城跡

小牧山城(小牧城)~織田信長が初築城し、小牧・長久手の戦いでは徳川家康が本陣を置きました。

小牧山城(小牧城)



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【小牧山城】

小牧山(こまきやま)は、
愛知県小牧市にある標高86mの山です。
かつて織田信長の居城であった、
小牧山城(日本の城)がありました。
現在は山全体が公園となっており、
桜の名所としても知られています。
公園の分類は「史跡公園」です。
史跡小牧山

小牧山城は織田信長によって、
美濃攻略の本拠地として
築かれた城です。
織田信長がはじめて
築いた城でもあります。
その後、織田信長は稲葉山城を陥落し、
岐阜城と改めて移住したため、
小牧山城は約4年間で
廃城となりましたが、
のちに豊臣秀吉徳川家康が戦った
小牧・長久手の戦い」では、
徳川家康がこの地に
本陣を置いたとされています。
徳川家康本陣 小牧山城

江戸時代には徳川家康ゆかりの地として
尾張徳川家が保護し、
入山が禁止されたこともあり、
山中の堀や土塁などが
きれいな状態で残っており、
日本の城郭史上、
貴重な資料となっています。
また近年の発掘調査によりますと、
石垣を用いた本格的な城であった
可能性が指摘されています。
現在は山頂に天守を模した
1967年(昭和42年)に
建てられた小牧市歴史館がありますが、
これは名古屋市在住の実業家が
寄贈したもので、
内部は資料館になっています。
織田信長期と徳川家康期の遺構が
混在するお城となっています。
小牧市歴史館

【城郭構造】
平山城

【築城主】
織田信長

【築城年】
永禄6年(1563年)

【主な城主】
織田氏、徳川氏

【廃城年】
永禄10年(1567年)

【遺構】
石垣、曲輪、井戸、土塁

【指定文化財】
国の史跡(史跡小牧山)

【概要】
小牧山城(こまきやまじょう)は、
濃尾平野の独立峰である
小牧山に築城された城で、
織田信長が美濃攻めを
終えるまでの4年間しか
使用されませんでした。
このため、急造の砦に近いものと
想像されていましたが、
近年の発掘調査の結果では、
城郭を取り巻く三重の石垣
(三段の石垣で一番下の段は腰巻石垣)
が発見されました。
主郭をめぐる石垣
そして城の南部の発掘調査では、
小牧山築城によって
移転してきた住民によって
営まれた町割も発見されました。
これにより小牧山城は
戦時急造の城ではなく、
清州城に代わる新たな拠点として
築かれた城郭であることが判明しました。
現在は小牧山城が
後に織豊系城郭と呼ばれる
城郭体系の原点であるとされています。




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なお南山麓から本丸のある
頂上に向かう位置に
は防衛に不向きな
大手道が設けられています。
途中の中腹から
折れのある道へと変化しており、
後の安土城の縄張りとの
類似性が指摘されています。
小牧山城 大手道

【構造】
標高86mの小牧山頂上に
本丸を築き、その周囲を
三重の石垣で守りを固め、
中腹も削平して数多くの
曲輪を構築しています。
史跡小牧山(小牧山城)

2005年に行われた
第2次試掘調査で
現在の大手道の地下に
永禄期の大手道があることが
発見されました。
永禄期の大手道は、
山側谷側にも
それぞれに石積を設け、
道の両端を区画していました。
小牧山城 道

道幅は約5mで、
道に並行して幅20cmの
排水溝を設置していました。
この構造は安土城の
正面にある大手道と
構造的に似通っており、
安土城が初見とされる
大規模な大手道は、
この小牧山城が最初であったと
推測されています。
小牧山城 大手口

