【滝山城】
滝山城(たきやまじょう)は、
現在の東京都八王子市丹木町にあった
戦国時代の日本の城です。
国の史跡です。
大石氏、北条氏照の居城でした。
【城郭構造】
連郭式丘城
【築城主】
大石定重
【築城年】
大永元年(1521年)
諸説あり
【主な改修者】
北条氏照
【主な城主】
大石定重、大石定久、北条氏照
【廃城年】
天正年間?
【遺構】
土塁、横堀、竪堀、畝堀、障子堀、
井戸、土橋、枡形虎口、曲輪、堀切
【指定文化財】
国の史跡
【概要】
現在は「滝山城址公園(たきやまじょうしこうえん)」
として整備済みです。
多摩川と秋川の合流点にある
加住丘陵の複雑な地形を巧みに利用した
天然の要塞で、
関東随一の規模を誇ったということです。
現在、遺構として本丸・中の丸・
空堀・竪堀・虎口・曲輪・土橋・
土塁・竪堀、曲輪などが残っており、
昭和26年(1951年)6月9日に
国の史跡に指定されました。
大部分が東京都立公園
「滝山自然公園」となり
桜の名所となっておりますが、
未だに私有地もあるので
公園化されない部分が多いのも
現状であるとのことです。
遺構の保存状態がよく、
かつそれがわかりやすくなっており、
中世城郭としての優れた資料
であるともされています。
【築城時期及び北条氏照入城時期】
永正18年・大永元年(1521年)、
山内上杉氏の重臣で、
武蔵国の守護代である大石定重、定久が築城し、
高月城から移ったといわれていますが、
実際は分かっていないとのことです。
天文15年(1546年)、
北条氏康が河越の夜戦で扇谷上杉氏を滅ぼし、
山内上杉氏の勢力を武蔵から排除すると、
大石定久は北条氏康の三男である
北条氏照を娘婿に迎え、
事実上、大石氏は
北条氏の軍門に下りました。
永禄元年(1568年)頃、
北条氏照は城の大改修を実施しました。
その一方で、永禄4年(1561年)春に
上杉輝虎が小田原城を攻めた際に
滝山城下を経由した形跡があるのに
合戦が起きていないこと、
同年7月に北条氏康が
三田氏を攻めた際に
滝山城よりも遠い由井城
(浄福寺城とみられる)に
本営を置いていることなど、
滝山城が存在していれば
起こり得ない事例を挙げて、
同年当時滝山城は
まだ存在していないという説もあります。
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この説によりますと、
小田原城から由井の北条氏照への
棟別銭免除の指示を示した
朱印状が出された
永禄6年(1563年)4月より
北条氏照が滝山城への年貢納入を命じた
発給文書が出された
永禄10年(1567年)9月までの
4年余りの時期に
上杉謙信の南下に
対抗するために
滝山城が築城されたとしています。
また、他にも滝山城への移転理由を
北条氏が三田氏を滅ぼして
その旧領(勝沼領)を
北条氏照に与えられたことを
きっかけであったとも言われています。
【滝山合戦】
【天文2年の滝山合戦】
天文2年(1533年)、
北条氏綱、鶴岡八幡宮造営。
大石定久等費拠出を拒み、
滝山城の口実を与え、
天文5年(1536年)、
北条氏康、武田の加勢を得て
滝山城攻撃か。
(北条記・甲陽軍鑑本編巻九・
甲陽軍鑑末筆下巻上)。
なお、前述のように
永禄年間築城説を採ると
まだ存在しない滝山城を
攻めることはできないため、
大石氏の別の城攻めなのか、
後世の創作かと言う問題が
発生します。
また、天文4年(1535年)に
北条氏が甲斐に侵攻して
武田氏と戦っており、
両氏が和睦をするのは
北条氏康と武田信玄に
代替わりをした後であるという
別の問題も存在します。
【天文21年の滝山合戦】
天文21年(1552年)、
長尾景虎方と
北条氏方が滝山城方面にて交戦します。
ただし、この年の長尾軍の南下
(上杉謙信の初めての
関東出兵でもある)は、
上野国内に止まっており、
西武蔵方面で実際に
戦闘があったのかは不明です。
【永禄12年の滝山合戦】
【廿里古戦場】
永禄12年(1569年)、
