平安時代

伝・平良兼館(竜ケ井城・竜崖城) ~平良兼は平将門の叔父にあたりこの地は「弓袋山の対陣」の舞台です。

伝・平良兼館(竜ケ井城・竜崖城)



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【伝・平良兼館(竜ケ井城・竜崖城) 】
竜崖城や竜ケ井城とも呼ばれてます。。
この城は10世紀、平将門の叔父にあたる
平良兼の館と伝わっています。
「将門記」によりますと平良兼の館が
羽鳥にあったと記されており、
その館がここで取り上げる
山の上の城とされているとのことです。
しかしながらこの城は十世紀の
館跡ではないことが分かってきます。
造られた時期は、戦国盛期以降、
それも関ヶ原合戦時点に、
水戸方面と真壁地域を結ぶ戦略路を確保し、
また真壁地域のどこへでも軍勢を押し出せるように、
纏まった兵力が在陣する城だった可能性が
考えられているとのことです。

弓袋山の対陣湯袋峠
この地は平安時代の将門紀に書かれている
「弓袋山の対陣」の舞台でもあります。
平将門軍1800名が
羽鳥近郊をことごとく焼き払い、
1000名余の平良兼軍は
弓袋山南の渓谷で
対陣したとされています。
937年、子飼の渡しの合戦で
妻子を奪われ怒りに満ちた平将門は、
大軍を率いて平良兼の本拠地である
羽織の宿を攻め入り、焼き払いました。
この戦いで平良兼軍は湯袋峠に逃げ込み、
平将門は兵を引き上げました。
湯袋峠は、桜川市と石岡市の
境界にあり筑波山北部に位置しています。
かつては弓袋山といいましたが、
温泉が出たため湯袋と
名がついたとのことです。

竜ヶ井城周辺には、
深い堀が田村新田から「百貫石」、
三等三角点「三本松」443mにかけて、
何箇所もあり、深さ10m、幅15mもある所や、
二重の 堀、横堀、立堀が見られるとのことです。
稜線に掘られた堀は防御目的と思われています。
伝・平良兼館(竜ケ井城・竜崖城)

稜線下は湯袋峠で、ここは古代の道である
「小栗古道」であるとのことです。
筑波の女体山に繋がっていくハイキングコースと
なっているそうです。
定期的に「竜ヶ井城山の会」の方々が
藪や倒木が切り払うなどの
活動をされているとのことです。
筑波山 遠景
さて、平良兼館とされる場所ですが、
「歌姫神社」の辺りと地元の方からは
言われているそうです。
「歌姫神社」のある独立丘は
比高20m程とのこと。
最も遺構などは現在では確認できないとのこと。
1000年も経過しているから
それは仕方のないことかもしれません。
さてこの地名は「羽鳥」ですが
この場所にあったとされる
平良兼の館は
「羽織(はとり)の宿」と
よばれていたとのこと。
また歌姫神社は
歌姫(うたづめ)明神ともいわれ、
万葉集や常陸国風土記にある
歌垣の地とされており、
平将門もここで歌垣を
行っていたと云われているとのことです。




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【所在地】
〒300-4412 茨城県桜川市真壁町羽鳥1072、1073
(歌姫明神)

【平良兼】

平 良兼(たいら の よしかね)は、
平安時代中期の武将。
平高望の次男です。

【生誕】
貞観18年(876年)1月11日?

【死没】
天慶2年(939年)6月

【官位】
従五位上・上総介、鎮守府将軍

【氏族】
桓武平氏高望王流(坂東平氏)

【父】
平高望

【母】
藤原良方娘

【兄弟】
国香、良兼、良将、良繇、
良広、良文、良茂、良正、
藤原維幾室ら

【妻】
継室:源護娘

【子】
公雅、公連、公元、平将門室

【略歴】
生年を貞観18年(876年)
とする史料があるとのことです。

【生涯】
父である平高望は、寛平元年5月13日
(889年6月14日)、
宇多天皇の勅により
平姓を賜与され臣籍降下し、
昌泰元年(898年)に
上総介に任じられ
上総国に下向、
武射郡の屋形を本拠としました。
平高望と共に下向した平良兼は、
平高望の上総介の任期が過ぎても
帰京せず父に次いで
上総介を勤めるなどし、
上総や下総国に勢力を拡大し、
その後各地に広がる
高望王流桓武平氏の
基盤を固めました。




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【関東の桓武平氏の族長として】
平国香は、平貞盛やその子孫が
後世活躍したことによって
結果的に嫡流と
見做されるようになったのであって、
元から嫡子であったというわけでは
なかったとのことです。
逆に元々族長であったのは
平良兼であり、平良兼は
源護一族を含んだ「姻婭の長」として、
平高望の基盤(上総国)を受け継ぎ、
常総の内海を媒介とし、
上総から下総、下野にまで勢力を広げ、
関東の桓武平氏の族長として
卓越していたといえます。
竜ケ井城・竜崖城 付近

