【敦賀城】
敦賀城(つるがじょう)は現在の福井県敦賀市にあった日本の城。
羽柴秀吉が台頭し、その家臣だった蜂屋頼隆が
敦賀の地に入り三層の天守を持つ敦賀城を築城。
来迎寺の山門は、城の中門を移築。
なお、蜂屋頼隆は元々は織田信長の家臣であり、
明智光秀以上に信長の天下布武に大きく貢献した人物でした。
【歴史】
天正3年(1575年)に織田信長により越前は平定され、
天正11年(1583年)に本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、
羽柴秀吉が台頭し、その家臣だった蜂屋頼隆が敦賀の地に入り
三層の天守を持つ敦賀城を築城しましたが、
まもなく頼隆は九州平定中に病死したため、
天正17年(1589年)大谷吉継が5万石で敦賀城に入城した説、
また大谷吉継の前に秀吉の甥である豊臣秀勝が城主となったという説があります。
【大谷吉継の城主時代】
天正17年(1589年)に
越前国敦賀郡2万余石を与えられ、敦賀城主となります。
吉継が敦賀城主となると、
蜂屋頼隆の築いた敦賀城を改修したと伝わりますが、
(現在の敦賀市結城町、三島町)
吉継の前に豊臣秀勝が城主になっており、
天守は秀勝時代に完成していた説もあります。
笙ノ川・児屋ノ川の二川を境界として町立てを行い、
町割を川西・川中・川東の三町に改めました。
また、敦賀城を水城として大改修しました。
慶長5年(1600年)に
石田三成が秀吉死後に秀吉の遺命を無視し、
豊臣家を崩壊させようと画策する
徳川家康の打倒を訴えて立ち上がると、
再三にわたり「三成に勝機なし」と説得します。
しかし三成の堅い決心を知り、熱意に感じ入ると、
敗戦を覚悟して西軍に加担しました。
関ヶ原の戦いでは奮戦するも徳川方の調略により
次々と西軍が寝返り敗北、自刃し、戦後は所領は没収されました。
その後、城は吉継の家臣蜂屋将監によって東軍に引き渡され
結城秀康によって代官が派遣されていましたが、
元和2年(1616年)に一国一城令により、
敦賀城は破却されました。
【廃城後】
廃城以降、主郭部には小浜藩の役所(奉行所、代官所)と
お茶屋(陣屋)が置かれました。
小浜藩は、寛永元年(1624年)に京極忠高の所領となりましたが、
寛永11(1634年)に京極氏は松江城へ転封となり、
代わって酒井忠勝が小浜藩主となりました。
以降、幕末までの240余年を酒井氏が支配します。
なお、分家である敦賀酒井氏(敦賀藩とも鞠山藩ともいう)の陣屋は
旧金ヶ崎城近くに建てられました。
明治に入ると、廃藩置県により
明治4年(1871年)に県庁舎が置かれましたが、
さらに警察署、裁判所、病院となりました。
明治42年(1909年)には、
敦賀尋常高等小学校が移転し現在は敦賀西小学校になっています。
【現在の敦賀城】
敦賀城伝承地は、北は結城町の赤川、
南は三島町の霊山院から稲荷神社、
東は水路の残る旧笙の川沿い付近で
西小学校・八幡神社・西蓮寺が連なるライン、
西は真願寺から敦賀病院を経て霊山院のラインで囲まれる
南北500m、東西300mの範囲だそうです。
現在、城跡には城塁を含め、
その面影を偲ばせるものはありませんが、
下記の通りの遺構などがあります。
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(1)
敦賀西小学校正門の真横に敦賀城の案内碑があり、
慶長年間の国絵図に描かれた三層の天守も刻まれています。
2009年、新校舎建設に伴い、
小学校グラウンドの発掘調査を実施したところ、
敦賀城の時代に相当する建物遺構が発見されました。
(2)
来迎寺の山門は、城の中門を移築したと伝えられています。
(3)
来迎寺の書院には、腰高障子13枚が残っています。
敦賀城破却時に移されたと伝わっています。
(4)
真願寺には、敦賀城の礎石が残っています。
本寺は敦賀城域の北西隅に当たるそうです。
(5)
真願寺から東へ延びる赤川は、敦賀城の堀の遺構と言われています。
また伝承範囲の南側と東側にも部分的に水路が残っています。
(6)