小田原攻撃に向かう武田信玄軍約2万人が
滝山城の北側の拝島に陣を敷き、
別働隊の小山田信茂隊1千が
未整備の間道(甲州街道の前身)を通り
小仏峠から進入していきます。
これに対し北条氏方は廿里で
迎撃したが一蹴されました。
北条氏方は予測外の方向より
攻められた為、滝山城三の丸まで
攻め込まれ落城寸前にまで
追い込まれましたが、
2千の寡兵で凌いたとのことです。
しかしこの戦いは、
滝山城の防御体制が
不十分であることを痛感させ、
八王子城を築城し移転する
きっかけとなったとも
いわれておりますが、
真相は謎であるとのことです。
なお、滝山城の三の丸や中の丸まで、
落城寸前まで攻められたとは、
江戸期に書かれた
甲斐の武田氏の軍記物語である
「甲陽軍鑑」や「武田記」
からによるものです。
北条氏照本人が永禄12年10月24日に、
越後の上杉輝虎の家臣山吉豊守および
河田重親に宛てた書状によりますと、
滝山城の城下町である
宿三口で戦いが行われたと
書かれていますが、
実際は不明であるとのことです。
(上杉家文書より)
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または、天正5年(1577年)2月5日、
武田の家臣で都留郡上野原の領主である
加藤信景が都留郡諏訪神社に
奉納された棟札の記載によりますと、
加藤信景の父である
丹後守景忠は武田信玄に従い、
北条氏攻撃のため、
北条氏照の居城であった
滝山城下に放火し、
10月27日に本郷
(現在の八王子市本郷町か元本郷町)に
陣取ったと記載があるとのことです。
(諏訪神社棟札銘写より)
【滝山合戦以降】
天正15年(1587年)前後、
北条氏照が八王子城に
本拠を移すまでの期間、
滝山城は政庁として
使用されていました。
【小田原征伐】
天正18年(1590年)、
豊臣秀吉方が北条攻めに際し
作成した城と軍勢に関する覚書の中に、
北条氏照の管轄する六か所の城の名と
四五〇〇騎という軍勢数が記載されています。
その中に竹山の城は
滝山城を指しているとも
言われています。
(毛利家文書: 関東八州諸城覚書・
北条氏人数覚書より)。
天正18年(1590年)6月、
広田出雲守・高橋越前守・
市川三郎兵衛・小沢甚三郎らが
八王子城・滝山城で討死するとありますが、
真実は不明であるとのことです。
(高勝寺所蔵)。
【現代】
昭和26年(1951年)6月9日、
史跡名勝天然記念物に指定されました。
2017年、日本城郭協会により
「続日本100名城」(123番)
に選定されました。
<続日本百名城スタンプについて>
続日本百名城スタンプの設置場所は
下記のとおりです。
なお、設置場所によって
営業時間や休日等が
異なりますのでご注意ください。
<八王子市加住市民センター>
<所在地>
〒192-0004 東京都八王子市加住町1丁目338
<営業時間>
午前8時30分~午後9時45分
<定休日>
第2・第4月曜日(休日の場合は開館)、
年末年始(12月29日~1月4日)
<道の駅八王子滝山>
<所在地>
〒192-0011 東京都八王子市滝山町1丁目592−2
<営業>
午前8時から午後7時まで
<定休日>
年中無休
≪お願い≫
続日本百名城スタンプですが、
滝山城では押印済の用紙を
一切備えておらず、
今後もその予定はないそうです。
来城した方ご自身で
押印をするようにとのことです。
スタンプを押印した用紙などの
不正転売等も禁止とのこと。
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20206月19日、
「霊気満山 高尾山 ~人々の祈りが紡ぐ桑都物語~」
のタイトルで文化庁による
日本遺産に八王子城と高尾山ともに
滝山城もその際、
構成要素として関連史跡として認定されました。
【三宿三転】
現在の八王子市の中心にある
JR八王子駅北口の近くにある
【八幡町】
【横山町】
【八日町】は、
もともとは滝山城の城下町から始まり、
