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豊臣秀長~豊臣秀吉の実弟で右腕以上の存在、兄の天下統一に大きく貢献、惜しまれながら52歳で他界する。

中村公園 (名古屋)



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豊臣秀長

豊臣 秀長(とよとみ ひでなが / とよとみ の ひでなが)
または羽柴 秀長(はしば ひでなが)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。
豊臣秀吉の異父弟、同父弟説もあります。
豊臣政権において内外の政務
および軍事面で活躍を見せ、
天下統一に貢献しました。

最終的には大和・紀伊・和泉の三ヶ国に
河内国の一部を加え、約110余万石の
大名となるに至りました。
また官位も従二位権大納言に
栄進したことから、大和大納言と
尊称されました。豊臣秀吉は秀長を
隣に配して重用し、また秀長も
秀吉に異を唱え制御できる人物でした。
短期間で成長を遂げ、
徳川家康伊達政宗など
外様大名を抱える豊臣政権における
調整役であり、政権の安定には
欠かせぬ貴重な人物でした。

【生誕】
天文9年3月2日(1540年4月8日)

【死没】
天正19年1月22日(1591年2月15日)

【改名】
小竹(幼名)
木下長秀⇒羽柴秀長⇒豊臣秀長

【別名】
長秀、
通称:小一郎、美濃守、大和大納言

【墓所】
奈良県大和郡山市(大納言塚)
京都市北区大徳寺大光院

【官位】
従五位下、美濃守、従四位上、
参議兼右近衛権中将、従三位、
権中納言、正三位、従二位、権大納言

【主君】
織田信長⇒秀信⇒豊臣秀吉

【氏族】
木下氏⇒羽柴氏(豊臣氏)

【父】
竹阿弥

【母】

【兄弟】
智、秀吉、秀長、旭

【妻】
智雲院

【子】
小一郎(夭折)、大善院(毛利秀元室)、
おみや(豊臣秀保室)

【養子】
秀保、仙丸、
岩(名古屋山三郎の妹。小一郎室、後に森忠政室)

織田信長の時代】
天文9年(1540年)、竹阿弥の子、
秀吉の異父弟(一説に同父弟)として
尾張国愛知郡中村(現・名古屋市中村区)に
生まれました。
幼少時に秀吉が家を飛び出したため、
面識は少ないとみられています。

斎藤龍興との戦いでは、
合戦に参加する秀吉に代わって
城の留守居役を務めることが
多かったとのことです。
天正元年(1573年)、
秀吉が浅井氏を滅ぼした功により
長浜城主となると、
城代を務めることもありました。
この3年後、1576年には、
秀長の右腕となる藤堂高虎が仕官し、
この主従関係は秀長の養子である秀保が
早世するまで続きました。
天正2年(1574年)、
秀吉が越前一向一揆と
対峙して出陣できなかったため、
秀吉の代理人として
長島一向一揆討伐に出陣しました。
(「信長公記」)

天正3年(1575年)、
羽柴の名字を与えられます。

秀吉が織田信長の命令により
中国攻めの総司令官となると、
山陰道及び但馬国平定の指揮を
委ねられます。
黒田孝高宛の秀吉直筆の手紙に、
信頼の代名詞として
「小一郎」(秀長の通称)の名が
出るなど、秀吉陣営の最重要の人物に
成長していきました。
(黒田侯爵家文書)
天正5年(1577年)に
秀吉に従い播磨国に赴き、
その後は但馬攻めに参戦しました。
竹田城が斎村政広によって
落城(竹田城の戦い)すると、
城代に任命されます(「信長公記」)。




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天正6年(1578年)に
東播磨地域で別所長治が反旗を翻し、
兄と共に制圧に明け暮れることとなり、
支配の後退した但馬を
再度攻めることとなりました。
同年、黒井城の戦いに援軍として
参戦しました。
黒井城の石碑(駐車場)

【三木合戦】
天正7年(1579年)、
別所長治の三木城への補給を
断つため丹生山を襲撃。
続いて淡河城を攻めますが、
淡河定範の策により撤退しました。
けれども定範が城に火を放ち、
三木城に後退したため
補給路を断つことに成功します。
但馬竹田城より
丹波北部の天田郡、
何鹿郡に攻め入り
江田氏の綾部城を攻略し
落城に追い込んだとのことです。

天正8年(1580年)1月に
別所一族が切腹し、三木合戦が終戦します。
同年、秀吉軍が但馬国有子山城
落城させ、但馬国平定が完了しました。
戦後、但馬国7郡10万5千余石と
播磨国2郡を与えられました。
同年5月、有子山城に入りました。
祐豊の子山名堯煕は
羽柴家家臣として召し抱えられ
鳥取城攻めに従軍しました。
それに伴い但馬国人の多くは
羽柴家家臣となりました。