八幡神社には、
敦賀城主大谷吉継が寄進したという本殿の龍の木彫、石灯籠、石鳥居があります。
また、八幡神社には信長寄進の刀があったそうです。
<石灯篭>
<龍の木彫>
<石鳥居>
鳥居に刻まれた文を読むと後世の寄進のものです。
(7)
西蓮寺の西隣には三の丸趾の木柱が建ち、
そこから南の稲荷神社付近には三の丸地蔵尊の祠もあり、
西蓮寺から稲荷神社の付近が三の丸であったそうです。
(8)
関ヶ原合戦後、福井藩主となった結城秀康によって、
代官が派遣されたことから、結城町の地名が残っています。
<地図>
赤印⇒来迎寺
青印⇒真願寺及び赤川付近
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【敦賀城を築城した人物】
【蜂屋氏】
蜂屋氏(はちやし)は、日本の氏族の一つ。
蜂谷と表記する場合もあります。
美濃国発祥の清和源氏山県氏流の一族で、
後世は清和源氏土岐氏流を称することが多いそうです。
【蜂屋頼隆】
蜂屋 頼隆(はちや よりたか)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。
織田信長の家臣。
近江肥田城および岸和田城主、後に敦賀城主。
羽柴氏を授けられた後は羽柴敦賀侍従とも称しました。
頼隆は織田信長の古くからの家臣ですが、
信長に仕える以前の経歴もよく分かっていません。
『信長公記』の美濃・斎藤義龍の刺客の記述では、
丹羽兵蔵が取次役として金森と蜂屋を指名していることから、
金森長近と同じく美濃出身で、
明智光秀と同じく、
かつて斎藤氏に仕えた経験があった可能性があるそうです。
<織田信長の馬廻、暗殺阻止>
永禄年間には選抜された精鋭部隊の黒母衣衆に名を連ねており、
この頃、信長馬廻だったとされています。
信長に仕えてからは、合戦に次ぐ合戦の日々でした。
永禄2年(1559年)に織田信長が初めて上洛した際に
80名の随行者の1人として同行しています。
この時、斎藤義龍の命を受け
織田信長を暗殺しようと追いかけてくる美濃衆の集団がおり、
清洲の丹羽兵蔵が金森長近と頼隆にこれを通報します。
織田信長の命を受けた長近と兵蔵は
刺客達の宿に行って既に事が露見していることを告げて、
目論見を阻止したとあります。
<京機の政務に携わる>
永禄11年(1568年)の織田信長の上洛においては
部将の1人として一隊を指揮し、
柴田勝家・森可成・坂井政尚とともに先陣を命じられ、
岩成友通の籠もる勝竜寺城を攻めて、
協力して敵の首50余りを討ち取っています。
上洛後もこの4人組で京機の政務に携わります。
さらに4人組に、佐久間信盛や和田惟政を加えての政務も見られます。
永禄11年10月1日、富田林院(興正寺)に下された制札を確認し、
永禄12年2月1日には金剛寺が三好三人衆に味方したことを責めて
罰として兵糧米1000石を賦課し、
同月21日には堺接収の上使を務めています。
この頃すでに蜂屋頼隆は織田信長の代表的な部将の1人でした。
永禄12年8月、大河内城の戦いに従軍。
<小谷城の合戦>
元亀元年(1570年)6月、織田信長の江北出陣に従軍。
21日に浅井長政の小谷城を攻めた後、
虎御前山に登って一夜の陣を構えた織田信長は、
柴田勝家・佐久間信盛・木下秀吉・丹羽長秀・頼隆、
および近江国内から参陣した諸将に
村々・谷云々の隅々まで焼き払わせました。
<交野城後巻き>
元亀3年(1572年)4月、
三好義継が松永久秀父子と謀って畠山昭高と対立すると、
久秀は畠山部将・安見新七郎を攻めて交野かたのに砦を築きます。
それに対して、信長の命令で、
柴田勝家・森可成・坂井政尚・頼隆・斎藤利治・稲葉一鉄
氏家直昌・安藤守就・不破光治・丸毛長照・多賀常則、
ほか室町幕府15代将軍・足利義昭配下の諸将も加えて、
三好・松永方の交野城を攻囲しましたが、
敵は風雨に紛れて脱出してしまいました。
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同年7月、再び江北出陣に従軍し、
信長嫡男・信忠初陣の小谷城攻めに参加して、
