【藤倉舘】
(ふじくらたて)
藤倉館跡。
【形態】
平城
【築城年】
建久3年(1192年)
【築城者】
藤倉盛義
【遺構】
土塁、空堀、堀
藤倉舘は、建久3年(1192年)に
会津の守護であった
佐原義連の孫であり、
佐原盛蓮の三男である
藤倉盛義が築いて居館としたと伝えられています。
藤倉氏は建長4年(1252年)、
藤倉盛弘の時、
金上館へ移封され
金上氏を名乗ったと伝えられていますが、
詳しいことはわかってはいません。
館は方形居館で周囲に土塁と濠があり、
現在でもはっきりと確認できます。
南には虎口があります。
東側には庭園があったとのことです。
<庭園について>
なお、案内板には「遠州流」と記されていますが
時代が異なる????
平安時代末期から鎌倉時代の庭園は
先の平安時代の庭園と同じく
浄土式の池泉庭園でありながら、
初期の段階では池泉舟遊式であったものが、
後に回遊式となっていったとのことです。
広い池庭に蓬莱島や鶴島、
亀島などを配し、三尊石組の手法が
でてきたりという変化がでていったともあります。
そうした変化を遂げながら、
次の室町時代の庭園手法に
繫がっていったとされています。
平安時代の庭園は陸奥ならば
何と言っても毛越寺。
鎌倉時代の代表的な庭園としては
西芳寺庭園(通称”苔寺”)が挙げられます。
ちょっと想像してみると楽しいですね。
それなりの風流な暮らしを
なさっていたのでしょう。
<近くの史跡>
なお、この藤倉舘の東側には
源義経と恋仲になったという
皆鶴姫の碑と墓があります。
更に源義経が奥州へ逃れる際に、
馬(駒)を繋いだとされている
「駒繋石」があります。
(鏡山地区からの移転)
また時代は異なりますが
暦応5年(1342年)12月敬白と
観音菩薩の梵字が刻まれた
「暦応の碑」があります。
【所在地】
〒969-3463 福島県会津若松市河東町倉橋藤倉208
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