小牧・長久手の戦いの際には、
陣城として大掛かりな
土木工事が行われました。
山の周囲全体を土塁と堀で囲み、
要所には防衛用の虎口を設けました。
小牧山城 虎口

【歴史】
【小牧山城築城以前】
小牧山築城以前は
尾張村を開拓した尾張氏の地でした。
元々天照国照の神聖な場であった事が
確認されています。
小牧山 吉五郎稲荷神社参道
現代の発掘結果等から、
寺院などの宗教関係の施設も
存在していたと考えられています。
また間々観音に残る縁起(寺院の沿革)では、
「元は小牧山に寺院(間々観音)
があったが、織田信長の命によって、
現在の地に移設された」とあるとのことです。
小牧山観音洞
間々観音
また、間々観音は
正式には「飛車山龍音寺」ですが、
この「飛車(ひくま)山」は
小牧山の古い呼び名の
ひとつであるとされています。




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【織田信長による築城と廃城】
織田信長は、永禄3年5月19日
(1560年6月12日)の
桶狭間の戦いに勝利した後、
念願の美濃国併呑を実現すべく、
早くもその3ヶ月後から美濃攻めを開始。
永禄5年1月15日(1562年2月18日)には
徳川家康と清須城において
いわゆる清洲同盟を結び、
尾張国東側の脅威が消滅しました。
これによって、織田信長は全力で
美濃国を攻める体制を整えるために、
美濃国に近い尾張国北方へ
本拠地を前進する策が
実施可能となったのでした。
この新しい本拠地に選ばれたのが、
広大な濃尾平野の中に
孤峰を保つ小牧山でした。
丹羽長秀を奉行として
小牧山山頂に城を築き、
永禄6年(1563年)7月には
主要兵力を小牧山の城に移しました。
「定光寺年代記」によりますと
城は織田信長により
「火車輪城」と名付けられたとのことです。
織田信長築城時の石垣復元

【小牧山移転の際の逸話】
織田信長家中の
小牧山移転の際のエピソードがあります。
清須から北方へ移転するという噂が
織田家中で囁かれ、
誰もが不服に思っていました。
そこで織田信長は一計を案じ、
小牧山よりさらに北方の
丹羽郡二ノ宮山
(現・愛知県犬山市楽田地区二ノ宮の本宮山)
に城を築き移転すると布告したとか。
当然、清須城内は反対一色となりました。
織田信長は反対意見が
十分に出た頃を見計らい、
家中の意見を吟味した結果として、
二ノ宮山よりは清洲城に近い
小牧山への移転に変更することを
申し渡したとのことです。
小牧山城
すると今度はほとんど
反対意見もなく、
皆が小牧山への移転に
同意したということです。
この計略は人間心理を
巧みに利用したものであり、
似たような逸話が古今東西に
存在するため真偽は
不明とのことですが、
文明年間以来、
約80年間にわたって
守護所として栄え、
家臣らが各々の屋敷を持つ
清須から他の地へ移ることへの
抵抗が大きかったことが推測されます。

【家臣団の作事の分担有】
2010年の発掘調査により、
本丸部分から織田信長の家臣である、
佐久間信盛を指す可能性の高い
「佐久間」と墨書された
石垣の石材が出土しました。
小牧山城 転落石
奉行の丹羽長秀一人が
築城の全てを取り仕切ったわけではなく、
家臣団にそれぞれ資材調達や
作事の分担があったことがわかりました。
また、織田信長が家臣を競わせ
築城を進めさせたと
推測する説があります。

【本格的な城郭と城下町】
小牧山城は、
4年間しか使用されなかったため、
「美濃攻略のための
(土塁などの簡素な作りによる)仮住まいの城」
と考えられていましたが、
2004年からの試掘調査で
城の主郭の四方を石垣で囲んだ
本格的な城であることが判明し、
当初織田信長は長期滞在も
考えていた可能性が指摘されています。
小牧山城 巨石石垣の露頭
また、山麓南側から西側にかけては、
清須から移転させた
城下町が形成されました。
小牧山城 城下町
移転後、織田軍は小牧山城を
本拠地として美濃への侵攻と
調略を繰り返し、永禄10年8月15日
(1567年9月17日)、
美濃斎藤氏の本拠地であった
稲葉山城は落城しました。
織田信長は稲葉山城に
拠点を移し城下町の機能を全て
移転させたため、
小牧山城は約4年間で
廃城となったのでした。




