【万喜城(まんぎじょう)】
万喜城(まんぎじょう)は、
上総国夷隅郡(現在の千葉県いすみ市万木)
にあった日本の城です。
万木城・満喜城・万騎城とも表記されています。
【天守構造】
なし
【築城主】
伝土岐時政
【築城年】
不明
【主な城主】
土岐氏、本多忠勝
【遺構】
土塁、堀、井戸
【地理地形】
万喜城は東西と北側を
夷隅川沿いの崖に囲まれた
東西約500m・南北800m(推定)規模の山城で、
東西40~80m・南北190m(推定)
の主郭をはじめとする3つの郭から構成されています。
【城の歴史】
伝承では応永年間に
摂津国から移った土岐時政が
築いたとされています。
けれども、上総土岐氏の系譜は
不明な点が多く、
築城年代および築城者は不明です。
明応年間前後に土岐頼元が活躍し、
後に上総土岐氏の菩提寺となる
海雄寺を創建したとされています。
後年の小田原攻めの際には
土岐氏の兵力は1000騎とも
1500騎とも伝えられています。
具体的な活動が知られるのは
土岐為頼の頃からで、
土岐為頼は里見義堯と
婚姻関係を結んでいましたが、
第二次国府台合戦で里見氏が敗北すると、
小田原北条氏と結んで離反し、
以後一貫した北条方となりました。
このため、万喜城周辺は
しばしば里見氏や
上総武田氏の侵攻を受けました。
特に土岐頼春(為頼の子)の代の
天正16年(1588年)から
同18年(1590年)にかけて
里見氏による3度の攻勢が行われましたが、
いずれも土岐氏の勝利に終わっています。
(「万喜・長南合戦」)。
けれども、天正18年(1590年)の
豊臣秀吉による
小田原征伐においては
北条氏に味方したことから、
本多忠勝率いる徳川軍に攻め落とされ、
米蔵跡と推定される場所からは
焼米が出土されています。
小田原征伐によって土岐氏は滅亡し、
万喜城も廃城になったと
考えられてきましたが、
近年になって本多忠勝が
大多喜城に入る前に一時的に
万喜城を居城としていたことを示す
文書の存在が知られるようになり、
実際の廃城は本多忠勝が
大多喜城を居城としていることが
確認される天正19年(1591年)頃と
みられています。
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【交通アクセス】
いすみ鉄道いすみ線
「国吉」駅 徒歩45分程度。
展望台の下まで車で行けます。
【万木城跡公園・所在地】
〒298-0111 千葉県いすみ市万木834
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