八王子城を経て、
大久保長安により
現在の地に至るとのことです。
このことを【三宿三転】というそうです。
八王子織物の起源も、
滝山城下の市で
取引きされたころだと
言われています。
【滝山城下のお寺】
滝山城の城下には、
もともと、善龍寺、宝生寺、
御嶽神社(八王子市)、
少林寺 (八王子市)、
極楽寺、大善寺などがあり、
御嶽神社(八王子市)と
少林寺 (八王子市)は
現在も滝山城の近くにあります。
少林寺と御嶽神社以外は八王子城を経て、
現在の地に至っているとのことです。
中でも少林寺は特に
北条氏照と家臣と大石氏のゆかりが
強い寺であるとのことです。
他にも北東を鬼門除けとして、
かつて武蔵村山のあたりにあり、
現在は国分寺市に移った観音寺と
昭島市にある天台宗の普明寺の所有の
大日堂も滝山城の鬼門除けされています。
【構造】
滝山城は、伝二の丸の
集中防衛を意識して作られており、
二の丸の周囲には
馬出状の曲輪のようなものがあります。
滝山城には伝二の丸の周囲だけで、
千畳敷の角馬出、南馬出、
大馬出、東馬出の防御性の高い
遺構群が残っています。
馬出に入る際、
またはたとえ馬出曲輪を突破しても、
土橋や枡形状の虎口により、
迷路のように敵方を小分けにして
殲滅できるように非常に
防御性が高い構造になっています。
<土橋>
鍛冶谷戸と言われる谷戸から侵入すると
最終的には伝二の丸の櫓台から
180度の方向から狙われることになりま。
天気と空気が澄んでいれば、
富士山が見えるスポットでもあります。
この構造が同じ北条氏の城では
静岡県三島市にある山中城、
北条氏照の最期の城である
八王子城にも影響を与えたとも
言われています。
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【大手】
滝山城の大手口と言われているのは
天野坂から登城路、
少林寺がある鍛冶谷戸からの登城ロ、
地元幼稚園すみれ幼稚園からの
専国坊谷戸などが言われており、
実際、どのルートが正規ルートは
分かっていないとのことです。
【発掘調査】
滝山城で発掘調査を行われた場所は、
伝千畳敷・伝中の丸、
伝本丸の曳橋の大堀切と
伝本丸の枡形状の虎口だけです。
<中の丸南側の防御(櫓門の推定)>
中でも伝本丸の枡形状の
虎口の発掘調査によりますと、
加工されてない多摩川から
採石された河原石を使った石畳や
暗渠や三方を土塁で
築かれていることが見つかりました。
<本丸南側枡形虎口>
さらに一箇所だけ、
城割りの際に
虎口を壊している跡が
見つかりましたが、
これが八王子城へ移った際に
行われたのか否かは、
現時点は不明であるそうです。
<本丸への木橋(曳橋)>
曳橋は橋を引く装置などが
見つかっていないことから、
非常時の時は伝本丸側または
伝中の丸側に曳き込んだり、
燃やしたり橋桁を落としたとか、
橋板を落としたという
さまざま説もありますが、
未だに滝山城も
未発掘箇所が多く
全容の解明に至ってはいません。
<本丸への木橋(曳橋)>
当時の木橋(曳橋)はもう少し下に
かけられていたことが
わかっています。
人工的に掘られた大堀切の上にかけられており、
本丸が最終的な砦であることが構造上からも
よくわかります。
「大堀切はもっと深かったことが
試掘によって確認されているとのことです。
【整備・保護】
滝山城の遺構は、
同市の八王子城ほどではありませんが、
八王子市や地元自治会によって
保全されているのではなく、
東京都とNPO法人の
有志団体によって
少しずつではありますが、
見やすくなっているそうです。
【「AR滝山城跡」】
八王子市公式アプリである
「AR滝山城跡」があります。
これをダウンロードして散策すると
より滝山城跡の散策が楽しめると
思います。
【トイレ】
中の丸にあります。
男女別の綺麗な水洗トイレです。
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【城郭図】
