【北条氏綱】
北条 氏綱(ほうじょう うじつな)は、
戦国時代の武将、戦国大名。
小田原北条氏第2代当主です。
伊豆国・相模国を平定した伊勢盛時(北条早雲)
の後を継いで領国を武蔵半国、
下総の一部そして
駿河半国にまで拡大させました。
また、「勝って兜の緒を締めよ」
の遺言でも知られています。
【当初は伊勢氏を称する】
当初は父同様に伊勢氏を称しており、
北条氏を称するようになるのは
父の死後の大永3年(1523年)か
大永4年(1524年)からでした。
父の早雲は北条氏を称することは
生涯なく、伊勢盛時、
伊勢宗瑞などと名乗っていました。
けれども小田原北条氏としては
北条氏綱を2代目と数えます。
なお、北条氏綱以降の当主が
代々通字として用いることとなる
「氏」の字は、伊勢盛時(北条早雲)
の別名として伝わる「長氏」・「氏茂」・「氏盛」
の偏諱に由来するものと考えられていますが、
北条氏綱の元服時に父はまだ
今川氏の姻族・重臣であったことから
従兄である今川氏当主の今川氏親からの
偏諱として与えられたのではないかとする説があります。
【生誕】
長享元年(1487年)
【死没】
天文10年7月19日
(1541年8月10日)
【改名】
伊勢伊豆千代丸(幼名)
⇒ 氏綱⇒北条氏綱
【別名】
通称:新九郎
【父】伊勢盛時(北条早雲)
【母】小笠原政清の娘
【家督相続】
長享元年(1487年)、
伊勢盛時(伊勢宗瑞、北条早雲)
の嫡男として生まれました。
従来、父親の伊勢盛時(北条早雲)は、
没年88歳とされていましたが、
これを64歳とする説が唱えられております。
その説によれば、
伊勢盛時(北条早雲)が32歳の時に
伊勢(北条)氏綱が生まれたことになります。
母親は伊勢盛時の正室で
幕府奉公衆である小笠原政清(まさきよ)
の娘の南陽院殿です。
【小笠原政清について】
ちなみに、 小笠原政清は京都小笠原氏の当主です。
北条氏家臣の小笠原元続の祖父、
元続の子・康広および
細川家家臣小笠原少斎の曽祖父にあたる人物です。
【生い立ち】
幼名は伊豆千代丸です。
元服後には父と同じ通称である
新九郎を称しました。
伊勢(北条)氏綱が生まれた年に、
父親の伊勢盛時(北条早雲)は、
小鹿範満を討って、
甥の龍王丸(のちの今川氏親)を
今川家の当主に据えており、
その功により興国寺城主となっています。
【伊勢(北条)氏綱の初見】
伊勢(北条)氏綱の文書上の初見は、
永正9年(1512年)で
伊勢盛時(北条早雲)の後継者として
活動していたことがうかがえ、
伊勢盛時(北条早雲)が
大森氏から奪取した
相模国小田原城に
在番していたと推測されています。
【家督を継ぐ】
永正5年(1518年)、
伊勢盛時(北条早雲)の隠居により
家督を継ぎ、当主となりました。
その翌年の永正16年(1519年)に
伊勢盛時(北条早雲)が死去したため、
名実共に伊勢(北条)氏の当主となったのでした。
【虎の印判状の効果】
伊勢(北条)氏綱の家督相続とともに、
伊勢(北条)氏は虎の印判状を
用いるようになっています。
印判状のない徴収命令は無効とし、
郡代・代官による
百姓・職人への違法な搾取を抑止する
体制が整えられました。
それまで、守護が直接百姓に
文書を発給することはありませんdしたが、
印判状の出現により、
戦国大名による村落・百姓への
直接支配が進むようになったのでした。
【小田原城の本城化】
伊勢盛時(北条早雲)の時代、
伊勢(北条)氏の居城は
伊豆の韮山城でしたが、
伊勢(北条)氏綱は
それまで在番していた
相模の小田原城を本城化させました。
