月29日)、
越前の朝倉義景領に侵攻した織田・徳川連合軍は、
同日の天筒山城を皮切りに敦賀郡の朝倉氏側の城に攻撃をかけ、
翌日には金ヶ崎城の朝倉景恒を下します。
それに対し、朝倉軍は敦賀郡を半ば放棄するように
戦線が狭く防御に向いた地形である木ノ芽峠一帯を強化し、
防衛体制を整えます。
これには、敦賀郡の郡司で一門衆筆頭であった朝倉景恒と、
本家である朝倉義景や、同じ一門衆である
朝倉景鏡・朝倉景健らとの朝倉内部の序列争いが背景にあり、
朝倉景恒への援軍を故意に遅らせたとする説もあるともいわれています。
<浅井長政の裏切りで形勢逆転>
当初は織田方が優勢に合戦を進めていましたが、
織田信長の義弟である盟友北近江の浅井長政が裏切ったという情報が入ります。
『信長公記』によりますと、
はじめ信長は「虚説たるべき」としていましたが、
次々に入る知らせに事実と認めざるをえなくなり、撤退を決意。
織田・徳川軍は越前と北近江からの
挟み撃ちを受ける危機となったからでした。
織田軍が長政の裏切りを察知した理由については、
近江・若狭方面の外交・諜報を行っていた松永久秀が
浅井方の不審な動きに気づいて通報したと
『朝倉記』には記載がありますが、
信憑性については現在では不明とのことです。
また、有名である、
お市の方が両端を紐で結んだ小豆袋を信長に送り
長政の裏切りを知らせたと言う逸話についてですが、
これも現在では俗説という見方が有力となっています。
<金ケ崎城・焼米石出土跡>
<本当の殿軍は池田勝正と明智光秀かもしれない>
元亀元年(1570年)4月28日、
明智光秀は金ヶ崎の戦いで信長が浅井長政の裏切りで
危機に陥り撤退する際に池田勝正隊3000を主力に、
秀吉と共に殿(しんがり)を務め防戦に成功します。
撤退するにあたって、織田信長は金ヶ崎城に木下秀吉を入れておきます。
通説ではこの時、木下秀吉が殿軍に自ら名乗りをあげたとされていますが、
『武家雲箋』などによると、
殿軍(しんがりぐん)には秀吉より地位が高い
摂津守護の池田勝正や明智光秀がいたので、
秀吉が殿軍の大将を務めたという説には疑問視されており、
現在は秀吉が自分の手柄とするために書き換えたのではないかとも
見られています。
また、『寛永諸家系図伝』『徳川実紀』などでは
徳川家康もこれらに加わったとされていますが、
一次史料には家康の名は見当たらないそうです。
<織田軍の被害状況>
織田信長が撤退した後の織田諸将の行動は
非常に統率のとれたものであり、
朝倉軍につけいる隙を与えず
撤退時の被害を最小限に食い止めたとのことです。
「朝倉家記」に記されてる
織田軍の被害については、
「人数崩れけれども宗徒の者ども恙(つつが)なし」
『多聞院日記』では
「人数二千余も損歟ノ由」と諸説あります。
【金ケ崎での戦後】
織田信長は近江豪族の朽木元綱の協力もあり、
越前敦賀から朽木を越えて、京へ逃げ延びました。
京への到着は4月30日(6月3日)でした。
『継芥記』では
織田信長の供はわずか十人程度だったと記されています。
池田勝正率いる織田本隊も撤退に成功し、
京へとたどり着きました。
其の後、織田信長は論功行賞で
秀吉の貢献を称えて黄金数十枚を与えたそうです。
なお、他の武将の恩賞については残念ながら伝わっていません。
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<とある疑問>
この「金ケ崎の退き口」では、
秀吉ばかりがクローズアップされ、
他の武将、特に光秀についてはあまり出てきません。
けれども実際は、光秀も秀吉同様に
殿を務め果たしています。
どうも、そこにとある意図的なものを感じ取ってしまいます・・・。
<朽木元網と松永久秀>
『朝倉記』によると、
高島七頭の一族であった朽木元綱は
当初信長を殺すつもりでしたが、
松永久秀が元綱を必死の決意で説得して
翻意させたため京に帰還できたとされています。
<すぐに長政討伐へ!>
信長京到着の翌5月1日、信長は改修中の御所を視察するなど
窮地を脱してきた素振りも見せず平然と振舞って見せ、
5月9日、岐阜へと戻り軍勢を立て直し
長政討伐の準備にとりかかったのでした。
【金ケ崎城跡・遺構】
<堀切1>
<堀切2>
<金ケ崎城跡・手筒山城跡碑>
舗装された方の駐車場(手前の方)にあります。
<愛宕神社>
金崎宮の手前にある神社です。
元々は「愛宕大権現」であり、
古くから地元の人々の崇拝があったそうです。
「火防(ひよけ)の神」であったとされています。
山頂には古墳もあるので、
もしかしたらこの付近にあった元来の神社なのかもしれません。
散策所要時間:40~60分(手筒山城含まず)
敦賀の古社・氣比神宮です。
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安土城です。
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