【長久手城(長湫城)】
長久手城は、
愛知県長久手市城屋敷にある平城で、
最初の築城年代や築城者は
よくわかっていません。
戦国時代には、
織田信雄に仕えていた
加藤忠景(加藤景常)が、
前領主・斎藤氏の古城を
修築して居城としていました。
加藤氏が長久手城に
居住するようになったのは
弘治年間(1555年⇒1558年)
の頃とされています。
瀬戸の馬ヶ城(瀬戸市)
の土豪であったとされています。
その後、長久手に来たとのことです。
長久手に来た加藤氏は
かつての斎藤氏が居城していた古城跡に入り、
堀や土塁を増改築して居城しました。
前領主の斎藤氏ですが、
享禄年間(1528年⇒1532年)に
斎藤平左衛門尉、同民部丞の名が
伝えられているとのことです。
加藤忠景(加藤景常)は
岩崎城主であった丹羽氏次の姉を
正室に迎えており、
また娘を丹羽氏次の継室にと
嫁がせていました。
丹羽氏次の跡を継いだのは
丹羽氏信ですが、
母親は、
加藤忠景(加藤景常)の娘です。
丹羽氏信はのちに美濃岩村藩の
初代藩主となりました。
【構造形態】
平城
【標高(比高)】
61.9m
【廃城年】
天正12年(1584年)
【主な改修者】
加藤忠景
【主な城主】
齋藤氏、加藤氏
【遺構】
空堀
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【現在の様子】
現在の長久手城址は
小さな公園になっており、
のちに観音堂が建立されました。
また観音堂の脇には
文化6年(1809年)頃、
加藤忠景(加藤景常)の子孫である
尾張藩士の加藤氏がその観音堂の脇に、
加藤忠景(加藤景常)公を偲んで
石標を建立しました。
長久手城趾や案内板がありますが、
城の遺構はほぼほぼ消滅しています。
【城の構造】
城は東西二つの曲輪から
成っていたとされ、
現在の観音堂のある辺りは
東城(東ノ曲輪)と
呼ばれていたとのことです。
幅3~6m、
深さ1.7~7.5mの堀割を挟んで、
台地の平面をもつ東城と
長方形の西城が並立する
連郭構造でありました。
【岩崎城の戦い】
小牧・長久手の戦いの際、
加藤忠景は徳川家康に従い、
義弟である岩崎城主である
丹羽氏次の留守を預り
城代で16歳であった
丹羽氏重を補佐して
奮戦しましたが、
討死したとされています。
なお、別の説では、
加藤忠景(加藤景常)は岩崎城では
討死しておらず、
のちの5月7日の
加賀井城の戦いにて
討死したとのことです。
【所在地】
〒480-1122 愛知県長久手市城屋敷2408
※専用の駐車場はありません。
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