滝山城に関する絵図は、
慶安元年(1648年)7月の
紀年銘が記された「武州滝山古城図」や
西尾市岩瀬文庫所蔵江戸中期の
尊王論者山県大弐(1725年~1767年)が
兵学講義の資料として
諸国の城郭縄張図を収集したもの
「主図合結記」と
旧広島藩主浅野家に伝えられた
城絵図集「諸国古城之図」や
鳥羽藩が兵学研究用に収集して
保管していた「 日本古城絵図 」、
旧日本陸軍築城部が
城郭史を編纂すべく
大正初期から資料の収集に着手した
「 日本城郭史資料」、
八王子市郷土資料館所蔵の
城郭図などがあります。
個人蔵【武州滝山古城図】
陸奥国弘前津軽家文書【城築規範全】
安芸国広島浅野家文庫【諸国古城之図】
山県大弐作岩瀬文庫所蔵【主図合結記】
伊勢国鳥羽藩稲垣家所蔵【日本古城絵図】
東北大学所属狩野文庫【武州瀧山城圖】
旧日本陸軍築城部が城郭史を編纂【日本城郭史資料】
【観光】
京王八王子駅・JR八王子駅北口から
「戸吹(ひよどり山トンネル経由)」
行きバスで約20分、
「滝山城址下」下車徒歩5分ほど。
拝島駅から西東京バス工学院大学行き
または純心女子学園行き乗車約15分、
「滝山城址下」下車。
※バス運行については最新の情報をご確認ください。
【「滝山三城」】
近隣の城郭は高月城と
戸吹城(根古屋城)があります。
上記の二つの城と滝山城は東西に連なるように
遺構が残されています。
これら三つの戦国山城は
「滝山三城」と呼ばれています。
(車)
中央道八王子インターから
国道16号を拝島方面へ、
左入交差点を左折し国道411号(滝山街道)へ
【駐車場】
滝山観光駐車場
<駐車場所在地>
八王子市丹木町3丁目81番地1外
<時間>
午前8時から午後6時まで
(注意)
ただし11月1日から2月末日については
午後4時閉場です。
滝山城のパンフレットがあります。
「AR滝山城跡」の
QRコード付きパンフレットもあります。
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【滝山城・所在地】:
〒192-0002 東京都八王子市高月町~丹木町二、三丁目
滞在所要時間:1時間~4時間弱程度
八王子城~日本100名城で日本遺産となった関東屈指の山城、城主は北条氏照でした。
北条氏照~北条氏政の同母弟、文武両道で外交手腕に長けており、兄を補佐し盛衰を共にしました。
北条氏康~小田原北条3代目~相模の獅子 ・関東八州にその名を轟かした猛将は戦国随一の民政家。
北条氏政~小田原北条4代目~最大の領土を築くも、生きた時代と合わなかった慎重派で愛妻家で家族思い。
高月城~滝山三城の一つ、築城は武蔵国の守護代・大石顕重で後に大石氏は北条氏の家臣となります。
二宮城~木曽義仲の末裔である大石信重によって築城との記録あり、現在の二宮神社、武蔵守護代の大石氏とは?
幸神屋敷~平山左衛門尉綱景の屋敷とも土豪の幸神氏の屋敷跡とも伝わります。
武蔵・戸吹城(根小屋城)~滝山三城の一つで滝山城の支城群の一つ、崩落が進み関東一危険の城とも。
網代城~戸倉城と高月城を結ぶ 烽火台として築城された支城の可能性があります。
武蔵・戸倉城~築城は小宮氏で後に八王子城の支城として大石定久の隠居地の一つと伝わります。
檜原城~鎌倉武士の花形の末裔で武蔵七党・西党の一族の平山氏が築城、豊臣方には徹底抗戦しました。
小田原城跡~小田原北条五代~近世城郭と中世城郭の両方の遺構が残る城。
浄福寺城~築城は大石氏で由井城の説あり、後に八王子城の出城として運命を共にしました。
鉢形城~数万の敵に1か月も籠城した頑強な要害で日本100名城で国の史跡です。
武田信玄~風林火山の軍旗のもとに、戦に明け暮れ駆け抜けていった53年の人生でした。
武田勝頼~甲斐源氏・戦国大名としての甲斐武田氏最後の当主、素質と環境が合わず悲劇が訪れます。
上杉謙信について~越後の龍・49年の生涯~駆け足で超手短に!
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