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小牧・長久手の戦い
天正12年(1584年)、
羽柴秀吉と徳川家康が戦った
小牧・長久手の戦いでは、
徳川家康がいち早く小牧山に
目を付けて本陣を置き、
遅れてきた羽柴秀吉
悔しがらせたといわれています。
この時、織田信長の築いた城跡の土塁、
空堀などに大規模な改修が施され、
「城」とみなせるほど
強固な陣地が築かれたとのことです。
小牧・長久手の戦いの際の小牧山城

羽柴秀吉の大軍も容易に手が出せず、
焦った池田恒興森長可
三河への無謀な長駆攻撃を敢行し、
長久手方面へ突出して
壊滅する事態となったのでした。
小牧・長久手の戦い

急造「小牧山城」は、
徳川勝利の一翼を担ったことになりました。
この一戦は、頼山陽により
「家康公の天下を取るは大坂にあらずして
関ケ原にあり。関ケ原にあらずして
小牧にあり」と称揚されたとのことです。
(「日本外史」)。

【その後の小牧山城】
徳川家康「御勝利御開運の御陣跡」となり、
一般の入山は禁止されました。
奮地を敬いこの山の下に舘舎を営み、
小牧御殿と名づけられました。
小牧山碑も建てられましたが、
今は残ってはいません。
現在残っている曲輪、
井戸跡が御殿敷地内にあったと
見られています。
小牧山稲荷神社
山と城跡は、江戸時代を通じて
尾張徳川家の領地として
保護を受け、管理されました。
元和9年(1623年)には、
尾張徳川家が上街道を整備する為、
山の南側にあった町を
東に移転させています。
中山道木曾路の宿驛(うまや)
として賑わいを見せました。
小牧村の中の小牧驛(うまや)で、
現在の小牧駅から真西に数100mの
場所であるとのことです。

<徳川宗睦源明公の墓碑>
尾張徳川九代藩主です。
名古屋藩中興の名君と称されました。
徳川宗睦源明公の墓碑

明治維新後も
尾張徳川家の所有地でしたが、
昭和2年(1927年)に、
時の当主徳川義親によって
国に寄付されました。
徳川義親氏の像

同年、国の史跡に指定されています。
現在でも山中の各所に
石垣、土塁、空堀、井戸跡、
曲輪、虎口や若干の石垣などが残り、
往時を偲ぶことができる城跡です。
小牧山城 遺構

【現在】
なお現在、小牧山山頂にある
「小牧城(小牧市歴史資料館)」は、
昭和42年(1967年)に
建設されました。
小牧山山頂からの眺め
また昭和22年(1947年)から
平成9年(1997年)までは、
山の東側の現在の史跡公園の位置に
小牧中学校
(建設の際に調査前の土塁や曲輪、
虎口の一部が壊された)がありましたが、
現在は別の場所に移転しています。




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続日本100名城
20177年4月6日、
続日本100名城(149番)に
選定されました。
※スタンプ設置場所は小牧市歴史館です。
が、2023年3月31日まで休館なので
下記になります。

【開催中のスタンプラリーについて】
・続日本100城スタンプ
・信長四城御城印ラリー
・日本どまんなかお城スタンプラリー
の3つについては、れきしるこまきに設置となります。
開催中のスタンプラリーについて 小牧山

【無許可・・・・】
2018年6月6日、
小牧市が大手道周辺の木を
伐採したのち文化庁の許可を得ずに
桜などを植樹するため掘削し、
遺構を破壊していたことが発覚しました。

【小牧山城史跡情報館】
2019年4月25日、
小牧市により
「れきしるこまき 小牧山城史跡情報館」
が開館しました。

<入場料>
常設展示室入場料
大人:
一般 100円、
団体(30人以上) 60円
中学生以下: 無料
※小牧山城史跡情報館常設展示室の
入場料で山頂の小牧市歴史館へも入場できます。

<開館時間>
午前9時~午後5時
(常設展示室(有料エリア)への入場は
午後4時30分まで)
※御城印のお買い求め、施設利用等は午後5時までです。

<休館日>
第3木曜日(但し祝日の場合は翌平日)
年末年始(12月29日~1月3日)