【鳥取城の戦い】
天正9年(1581年)3月に
毛利家から吉川経家が鳥取城に入城。
秀吉は鳥取城を取り囲み、
兵糧攻めが開始されました。
秀長も鳥取城の包囲する陣城の一つを指揮。
同年10月、吉川経家の切腹により終戦しました。

備中高松城の戦い】
天正10年(1582年)4月、
秀吉軍は備中高松城を包囲し、
水攻めを行いました。
秀長は鼓山付近に陣を張り参戦。
6月には水攻めの効果により、
城主・清水宗治が切腹しました。

【秀吉の時代】
天正10年6月2日(1582年6月21日)、
織田信長が明智光秀による
謀叛(本能寺の変)で死亡。
秀吉軍はすぐさま戦闘状態であった
毛利家と和睦協定を結び、
畿内へ撤退を開始。
秀吉の「中国大返し」に従って、
秀長も山崎の戦いに参戦、
黒田孝高と共に天王山の守備にあたります。




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【2ヶ国を拝領】
天正11年(1583年)、
賤ヶ岳の戦いに参戦。
美濃守に任官し、
播磨・但馬の2ヶ国を拝領して
姫路城と有子山城を居城にしました。

【秀次の信頼回復に尽力】
天正12年(1584年)、
徳川家康との間で
小牧・長久手の戦いが起きました。
秀長は守山に進軍し、
家康と連合を組んでいる
織田信雄を監視しました。
織田信雄との講和交渉では
秀吉の名代として直接交渉に赴いています。
この戦いでは甥・羽柴秀次が
失態により秀吉に叱責されましたが、
その後の紀伊・四国への遠征では
秀長と共に従軍し、
秀吉に対する秀次の信頼回復に尽力しました。
小牧・長久手の戦い

【紀州征伐】
天正13年(1585年)、
紀州征伐では、
秀次と共に秀吉の副将に任命。
紀州制圧後、秀吉から功績として
紀伊・和泉などの約64万石余の
所領を与えられました。
同年、居城となる
和歌山城の築城時に
藤堂高虎を普請奉行に任命しました。

【四国攻め】
同年6月、四国攻めでは
病気で出陣できない
秀吉の代理人として、
10万を超える軍勢の総大将に
任じられました。
けれども長宗我部氏の抵抗も激しく、
また毛利氏・宇喜多氏の合同軍のため
侵攻が遅れ気味となりました。
心配した秀吉から援軍の申し出が
なされましたが、
秀長は断りの書状を秀吉に送りました。
(「四国御発向事」)
同年閏8月、長宗我部元親を降した
功績を賞され、紀伊国・河内国に、
大和国を加増されて、
合計100万石で郡山城に入ります。
大和郡山城 門

【領国となった紀伊・大和・河内】
かつての領主・筒井定次
伊賀国へ転封となりました。
秀長の領国である
紀伊・大和・河内地方は
寺社勢力が強く、
決して治めやすい
土地柄ではありませんでした。
諸問題の解決に時に
苛烈な処置を辞さなかったものの、
後に大きな問題も
残さなかったところを見ると、
内政面でも辣腕であったことが窺えます。
現に大和入国と同時期に
盗賊の追補を通達(廊坊家文書)・
検地実施(諸家単一文書)・
全5ヶ条の掟の制定(法隆寺文書)を
行うなど多くの政策を実施しています。
また、大和の陶器・赤膚焼を
開窯するなど広い政策も行いました。




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【豊臣姓】
このころ豊臣の本姓を与えられます。
従二位、大納言の官位を得て、
大和大納言と称されます。

【郡山城】
天正14年2月8日(1586年3月27日)、
摂津国有馬湯山へ入りました。
(「多聞院日記」)
この頃から体調が崩れやすくなった
と思われ、この後も数度にわたり
湯治に訪れています。
また、湯治中に金蔵院・宝光院などが
見舞いとして訪れており、
本願寺顕如からも使者が訪れています。
同年10月26日(12月6日)、
上洛を拒み続けた徳川家康が
大坂に到着し、秀長邸に宿泊。
その晩、秀吉自ら家康の前に現れて
臣従を求める出来事が起きます。
これを記す文献は多く存在しています。
(「家忠日記」・「徳川実紀」)

【権限の委託】
天正14年(1586年)、
大友宗麟島津氏の圧迫により
窮地に陥り、秀吉の参戦介入と
救済を求めて上洛。
秀吉は大友宗麟をもてなし
「内々の儀は宗易(千利休)、
公儀の事は宰相(秀長)存じ候、
いよいよ申し談ずべし」と述べました。
豊臣政権の大名統制の権限が
秀長に委託されていたことが
判明したことでありました。
(「大友家文書録」)。

【北山一揆】
同年8月、奥熊野の地侍たちによる
一揆が発起しました。
秀長も出陣しましたが、
豪雪のため征伐は留まりました。
天正17年(1589年)には
一揆は鎮圧されました。

