【大友城】
【郭構造】
平山城
【築城主】
伝平良文
【遺構】
曲輪、土塁、堀
【大友城の歴史】
「香取郡誌」によりますと、
千葉氏の祖である
平良文の居城と伝えられており、
西暦940年5月に
相模の村岡(神奈川県藤沢市)から
この地に来て築城したとのことです。
その後、平良文は近隣の香取市阿玉台にある
平良文館に移り、大友城には
平常持、常将、常長、常兼の4代が
居城したとされています。
平常兼は、のちに千葉市緑区の
大椎城に移ったと伝わっていますが、
明らかとはなっていません。
「今昔物語集」には、
平忠常の乱で源頼信が
平忠常を攻めたとき、
鹿島神宮から南下して
利根川の北岸に至ったところで、
「忠常が栖(すみか)は
内海に入りたるところに有る也」
と記述されているとのことです。
この内海を、
笹川~下総橘間の水田地帯ととらえ、
平忠常の居館もその奥に位置する
大友にあったと言われることがあるとのことです。
【大友城の構造】
標高約50mほどの台地上にあり、
現在の大友集落から
南へ500mほどのところに位置しています。
南北に細長い直線連郭の構造で、
政所台、遠所台と呼ばれる
2つの郭が主郭となっています。
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政所台には円墳が4基あり、
西端の塚の上には
「政所台墳墓供養塔」
と書かれた碑が立ち、
平忠常、常将、常長、常兼
の法号が入っているとのことです。
【交通アクセス】
JR成田線「下総橘」駅下車
徒歩60分ほど。
【所在地】
〒289-0621 千葉県香取郡東庄町大友
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