平安時代

藤原為時~漢詩の才能に長け、人格形成で紫式部に影響を与えたとされており、子らに先立たれる。

妙高市 いもり池



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【藤原為時】

藤原 為時(ふじわら の ためとき)は、
平安時代中期、一条朝の貴族、歌人、漢詩人。
藤原北家良門流、中納言・藤原兼輔の孫で、
刑部大輔・藤原雅正の三男です。
紫式部の父。
官位は正五位下・左少弁。

【生誕】
天暦3年(949年)頃

【死没】
長元2年(1029年)頃

【官位】
正五位下、越後

【主君】
冷泉天皇⇒円融天皇⇒
花山天皇一条天皇
三条天皇⇒後一条天皇

【氏族】
藤原北家良門流

【父】
藤原雅正

【母】
藤原定方の娘

【兄弟】
為頼、為長、為時、平維将室

【妻】
藤原為信の娘

【子】
惟規、惟通、定暹、
紫式部、藤原信経室

【経歴】
紀伝道を菅原文時に師事し
文章生に挙げられています。
ちなみに菅原文時は
菅原道真の孫であるとのことです。
蔵人所雑色・播磨権少掾を経て、
貞元2年(977年)、
東宮・師貞親王の御読書始において
副侍読を務めました。
永観2年(984年)、
師貞親王が即位して花山天皇となると、
式部丞・六位蔵人に任じられました。
なお、紫式部の「式部」は
藤原為時の官職名に
由来しているとのことです。
寛和2年(986年)、
花山天皇の退位に伴い官職を辞任しました。

一条朝に入ると約10年に亘って
散位の状況となっていましたが、
長徳2年(996年)に
従五位下・越前守に叙任されて
越前国へ下向します。
この際に娘である紫式部も
同行させたとされています。
寛弘6年(1009年)、
正五位下・左少弁に叙任されますが、
2年後の寛弘8年(1011年)に
越後守となり再び受領を務めます。
息子である藤原惟規
越後国に同行しましたが、
藤原惟規はまもなく現地で
亡くなりました。
また、長和3年(1014年)6月に
任期を1年残しながら
越後守を辞任し帰京しましたが、
一説には直前に紫式部が
亡くなったからではないかとも
言われているそうです。




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長和5年(1016年)4月29日に
三井寺にて出家しました。
寛仁2年(1018年)には
摂政・藤原頼通邸の
屏風の料に詩を献じましたが、
その後の消息は不明であるとのことです。

「本朝麗藻(ほんちょうれいそう)」に
漢詩作品13首が採録されており、
大江匡衡は源為憲・源孝道らと並べて
「凡位を越える詩人」と評したとのことです。
「後拾遺和歌集」(3首)および
「新古今和歌集」(1首)に
和歌作品が入集しています。

【越前守任官に関する逸話】
藤原為時は長徳2年(996年)正月25日の除目で
淡路守に任ぜられましたが、
3日後の28日に右大臣である
藤原道長が参内して、
俄に越前守に任ぜられたばかりの
源国盛を停めて、藤原為時を
淡路守から越前守に変更したとのことです。
下国である淡路国に比べ
越前国は大国であり、
国司としての収入には雲泥の差があります。
この任官のいきさつについて、
「古事談」に以下の逸話があるとのことです。
気比神宮

一条天皇の時代に
源国盛が越前守に任ぜられました。
藤原為時は
「苦学寒夜、紅涙霑襟、
除目後朝、蒼天在眼」の句を
女房(女官)を通して奏上し、
一条天皇はこれを見て食事も
喉を通らず、寝所に入って
泣いたとのことです。
藤原道長が参内してこれを聞き、
自分の側近(「今昔物語集」では乳母子)で、
越前守に任じられたばかりである
(おそらく藤原道長の推挙と想定される)
源国盛を呼び越前守を辞退させて、
代わりを藤原為時とする除目を
行ったのでした。
その時、越前守を譲らされた
源国盛の家では嘆き悲しみ、
源国盛は衝撃のあまり
病気になってしまい、
秋の除目で播磨守に
任じられたものの、
病は癒えずとうとう
死んでしまったとのことです。




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【越前守変更の本当の理由】
同様の話は「続本朝往生伝」
「今昔物語集」「十訓抄」など
多数の説話集に掲載されております。
除目のやり直しにより
藤原為時が淡路守から越前守に
栄転したことは
当時の人々の注目を
集めたことが想定されます。
なお、この越前守変更の理由については、
「権記」や「小右記」によりますと、
前年の長徳元年(995年)9月24日に
隣国の若狭に宋の商人朱仁聡が
来着する事件が起こり、
その後若狭や越前に逗留している事から、
その交渉相手として
漢文の才を持つ藤原為時が選ばれたと
言われているとのことです。

【紫式部の性格は父譲りかも】
藤原為時の性格は、
紫式部日記や今昔物語集などから
垣間見ることができるとのことです。
その性格は偏屈な堅物であったようで、
それがどうも娘の紫式部にも
大きく影響してしまったとも
いわれているとのことです。
それを裏付ける逸話としましては、
「紫式部日記」に綴られており、
藤原惟規の項にも出てくる
漢籍暗唱の件で
言い放った心無い一言ですね。
簡単にまとめると、
漢籍の暗唱を
紫式部はすらすらとできて、
藤原惟規はできなかったのですが、
藤原為時は
「残念だ。お前が男でなかったのが
自分の運の悪さだ」
というものです。
当時、漢文は男性が学ぶもので
女性が学ぶものではないという
考えが一般的であったようです。
藤原為時の発言には
こうした時代背景を
鑑みてのことだったとも
思われますが、やはり心無いですね。
またこれまで長らく
藤原惟規は紫式部の兄か弟であるか
論じられていたそうですが、
近年になって藤原惟規は紫式部の
弟であるという見解がでています。
紫式部よりも年少であるならば、
暗唱が上手く出来なかったとしても
説明がつきますが、
将来のための英才教育は現代よりも
厳しかったのかもしれないとのことで・・・。