【平将門との関係】
甥であり聟でもある平将門とは
かねてから不仲でありました。
兄である平国香が、平将門と舅の源護の
息子らの抗争に巻き込まれ死亡した際には
不介入であったものの、平将門にとっては
伯父にあたる良正をも打ち破るに至って
武力介入し、平将門との対立の中心に
立つようになります。
平将門公 レリーフ

【将門との合戦に臨む】
父である平国香を死に追い込んだ
平将門との和平路線を取る
甥の貞盛を批判・説得して
味方に引き入れ、下野国を目指し出陣。
承平6年(936年)6月、
良正・貞盛と共に下野国境にて
平将門と合戦になり
数では圧倒的に勝るも敗れ、
下野国府に退却します。
国府は包囲されましたが、
平将門は包囲の一角を解きあえて
平良兼を逃したのでした。




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その後源護の告状によって、
平将門は京に召喚され
裁きを受ける事となりますが、
承平7年(937年)4月、
朱雀天皇元服の大赦で
罪を許され5月に帰国します。
すると同年8月6日、
平良兼は平将門の父「良将」や「高望王」など
父祖の霊像を掲げて
(これは高望王〜良将と続いてきた
平氏の嫡流としての
地位を受け継ぐ者として
行ったものであったとのこと)、
平将門の常羽御厩(いくはのみうまや)
を攻め、
今度は平将門を敗走させて
常羽御厩を焼き討ちしました。
すぐさま兵を再編した平将門に
反撃されましたが
再びそれを退け、その際、
密告のもと平将門の妻子
(つまり良兼の娘と孫)を捕らえ、
上総に連れ帰りました。
けれども、息子の公雅や公連が
手助けして9月10日に再び
出奔し平将門の元に戻ってしまうのでした。

その後も平将門との争いが続くなか、
11月5日、平将門の訴えに応えた
朝廷により武蔵・安房・上総・常陸・
下野などの国々に平良兼ら追捕の官符が
下ってしまうのでした。
これにより平将門と平良兼は
公的に立場が逆転し平将門は力を得て
勢い付いたものの、
各地の国司は官符を受けても
平一族と争うことを躊躇して
動くこともなく、
また官符が出された国々の
実質統治者は平一族当人らである為に、
何の効果もなかったのでは
ないかといわれています。
平良兼は12月14日(938年1月17日)、
平将門の駈使である丈部子春丸を
買収して石井の営所の内情を探り
夜襲をかけましたが
察知されてしまい逆襲を受け敗走し、
これ以降平良兼の勢力は衰退し、
天慶2年(939年)6月に病死しました。

平将門~困っている人を放っておけない面倒見の良い大将は東国に新国家を創ろうとした。

真壁城~大掾氏の一族である真壁氏が支配、江戸時代に浅野長政が真壁藩5万石を与えられます。

筑波山神社~万葉集にも登場する「筑波」~山頂からの眺め良し!日本史を見守ってきた山。

大国玉神社 (桜川市)~平将門の妻「君の御前」の父である平真樹の館がありました。

后神社(桜川市)~平将門の妻で平真樹の娘とされる「君の御前」を祀っています。

御門御墓(平将門居館?)~平将門の供養塔とされる五輪塔があり付近には妻を祀る后神社があります。

平将門公本據豊田館跡~平将門誕生の地と伝わる場所、後に豊田氏の向石毛(向石下)城址となりました。

國王神社~平将門公終焉の地に三女如蔵尼によって創建されたと伝わる古社です。

大宝城(茨城県)~関東最古の八幡宮である大宝八幡宮境内にあり下妻氏によって築城された城です。

伊佐城~伊達氏の祖とされる一族の伊佐氏が築城し、南北朝時代には南朝側について戦いました。

小栗城~坂東平氏の流れをくむ常陸小栗氏が築城、室町期の関東地方の激動の渦にのまれていきました。

築土神社と世継稲荷~平将門信仰の象徴的神社と徳川秀忠が称賛した神社です。

兜神社~平将門公にまつわる言い伝えがあり証券界の守り神でもある東京のお社です。

鎧神社~日本武命や平将門公にまつわる伝承があり人々の崇敬を集めてきた東京のお社です。

将門塚~平将門公の首を祀る塚で大都会の超一等地に鎮座し、現在も静かに見守っています。

石井の井戸跡(坂東市岩井)~平将門が拠点である石井営所を決めた伝説がある古井戸です。

真下城(上野国)~平将門伝説がありますが、確定しているのは天文年間に児玉党系統の真下氏が築城したことです。

伝・源護館跡陣営~平将門の乱の始まりの戦と嵯峨源氏である源護という人物について。

延命寺~「島の薬師」と親しまれているお寺で、平将門公持護仏の薬師如来像が祀られています。

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