小谷の町を破ります。
<義昭との対立・光秀と共に攻撃>
元亀4年(1573年)2月、
足利義昭が織田信長と対立して蜂起を促したので、
柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・頼隆の4将は、
近江石山城・今堅田(いまかたた)城の攻撃を命じられます。
甲賀・伊賀衆の籠もる近江石山城の大将山岡景友は降伏し、
26日に砦は破却されました。
29日、強襲を受けた今堅田は
明智光秀と丹羽長秀・蜂屋頼隆に挟撃されて落城しました。
同年3月29日の信長の京出陣に従い、
足利義昭を脅迫するために、4月2日、
洛外の寺社関連の建物を除外して家々に放火します。
足利義昭は一旦これを無視しますが、翌日、
上京の町を焼き払うと堪らず和議を申し出ます。
同年7月、その足利義昭が再び挙兵して、
二条御所には日野輝資・高倉永相・伊勢貞興・三淵藤英らの諸将を置き、
自らは槙島城に籠城すると、
織田信長に従って出陣して足利義昭を追放します。
織田信長は7月28日に天正への改元を行いました。
<一乗谷の合戦>
天正元年(1573年)8月、
越前朝倉攻めに参加。
18日夜、織田家諸将は朝倉勢の退却を見逃し、
織田信長は馬廻りだけを率いて朝倉勢を追撃しましたが、
蜂屋頼隆も遅れを取って叱責を受けた諸将
(滝川一益・柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉・稲葉一鉄)の1人でした。
なお、このときに佐久間信盛は恐縮もせずに自慢話をしたといい、
これが後年の折檻状の罪状の1つにされています。
同年9月、北伊勢攻めに従軍して、
佐久間信盛・羽柴秀吉・丹羽長秀とともに西別所城を落城させましたが、
その後も抵抗を続けた白山の中島将監を攻めて、
降伏・退去させました。
天正2年(1574年)3月、
東大寺の蘭奢待切り取りにおいて、
塙直政・菅屋長頼・佐久間信盛・柴田勝家・丹羽長秀
蜂屋頼隆・荒木村重・武井夕庵・松井友閑・織田信澄が特使として派遣され、
奉行を務めました。
<長島一向一揆討伐>
同年7月13日、
織田信長・織田信忠が諸将を動員して伊勢長島に出陣するとこれに参加。
佐久間信盛・柴田勝家・稲葉一鉄・貞通父子と賀鳥口を担当しました。
その後、柴田勝家・稲葉一鉄・貞通と大鳥居城の降伏を認めずに攻め立て、
8月2日、激しい風雨の中を脱出しようとした男女1000人ばかりを斬りました。
9月29日、兵糧攻めに耐えきれなくなった一向一揆勢は
降伏すると言って長島城を退去しましたが、
信長はこれを許さずに囲いに追い込んで焼き殺し鎮圧。
天正3年(1575年)8月、
前年1月より続いていた越前一向一揆の掃討戦に参加。
<石山合戦」および「天王寺の戦い (1576年)」>
天正4年(1576年)4月14日に石山本願寺が再び挙兵したので、
畿内の軍勢が動員されました。
本願寺勢は天王寺砦を包囲したので、5月5日、信長は救援のために軽装のまま出陣。
信長は若江で軍勢を揃えて一戦に臨びましたが、
蜂屋頼隆は滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀・稲葉一鉄・氏家直昌・安藤守就と共に第二陣に入ります。
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<近江肥田城主>
天正5年(1577年)、
雑賀攻めにおいて、2月10日、
尾張・美濃の軍勢を率いて出陣する織田家当主の織田信忠に
近江愛智郡肥田城を宿舎として提供しました。
この頃、蜂屋頼隆も織田家宿将の1人として琵琶湖沿岸の城を与えられていました。
軍勢は信長の待つ京都に集結し、13日に出陣しますが、
悪天候でしばしば順延となります。
同年3月1日、信長は
滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・頼隆・長岡藤孝・筒井順慶に、
鈴木重秀の雑賀城を攻撃させます。
同年8月に松永久秀が反逆すると、
9月、再び出陣した信忠に肥田城を宿舎として提供しました。