<お問い合わせ>
TEL (0568)48-4646
FAX (0568)75-4651

れきしるこまき(小牧山城史跡情報館)
〒485-0046 愛知県小牧市堀の内一丁目2番地

【小牧市歴史館(小牧城)】
現在ある小牧城の建物は、
昭和42年に名古屋市に住んでいた
実業家の平松茂氏が、
自身の財産を投じて建設し、
小牧市に寄贈したものとなります。
西本願寺の「飛雲閣」
(伝聚楽第の遺構)をモデルとしており、
昭和43年に開館しました。
小牧市歴史館(小牧城)
中世から現代にかけての
小牧市の歴史的資料が
各階に展示されているほか、
最上階は展望施設となっています。
入場料は大人100円、小中学生30円
(ただし土日祝日に限り小中学生は無料)。
開館時間は午前9時から午後4時30分。
休館日は毎月第三木曜日
(祝日の場合は、翌日)と
年末年始。
施設の管理運営者は
一般財団法人こまき市民文化財団。

なお施設の老朽化と
アスベストの使用の問題から、
2006年11月に改装工事が開始され、
展示物の追加や変更なども行なわれ、
2007年4月にリニューアルオープン。
また夜間にはライトアップが行なわれていました。
麓から山頂の歴史館までは、
徒歩で15~30分程です。
そして歴史館内の展示改装のため、
下記の期間で全館休館となります。
期間中、歴史館内への入館はできません。
また、関係車両の往来を
多数予定しているため、
通行にご注意くださいとのこと。

ただし、歴史館北側にある
屋外仮設トイレの使用は可能です。

休館期間:
2022年(令和4年)12月1日~
2023年(令和5年)3月31日

県営名古屋空港および
その航路に近いため(約4km)
航空障害灯が設置されています。




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【所在地】
〒485-0046 愛知県小牧市堀の内1丁目

【交通アクセス】
(電車・バス・徒歩)
名鉄「小牧」駅より徒歩約20分。
またはバス11分、
バス停「小牧市役所前」、
または「小牧山城」下車、徒歩すぐ。

(車)
名神高速小牧ICから国道41号経由5分。
または名古屋高速小牧南出入口から
国道41号経由10分

【駐車場】
あり・50台。2時間無料。
以降30分毎100円

滞在所要時間:1時間20分~

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清洲城~織田信長の天下統一への出発地、「清州同盟」「清州会議」と歴史上重要拠点となった天下の名城です。

勝幡城~織田信長誕生の城、二重の堀に囲まれた館城で尾張の中近世史上、重要な城跡と見られています。

名古屋城~日本100名城、特別史跡、日本三大名城、名勝、金鯱、起源は今川氏が築城し織田信秀・信長が居城した那古野城でした。

犬山城 ~現存天守12城・日本100名城・国の史跡で国宝、木曽川沿いの丘上にある美しい城です。

丹羽長秀~米五郎左~及び石田三成が城主となった佐和山城跡・龍潭寺

末森城(尾張国)~織田信秀が東方防御の為に築城、小牧長久手の戦いで織田信雄が整備。

佐久間信盛~織田家筆頭家老として30年間織田家に身を粉にして仕えるも追放される。

疋壇城~越前国境守備~刀根坂の戦い 斎藤龍興終焉の地

斎藤道三~晩年の足跡~鷺山城址・道三塚・常在寺、そして斎藤義龍(高政)

美濃金山城跡~森蘭丸の生誕地~森可成・森長可・森乱丸(蘭丸)・森忠政と斎藤正義

羽黒城~梶原景時の孫である梶原景親が築城し尾張梶原氏として存続するも「本能寺の変」にて殉じ、滅亡しました。

長久手古戦場公園~徳川家康VS羽柴秀吉の小牧・長久手の戦いのうち主戦場となった長久手の戦いの場所。

池田恒興~織田信長とは乳兄弟で育ち幼馴染、最古参の家臣となり、長久手にて戦死します。

長久手城~長久手の戦いの前哨戦の岩崎城の戦いで奮戦した加藤忠景(加藤景常)の居城です。

浜田城(伊勢国)~田原忠秀が築城し四日市の地名も誕生、後に滝川一益に攻略され落城、子は小牧・長久手の戦いで討死

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