もうひとつの逸話ですが、
これも「紫式部日記」からです。

ある日、天皇の前で催される
音楽を演奏する機会があり、
その演奏者に藤原為時が抜擢されました。
けれどもなんと藤原為時は
演奏もせずに帰ってしまったのでした。
藤原為時は、天皇の御前で
演奏すると言う栄誉を自ら
放棄してしまったのです。
この行動に藤原道長が紫式部に
「何故天皇の御前なのに
演奏もせずに帰った?
お前の父は偏屈者だ!
親の代わりにお前が和歌を詠みなさい!」
と言い放ったとか・・・。
この時、藤原道長は酔っていたともいわれており、
紫式部はしつこく「和歌を詠め~」と
絡まれたともいわれております。
災難でしたね。

【清少納言父娘と逆】
明朗快活、ユーモアセンス抜群の
清少納言の父である清原元輔とは
真逆ともいえる性格ですね。
清少納言も父から愛情を受け、学び
人格形成に父からの影響を
受けたとされていますが、
紫式部もまた父である
藤原為時の性格を色濃く
譲り受けてしまったかもしれませんね。




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【子供たちに先立たれてしまう】
紫式部の母と言われている
藤原為信の娘とは一男二女を
授かっているとのことです。
が、其の子供たちは全員
藤原為時よりも先に
他界してしまっています。
妻である藤原為信の娘自身も
藤原惟規が幼い時に
亡くなってしまい、
紫式部も姉を母のように見て
育ったとのことですから、
若くして亡くなってしまったようですね。
晩年はさぞや寂しかったことでしょう。
最も別の女性が生んだとされる子が
男性2名、女性1名いたと
されているので、
全くの一人であったわけでは
なさそうですね。

2024年NHK大河ドラマ
「光る君へ」では
岸谷五朗(きしたに ごろう)さんが
演じられます。

紫式部~世界最古の長編小説とされる「源氏物語」を執筆した女流小説家で平安時代きっての才女。

ちやは(藤原為信の娘)~紫式部の生母、藤原為時との間に一男二女を授かりますが若くして亡くなります。

藤原惟規~紫式部の兄弟で和歌の才能があったが、越後にて父より先に亡くなる。

大弐三位(紫式部娘・藤原賢子)~母からは和歌や文才を、父からは明朗で自由快活な気性を受け継ぎ、行動力溢れ長寿を全うしました。

さわ~紫式部(まひろ)の友人、史実では平維将の娘である従姉妹の筑紫の君の可能性あり。

藤原宣孝~性格も女性関係も華やかで20歳以上も年上であった紫式部の夫。

藤原穆子~源倫子の母親で藤原道長の才能を見抜き結婚を勧めた女性で紫式部とは遠縁です。

源雅信~皇室の血筋で源倫子の父、藤原兼家にとっては邪魔な存在、宇多源氏の始祖で子孫は近江源氏・出雲源氏へと繋がっていく。

藤原兼家~熾烈な権力闘争に勝ち、のちの藤原氏最盛期を築いた人物です。

藤原頼忠~従兄弟の兼通とは親しく兼家とはライバル、天皇の外戚になれず失意のうちに世を去る。

藤原公任~藤原北家小野宮流で政治的・芸術手的にも名門の出で「お坊ちゃま」、藤原道長とは同い年で四納言。

藤原実資~藤原北家嫡流の小野宮流の家領を継ぎ「賢人右府」と呼ばれ、貴重な資料である「小右記」を残す。

藤原道隆~藤原道長の長兄、容姿端正、明朗で豪快、気配り上手な優れた跡継ぎでしたが病で急逝します。

藤原道兼~父は藤原兼家、兄は藤原道隆、弟は藤原道長、待望の関白に就くも数日でこの世を去る。

藤原道長~初めは目立たずも後に政権を掌握、「一家立三后」をなし「この世をば わが世とぞ思ふ」と詠む。

源俊賢~一条朝の四納言の一人、父の源高明が政変で失脚するもバランス感覚に優れ権大納言まで昇進します。

藤原斉信~藤原道長の従兄弟で当初は道隆に仕えるも後に道長の腹心へ、清少納言との交流があり「枕草子」に登場します。

藤原行成~世尊寺流の祖、実務に高い能力を発揮し人徳高く当代の能書家として後世「権蹟」と称されました。

源倫子~6人の子供に恵まれ、夫である藤原道長の外戚政権を 実質的に完成させた女性です。

源明子(源高明の娘)~藤原道長の妾妻で源俊賢の異母妹、明子の家系はやがて五摂家に繋がっていくのです。

藤原詮子~藤原道長の姉、国母となりやがて日本最初の女院となって、権力を握り政治に介入する。

藤原時姫~藤原兼家の妻で藤原道隆・道兼・道長・超子・詮子の生母、一条・三条両天皇の祖母です。

高階貴子~身分は高くないが和歌と漢詩に秀でた才媛で藤原道隆の嫡妻、百人一首54番の情熱的な和歌が有名。

清少納言~末娘で父親からとても可愛がられて育ち、定子に仕え世界最古の随筆である「枕草子」を執筆します。

花山天皇~藤原氏の策略で19歳で出家、独創的な発想の持ち主で好色、観音巡礼が後に「西国三十三所巡礼」として継承。

一条天皇~「叡哲欽明」と評された賢王は笛の名手で皇后との「純愛」を育み、やがて平安王朝文化が開花。

いと~まひろ(紫式部)と弟の惟規の乳母、平安朝の乳母について

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