<織田信忠と共に出陣>
天正6年(1578年)4月4日、織田信忠に従って大坂へ出陣。
5、6日、諸将と共に石山本願寺攻めに加わり、麦苗をなぎ払って帰陣。
同年6月、再び織田信忠に従って播磨国に従軍し、
同月27日、滝川一益・稲葉一鉄・頼隆・筒井順慶・武藤舜秀
明智光秀・安藤守就・氏家直昌・荒木村重で神吉城を攻撃し、
激戦の末、神吉城は7月16日に落城しました。
<荒木村重討伐へ>
同年11月に荒木村重の謀反が明らかになると、9日、織田信長は摂津へ出陣。
滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・頼隆・安藤守就・氏家直昌・稲葉一鉄に
荒木方の茨木城に対する付け城・太田郷砦の普請が命じられます。
普請が完成すると、14日、築城を行った七将と
武藤舜秀・羽柴秀吉・長岡藤孝に有岡城の戦いの先陣が命じられます。
さらに蜂屋頼隆・丹羽長秀・蒲生賢秀と若狭衆は見野村の要害に陣を構えます。
また、12月1日、大和田城の安部二右衛門は織田方に寝返ろうとしましたが、
父と祖父が反対して天守に立て篭もったので、
2日、二右衛門は偽って頼隆・阿閉貞征の陣に銃撃し、
父と祖父が安心して天守から降りたところを捕らえて京に人質として送り、
3日夜、織田方に降って織田信長から褒美をもらったということがありました。
12月11日、織田信長は村重が籠城する
伊丹城(有岡城)の周囲に付け城を築くように命じ、
丹羽長秀・蜂屋頼隆・蒲生氏郷・高山右近・織田信孝は
そのひとつの塚口郷の砦に在番。
この包囲は年を越して長期に及んだので、
織田信長は各地で鷹狩りを興じています。
天正7年(1579年)4月、
越前衆の帰郷が認められるなど伊丹方面で配置換えがあり、
塚口郷の砦は丹羽長秀・蜂屋頼隆・蒲生氏郷の三将となりました。
6月20日、織田信長は
伊丹城包囲の滝川一益・蜂屋頼隆・武藤舜秀・丹羽長秀・福富秀勝の5名に褒美として
鷂(はいたか)3羽・小男鷹(このり)2羽を与えています。
9月2日夜、荒木村重が数名の供だけをつれて脱出すると、
滝川一益の調略をきっかけに
10月15日より伊丹城の支城への猛攻が開始されます。
裸城となった伊丹城は降伏を申し出るも、織田信長はこれを拒絶。
19日、荒木方の部将が尼崎城の村重を説得するために伊丹城を退去し、
妻子を人質として残していきました。
伊丹城は織田信澄が接収し。
けれども尼崎城・花隈城は投降せず、
12月には妻子の警護役だった荒木方の池田和泉は人質を案じ、
絶望して鉄砲で自殺してしまいます。
12月12日、信長も可哀相だとは思ったようですが、
村重の身内の者である妻子は京都に護送させ、
一方で摂津国の有力者の妻子を選び出して
丹羽長秀・蜂屋頼隆・滝川一益に命じて磔にするように指示します。
13日、こうして集められた人質130名が尼崎で磔刑になり、
以後、中級以下の武士の妻子として女388人・男124人も処刑されました。
荒木村重の身内の者は、16日、
越前衆の諸将を奉行として京都の六条河原で処刑されました。
なお、蜂屋頼隆はこの件には関与していないようです。
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<正室迎える>
なお、この頃、天正7年3月13日に
高槻城で病死した大津長治の正室を、
蜂屋頼隆は妻として迎えました。
子のいない蜂屋頼隆は丹羽長秀の四男・直政を養子に迎えています。
<和泉国の支配者>
天正8年(1580年)8月に
佐久間信盛・信栄親子が高野山に追放されると、
宿老の信盛が持っていた権限の一部を委譲され、
和泉国の支配権を与られました。
ただし頼隆は、丹羽長秀・織田信澄と
本願寺門徒が退いた大坂に入り、以後も大坂で活動。
11月26日、大坂の邸宅に津田宗及の見舞いを受けます。
天正9年(1581年)、2月28の京都御馬揃えで、
丹羽長秀に次ぐ二番手として頼隆は登場し、
河内衆・和泉衆・根来衆の一部・佐野衆を指揮しました。
4月、和泉で堀秀政を奉行とする検地が行われましたが、