根白坂の戦い
天正15年(1587年)の九州平定では
日向方面の総大将として出陣。
耳川の戦いの舞台となった
高城を包囲すると、
援軍として駆けつけた
島津義弘宮部継潤の陣に
夜襲を仕掛けます。
継潤が抗戦している間に、
藤堂高虎・戸川達安らが合流します。
島津軍の夜襲は失敗に終わり、
島津軍が薩摩国に撤退しました。
その後、島津家久が講和に
秀長を訪ね、日向方面の進軍は終了。
この功績により、8月に
従二位権大納言に叙任されました。
けれども秀長は、九州征伐に参加した
大名に割高な兵糧を売り付けようとして
秀吉に止められています。

【熊野の材木2万本の着服事件】
天正16年(1588年)、
紀伊の雑賀において
材木の管理をしていた代官の
吉川平介が、秀長に売買を命じられた
熊野の材木2万本の代金を
着服する事件が起きました。
これは秀吉の耳に届き、吉川は処刑。
秀長自身も責任を問われ、
秀吉から翌年の年頭の挨拶を拒否されました。

【病の悪化】
天正17年1月1日(1589年2月15日)、
大坂城にて諸大名と共に、
秀吉に新年祝賀の太刀進上を行います。
(「後編旧記雑録」)
この後、秀長が大坂城を
訪れたという記録はないとのことです。
天正18年(1590年)
1月頃から病が悪化、
小田原征伐には参加できませんでした。
10月頃に秀次が秀長の
病気回復の祈願のため
談山神社に訪れており
(談山神社文書)、
両者の関係も良かったと見られています。




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【死去】
天正19年1月22日(1591年2月15日)、
秀長は郡山城内で病死しました。
享年52歳でした。
男子がいなかったため、
家督は養嗣子になっていた
甥(姉・智の息子、秀次の弟)の秀保に
継がせました。
郡山城には金子56000余枚、
銀子は2間四方の部屋に
満杯になる程の金銀が
備蓄されていたということです。
(多聞院日記)

戒名は「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」。
現在の大和郡山市箕山町に
「大納言塚」が伝わっています。
また大阪市中央区の豊國神社には、
兄・秀吉及び甥・秀頼と共に
祀られています。

秀長の家系は4年後の
文禄4年4月16日に
秀保が17歳で死去したことにより
断絶となりました。

【名称の変遷と官歴】
通説では幼名を小竹(こちく)と
称したとされていますが、
確認できる文書はないとのことです。
その後、小一郎(こいちろう)と改称し、
兄・秀吉に仕官した時には
木下小一郎長秀と名乗りました。

【人物像】
秀長は温厚な性格で、秀吉を補佐し、
彼の偉業達成に貢献しました。
また寛仁大度の人物で、
よく秀吉の欠点を補いました。
そのため諸大名は
秀長に秀吉へのとりなしを頼み、
多くの者がその地位を
守ることが出来ました。
寺社の多い大和を治めましたが、
大きな諍いもなかったことから
実務能力も高かったと考えられています。
もし寿命が長ければ、
豊臣の天下を永く継続させる
ことができたかもしれないと
評価されています。

【系譜】
【妻】
<智雲院>
秀長の正室。
秋篠伝左衛門の娘。
院号は慈雲院芳室紹慶

側室:
<興俊尼>
興福院旧地に五輪墓碑が残り、
藤誉光秀大姉の法号が記されます。

【実子】
<羽柴小一郎>
木下与一郎(与市郎)とも。
本能寺の変前後に夭折。

<大善院(おきく)>
秀長長女。母は興俊尼。
毛利秀元の正室。(1587~1609)。

<おみや>
秀長次女。天正19年(1591年)1月に
幼くして、従兄弟の秀保の正室となります。
秀長が、天正16年に長谷寺に寄進した金燈籠に
「和州大納言秀長公姫君三八(みや)女」
と刻まれている人物と
考えられています。




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【養子】
<藤堂高吉>
丹羽長秀の三男・仙丸。
秀吉の命で甥の秀保が
後継者となったため、
秀長家臣の藤堂高虎の養子となりました。

<豊臣秀保>
秀長の姉・智と三好吉房の次男。
秀長の実子おみやを正室に迎え、
秀長の後継者となりました。

<岩>
名古屋山三郎の妹。
秀長の実子・羽柴小一郎の正室となり、
小一郎の死後一旦
秀長の養女となります。
その後森忠政の継室となりました。

2023年NHK大河ドラマ
どうする家康」では
佐藤 隆太(さとう りゅうた)さんが
演じられています。

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徳川秀忠~江戸幕府2代将軍、幕藩体制の基礎を固め政権運営方針を次代に引き継ぐ。

淀殿~母はお市で浅井三姉妹の長女、波乱万丈の人生を烈火の如く駆け抜けました。

大谷吉継~石田三成とは深い友情で結ばれ真田信繁の岳父であり秀吉から才能を認められた知将。

藤堂高虎~渡り奉公人の代表格で主君とは対等に近し、築城三名人と称され藩政も長けていました。

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