【藤原秀康】
藤原 秀康(ふじわら の ひでやす)は、
鎌倉時代前期の武将。
承久の乱での後鳥羽上皇側の大将軍でした。
【死没】
承久3年10月14日(1221年10月30日)
【官位】
下野守、河内守、備前守、能登守
【氏族】
藤原北家秀郷流
【父】
藤原秀宗
【母】
源光基娘
【兄弟】
秀康、秀能、秀澄
【子】
藤原有能室?
【生涯】
尊卑分脈によりますと、
藤原北家秀郷流の
藤原秀宗の長男となります。
父である藤原秀宗、
祖父である藤原秀忠の業績は
伝えられてはいません。
尊卑分脈においては、
父の藤原秀宗については
「実は和田三郎平宗妙の子なれども、
秀忠外孫のため嫡男とし、姓藤原を相続」
と注記されているとのことです。
けれども、和田義盛と
藤原秀康の弟である藤原秀能の
年齢差からいって、
藤原秀康が和田義盛の弟である
和田宗実の孫という説には
かなりの無理があるとのことです。
越後和田氏の関係史料に藤原秀忠や
藤原秀康がまったく出てこないため、
和田三郎平宗妙は和田宗実と
別人ではないかとの意見もあるほどです。
【富裕な経歴】
北面武士、西面武士として
院に仕える畿内近国の武士の一族で、
下野守、河内守、備前守、
能登守など国司を歴任し、
富裕並びなき者とされていました。
【三浦胤義を味方につける】
後鳥羽上皇の討幕計画に参与し、
有力御家人の三浦義村の弟である
三浦胤義を説得して味方に引き入れました。
【承久の乱での働き】
承久3年(1221年)の承久の乱では
挙兵の際に京都守護である
伊賀光季(伊賀の方の兄弟)を攻め殺します。
所従の押松に有力御家人へ宛てた
北条義時討伐の院宣を持たせ
使者として鎌倉へ送りますが、
押松は幕府方に捕らえられます。
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「吾妻鏡』によりますと、
北条政子が御家人を説得するために
鎌倉で行った演説で秀康は
三浦胤義と共に上皇に讒言した
逆臣として名を挙げられており、
幕府からは京方の中心人物と
目されていたことがうかがえます。
京方の大将軍として
弟である藤原秀澄と共に美濃国と
宇治川で幕府軍と戦いますが敗北しました。
【後鳥羽上皇に見捨てられる】
後鳥羽上皇は藤原秀康らを見捨てて、
乱を引き起こした謀臣として
逮捕の院宣を出してしまいます。
藤原秀康は奈良に潜伏するが、
10月に河内国で捕らえられ、
藤原秀澄と共に京で斬られました。
なお優れた歌人であった
弟の藤原秀能は出家して許され、
後に遠島された後鳥羽法皇を慕い
隠岐島へ渡っています。
2022年NHK大河ドラマ
「鎌倉殿の13人」では
星 智也(ほし・ともや)さんが演じられます。
北条義時~鎌倉幕府2代執権~冷酷無情・現実を客観視して行動できる理想家なのか?
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三浦胤義~三浦義村の弟で妻は源頼家の側室、承久の乱では京方として三浦一族と激闘の末、自害します。
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