【小田野城(小田野山城)】
平安時代末期から鎌倉時代初期に
安田義定が築いたとの伝承があります。
寛正6年(1465年)、
甲斐守護代の跡部景家が、
守護職武田信昌と戦って敗れ、
小田野城まで逃れて自刃した記録があります。
従って小田野城が跡部氏の城であった
可能性が考えられますが明らかには
なってはいないとのことです。
「王代記」には
「跡部上野守西保小田城ニテ腹切」とあり、
寛正年間(1460~1466年)に至っても
存続使用されていたことがうかがえます。
鼓川の北にそびえる標高883mの
小田野山に築かれていました。
鼓川が東流する狭い渓谷に
突き出るように位置しています。
登り口にある普門寺は
安田義定が建久年間(1190年~1199年)に
建立した寺院と伝えられているとのことで、
南麓には「城下」、
「御所」、「馬場(ばんば)」
亥申屋敷・新沢屋敷・金屋敷・
大木戸・的場など、
多くの城館関連地名が残っているとのことです。
小田野城は山頂の主郭を中心に
南北に伸びる尾根と東へ伸びる尾根に
曲輪を展開していました。
主郭は山頂で南北二段の曲輪となり、
北尾根を堀切で遮断されていました。
南へは段曲輪が続いていますが、
曲輪の規模は小さく切岸も低く、
古い時代の山城であるとのことです。
遺構は、山頂に残る2つの平坦地を中心とし、
西と南に延びる尾根上に
計4つの郭を配するほか、
帯郭を幾重にも設けられており、
防備を固めていたことがわかるとのことです。
上塁は、南の尾根の先端に
位置する三の丸と呼ばれる郭にのみ
みられますが、後世のものと推定されています。
東尾根は堀切が一条あり、
その先は自然地形に近い尾根で、
岩の間を曲がって登るような
通路が続いていました。
尾根の先端にやや広い曲輪があり、
周囲に犬走が付いており、
この曲輪の東下に堀切があります。
ここからさらに降りると
石祠が祀られた檀があるとのことです。
この部分は後世の削平や
石積などがあり明確ではありません。
が、城に通じる尾根に
浅い堀切があることから
この部分も曲輪であった
可能性があるとのことです。
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城の占地・構造等から、
山梨県でも最古の部類に
属する城跡であるとのことです。
【構造形態】
山城
【標高(比高)】
883m(250m)
【文化財指定】
市指定史跡
【遺構】
曲輪、帯曲輪、土塁、竪堀
【城主】
安田義定か?
跡部氏?
【所在地】
山梨県山梨市牧丘町西保中
案内板はないそうです。
登城された先輩方によりますと
クマ出没することです。
登城する際にはきちんとした
山登り対策が必要とのことです。
【安田義定】
安田 義定(やすだ よしさだ)は、
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。
甲斐源氏の祖とされる
源義光の孫源清光の子と言われていますが
源清光の父である
源義清の子とする説もあるとのことです。
【生涯について】
安田氏は甲斐国山梨郡八幡荘内の
安田郷を本貫地とする一族とのことです。
平安後期に甲斐源氏は
甲府盆地の各地に進出して土着します。
峡東地域に勢力を持っていた
古代在庁官人の三枝氏は
応保2年(1162年)の
八代荘停廃事件を契機に没落し、
安田義定は盆地東部に進出し
旧族安田氏を継承したと
考えられています。
安田義定は同郡八幡荘や牧荘、
安多荘などを根拠地として
笛吹川流域の峡東一帯に勢力を持ち、
山梨県山梨市小原西の保田山妙音寺に
館を構えたということです。
あるいは小原東の西願寺に隣接する地に
構えたともされています。
【源頼朝の挙兵】
治承4(1180年)4月、
後白河法皇の皇子である以仁王は
平家追討の令旨を発し
諸国の源氏に挙兵を促します。
「吾妻鏡」によりますと
以仁王令旨は伊豆国の源頼朝から
甲斐・信濃方面へ伝えられ、
同年4月末から5月初めまでに、
甲斐源氏の元へも伝えられたと
考えられています。
平家方に対して挙兵した伊豆国の源頼朝は
8月23日の石橋山の戦いで敗退し、
8月25日には平家方の俣野景久、
駿河目代の橘遠茂が甲斐へ攻め込みます。
【波志田山合戦】
甲斐源氏方では安田義定と
工藤景光・工藤行光、
市川行房らが出兵し、
富士北麓の波志田山において
俣野景久らを撃退しており、
その経緯を記した「吾妻鑑」同条が
安田義定の初見資料と
なっているとのことです。
【富士川の戦い】
このときは甲斐源氏の棟梁である
武田信義や一条忠頼らは
参加してはいないとのことですが、
武田信義らは9月初頭には
信濃国への侵略を開始しています。
同年10月には駿河国に侵攻する
武田信義らと共に
橘遠茂らと戦い勝利しました。
その後黄瀬川で源頼朝の軍と合流し、
10月20日に源頼朝・甲斐源氏の軍勢が
平家方の平維盛の追討勢を撃破した
富士川の戦いでは
武田信義とともに敵の背後を