槇尾寺の寺僧達は検地で寺領の一部が没収されるのを恐れ、
村々を占拠し、目録も差し出しませんでした。
報告を受けた織田信長は不届きであるとし、
「寺僧全員を斬首し、堂塔を焼き払え」と命じます。
21日、堀秀政は軍勢で威圧して寺僧800余を追い出し、
寺僧は散り散りに逃げ去りました。
5月10日、織田信澄・蜂屋頼隆・堀秀政・松井友閑・丹羽長秀は、
無人となった槇尾寺の伽藍を検分して使えそうな部材を取り除いた後、
堂塔・寺庵・僧房、経巻に至るまで残らず焼却しました。
この天正9年頃に蜂屋頼隆は岸和田城に移ったと思われます。
天正10年(1582年)1月頃には
和泉半国を領したという織田信張も
岸和田城を居城にしていたようで、両者の関係性は不明。
信張は1月に雑賀に出陣し、
2月13日、頼隆は野々村正成を雑賀表の検使として
岸和田城に受け入れており、7月頃まで居城とした模様です。
<武田氏滅亡>
甲州征伐では、同年2月9日、
和泉国は紀伊を警戒するように命じられ、
織田信忠が高遠城を落とすと、
3月に織田信長が畿内の軍勢を動員して出陣したので
これに従いますが、
武田勝頼・信豊親子は自害したため戦闘には参加せずに終わり、
上諏訪に陣をしいただけだったようです。
<本能寺の変・前後>
同年5月、信長が四国攻めの総大将に三男・神戸信孝を指名した際には、
丹羽長秀・蜂屋頼隆・織田信澄の3名は信孝の補佐として与力とされました。
ところが、渡海準備中の6月2日に本能寺の変が起こり、
織田信長が横死して遠征も中止となります。
この時、蜂屋頼隆は岸和田城におり、
5日、織田信孝と丹羽長秀が
明智光秀の女婿であった信澄を襲撃するのには関与しませんでした。
けれども、以後も信孝・長秀と行動を共にし、
秀吉が東上して来るとこれに合流します。
13日、信長の弔い合戦である山崎の戦いにおいては、
信孝の配下で出陣しました。
同年6月の清州会議において、
『太閤記』では頼隆に3万石の加増があったと記されていますが、
史実かどうかはわかりません。
7月15日に岸和田城に帰還しています。
羽柴秀吉と柴田勝家、信孝らが対立した際には、
秀吉に味方し、『天正記』によれば、
信孝の居城である岐阜城を攻める軍勢に加わっていたとあります。
天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳の戦いの後、
和泉国から越前国敦賀郡へと移封となり、
敦賀5万石を与えられます。
けれども当時の和泉国の石高は約14万石もあったので、
これは加増とは到底言えないものでした。
同年5月、西福寺に宛てた禁制では「出羽守」と署名しているので、
この頃、受領名を受けたと推測されます。
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<豊臣政権下>
「天正12年(1584年)」、
小牧・長久手の戦いには兵1500を率いて従軍。
「天正13年(1585年)」、
7月の秀吉の関白宣下に際して、
頼隆も従四位・侍従に叙任されたと思われます。
この時、秀吉より羽柴の氏を与えられ、
以後「羽柴敦賀侍従」を称しています。
同年8月、佐々成政に対する富山の役に従軍し、
「天正15年(1587年)」
の九州の役にも兵500を率いて従軍。
「天正16年(1588年)」、
秀吉より豊臣の姓を下賜。
同年4月の後陽成天皇の聚楽第行幸では、
関白秀吉の行列に供奉し、
秀吉に忠誠を誓う起請文の22名の国持大名とともに、
「敦賀侍従豊臣頼隆」と署名。
「天正17年(1589年)」9月25日に死去。
継嗣なく家は断絶となりました。
頼隆は死に際して、秀吉に遺物として金30枚を進上しましたが、
返却されています。
信長に仕えて以来、数多くの合戦に参加し、政務にも携わり
信長の天下布武に大きく貢献した頼隆は
秀吉にも仕え働き、太平の世を見届けずに他界しました。
敦賀の古社・氣比神宮です。
氣比神宮 ~越の国の古社~「北陸道総鎮守」
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