また家督相続に伴う
代替わり検地の実施と、
安堵状の発給を行ったのでした。
【寺社造営事業】
大永年間(1521年⇒1527年)から
伊勢(北条)氏綱は、
寒川神社宝殿・箱根三所大権現宝殿の再建
そして相模六所宮・伊豆山権現の再建
といった寺社造営事業を
盛んに行っており、
その際に「相州太守」を名乗り
事実上の相模の支配者である事を
主張しています。
なお、伊勢(北条)氏綱が
相模守になった事実はない。とのことです。
【北条氏への改称】
大永3年(1523年)6月から9月の間に
伊勢(北条)氏綱は、
名字を伊勢氏から北条氏(小田原北条氏)へと
改めたと推定されます。
【伊勢氏から北条氏へ改めた理由として】
父である伊勢盛時(北条早雲)は、
明応の政変(1493年)を契機に
幕府の承認を受けて伊豆に侵攻して領国化し、
さらには相模をも平定しました。
けれども、山内・扇谷両上杉氏をはじめとする
旧来からの在地勢力からは
「他国の逆徒」と呼ばれて
反発を受けていたのでした。
領国支配を正当化するために、
自らを関東とゆかりの深い
執権北条氏の後継者たらんとする
発想は伊勢盛時(北条早雲)
の時代からあったとされており、
子である北条氏綱の代に
これを実現したことになります。
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【正室が執権北条氏末裔の可能性】
伊勢氏とは全く無関係の
執権北条氏(鎌倉北条氏)を勝手に名乗った、
あるいは伊勢盛時(北条早雲)が
北条氏末裔の北条行長の養子となった、
などとされてきましたが、
近年の調査で
北条氏綱の正室である養珠院殿が
執権北条氏の末裔とされる
横井氏(横江氏)の出身であった
可能性が指摘されているそうです。
「横江北条相模守女」とする記録
(「高橋家過去帳」)
が存在していうことから、
そうした可能性が指摘されたそうです。
没年は大永7年7月17日
(1527年8月13日)と
推測されているとのことです。
養珠院殿は永正12年(1515年)に
三代目となる氏康を産んでいます。
【朝廷から正式に承認されたもの】
さらに近年の別の研究では、
この「北条」への改称は単なる自称ではなく、
朝廷に願い出て正式に
認められたものであると
考えられているとのことです。
改称から数年後には執権北条氏の
古例に倣った左京大夫に任じられました。
なお、左京大夫は北条義時・泰時が
任じられた官職です。
【家格でも今川・上杉・武田と同等】
家格の面でも周辺の今川氏や武田氏、
上杉氏と同等になっています。
【扇谷・山内両上杉家を意識】
北条氏に改めたとされる
大永3年6月から9月の時点では、
北条氏綱と扇谷上杉家は
和睦していたという見方もあり、
「北条」への改称は北条氏綱による
一種の敵対表明であり、
これをきっかけに北条氏綱は、
小机領進出に踏み切り、
更に扇谷・山内両上杉家の
反北条同盟の成立、
翌年の江戸城攻略に至ったとする
解釈もあるそうです。
【扇谷上杉氏との攻防】
永正16年(1519年)、
北条氏綱は父である伊勢盛時(北条早雲)の
の政策を継承して房総半島に出兵し、
小弓公方・足利義明と
真里谷武田氏を支援しました。
その後の数年間は
軍事行動を控えていました。
これは、武蔵国を巡って伊勢氏(後北条氏)と
対立関係にあった扇谷上杉家が
共に足利義明を支持する立場となったために、
両者が和睦の状況であったからと考えられています。
【横浜市西部を支配】
大永3年(1523年)までに
武蔵国南西部の久良岐郡一帯を経略し、
(横浜市の西部に相当)