襲撃したということです。
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【遠江国守護】
甲斐源氏の一族は
富士川合戦での戦功により
源頼朝から武田信義を
駿河国守護に任じられ、
安田義定も遠江国守護に
なったということです。
「吾妻鏡」に見られる
「守護」補任記事について、
「吾妻鏡」以外の記録史料を総合すると
甲斐源氏の一族は源頼朝の傘下ではなく
独自の勢力であったと考えられており、
富士川合戦においては敗走する
平家方を追討した
武田信義・安田義定らが
駿遠地方を占拠し、
「吾妻鏡」の守護補任記事は
甲斐源氏の戦功を源頼朝が
後日容認したものであると
考えられているとのことです。
【遠江の在地支配】
安田義定は遠江国府・鎌田御厨を占拠し、
同年12月には蒲御厨を拠点に
在地支配を行っています。
安田義定は遠江において
平家方と対峙しており、
養和元年(1181年)には
平家方の平通盛の尾張国侵攻に際して
源頼朝に軍勢の派遣を要請します。
源頼朝は和田義盛を遠江へ派遣しています。
また、遠江において安田義定は
橋本辺の陣地構築に非協力であったという
浅羽・相良両氏や、
在地支配を廻る伊勢神宮・熊野神社との
訴訟を起こしたとのことです。
【大内裏守護】
寿永2年(1183年)には
木曾義仲が信濃・越後の軍勢を率いて
北陸道から上洛しています。
安田義定も平家追討使として
東海道から上洛したとのことです。
(「愚管抄」)。
安田義定ら源氏の諸将は
洛中の警備を命じられ、
安田義定は大内裏守護として
京中の守護をしています。
後白河法皇は平家一門の官職・所領を
没収して源氏諸将に分配し、
安田義定も同年8月10日には
従五位下遠江守に叙任しました。
【木曽義仲の滅亡】
都では後白河法皇と
木曾義仲の反目が顕在化し、
法皇は源頼朝に上洛を促すと
源頼朝は法皇に要請して
寿永二年十月宣旨の勅令が発布。
源頼朝はこの勅令により
木曽義仲や甲斐源氏に対して
優位の態勢を整え、
翌寿永3年に
源範頼・義経の木曽義仲追討軍が上洛。
安田義定は源義経の軍勢に加わり、
元暦元年(1184年)には
宇治川の戦いで木曽義仲を
滅亡させたのでした。
【一ノ谷の戦い】
同年、一ノ谷の戦いでは、
源義経の搦め手軍に属し、
なお源範頼、源義経、安田義定の
三軍制だったと見る説もあります。
平経正、平師盛、平教経を討ち取っています。
ただし平教経については壇ノ浦で
入水の異説があります。
【皇室守護と遠江浅羽荘の地頭】
文治5年(1189年)の奥州合戦にも
武田信光らと従軍しています。
文治6年(1190年)1月26日には
後白河法皇から京都伏見稲荷社、
祇園八坂神社の修理の遅れや、
六条殿造営公事の怠慢を責められ
下総守に転任されますが
翌建久2年(1191年)3月6日には
従五位上に昇叙し、遠江守に遷任(還任)し、
安田義定は皇室守護と
遠江国浅羽荘(静岡県袋井市)の地頭も
兼ねていました。
また、息子である安田義資も
越後守となっていました。
【鎌倉での地位】
鎌倉での安田義定の屋敷は
源頼朝館に隣接する
鎌倉大倉に存在したと伝わっており、
同年3月に行われた鶴岡八幡宮の法会では、
参拝する源頼朝の御供の筆頭に
安田義定の名が見られたとのことです。
【永福寺事件と最期】
甲斐源氏の有力武将は
源頼朝によって次々と排斥されていますが、
建久4年(1193年)に
安田義定も子の安田義資が
院の女房に艶書を送った罪で斬られ、
安田義定も所領を没収されています。
同時に遠江国守護職も解職。
翌建久5年(1194年)、
安田義定は謀反の疑いで梟首されました。
享年は61歳でした。
「鎌倉大草紙」では、
追討使は梶原景時と加藤景廉で、
安田義定は法光寺(放光寺、山梨県甲州市)
において自害したということです。
また、「尊卑分脈」では、
安田義定が誅された場所を
「馬木庄(牧庄)大井窪大御堂」
と記しているとのことで、
これを放光寺阿弥陀堂、
あるいは窪八幡神社(山梨市)
と解釈する説があるとのことです。
安田氏の滅亡後、牧庄などの遺領は
加藤景廉に与えられたといわれてはいますが、
加藤氏と牧庄を関係付ける史料は
見あたらない、とのことです。
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山梨市下井尻の雲光寺
(神龍山雲光禪寺)には
安田一族の墓所とされる
大五輪塔群があります。
【子孫たちの行方】
子孫は後に、大江氏に仕え、
居住していた常陸国粟屋の地名を取って
粟屋氏を称したとのことです。
大江氏の移住に従って後に
安芸国に移り住み、
後に毛利家中で重きを成したとのことです。
安芸分郡守護武田氏が
若狭守護を兼ねた際に
若狭に移住した一族がおり、
若狭武田氏の重臣となったとのことです。
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