さらに武蔵国西部・南部の国人を服属させてます。
また、この計略は同年と推測される
「北条」への改称と連動した
政策であったとする説もあるそうです。
【江戸から埼玉南部まで攻略】
危機感を持った扇谷上杉朝興は、
山内上杉家と和睦をして
北条氏綱に対抗しようとします。
大永4年(1524年)正月に、
北条氏綱は武蔵に攻め込んで
高輪原の戦いで扇谷勢を撃破すると
太田資高を寝返らせて江戸城を攻略します。
江戸城を攻略後すぐに追撃を開始して、
板橋にて板橋某・市大夫兄弟を討ち取ります。
2月2日に太田資頼の寝返りにより、
岩付城を攻撃して落城させ
太田備中守(太田資頼の兄)を討ち取ったのでした。
続いて蕨城も攻略し、
また、毛呂城(山根城)城主の
毛呂太郎・岡本将監が北条方に属したため、
毛呂~石戸間を手中におさめ、
敵の松山城~河越城間の遮断に成功したのでした。
【扇谷上杉朝興の反撃】
これに対して扇谷上杉朝興は、
山内上杉憲房の支援を受けて
態勢を立て直しました。
そして古河公方足利高基と和睦し、
さらに甲斐守護である
武田信虎とも結んで反撃を開始しました。
6月18日に太田資頼が
扇谷上杉朝興に帰参してしまい。
7月20日には、
扇谷上杉朝興からの要請により、
武田信虎が武蔵国まで出張り
岩付城を攻め落としてしまいました。
これを背景として、
太田資頼は岩付城に
復帰することができました。
北条氏綱は扇谷上杉朝興と和睦を結び、
毛呂城引き渡しを余儀なくされたのでした。
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【武蔵を奪われ玉縄まで迫る】
翌年の大永5年(1525年)2月に
北条氏綱は和睦を破って
岩付城を奪還しましたが、
扇谷上杉朝興は、
山内上杉憲房・憲寛父子との
連携のもとで逆襲を行い、
大永5年から大永6年(1526年)にかけて
武蔵の諸城を奪い返し、
相模国玉縄城にまで迫ったのでした。
【北条氏綱包囲網】
扇谷上杉朝興は関東管領山内上杉家、
古河公方、甲斐の武田信虎のみならず、
伊勢盛時(北条早雲)時代には、
小田原北条氏と友好関係にあった
上総国の真里谷武田氏、
小弓公方そして安房国の里見氏とも
手を結んで包囲網を形成し、
北条氏綱は四面楚歌に陥りました。
同年5月には里見氏の軍勢が
鎌倉を襲撃し、
鶴岡八幡宮が焼失してしまいました。
(ゆ、許せん!)
【今川氏親の死去】
また、同年6月23日には、
伊勢盛時(北条早雲)の甥で
北条氏綱の従兄弟である
今川氏親が死去しました。
享年54歳でした。
【氏綱包囲網から脱落した房総勢】
大永7年(1527年)には
北条氏綱と小弓公方・足利義明の間で
和睦が成立して、
真里谷武田氏や里見氏も
北条氏綱と停戦しており、
この段階で房総諸勢力は
包囲網から脱落していたとする
見方も出されています。
享禄3年(1530年)に
嫡男である北条氏康が
扇谷上杉朝興方の軍勢と
多摩川河原の小沢原で戦い、
これに大勝したものの、
享禄4年(1531年)には
扇谷上杉朝興に岩付城を奪回されています。
【里見家の内乱】
北条氏綱の苦境は
敵陣営の内紛によって救われました。
天文2年(1533年)に、
里見氏で内訌が起き、
里見義豊が叔父の里見実堯と
正木時綱を粛清しました。
北条氏綱は里見実堯の遺児である
里見義堯を援助して里見義豊を滅ぼさせ、
里見氏が包囲網から脱落します。
【真里谷武田氏の内紛】
小弓公方を擁立する
真里谷武田氏でも内紛が起き、
小弓公方の勢力が
弱まることとなったのでした。
【河越城の攻略】
天文6年(1537年)に
扇谷上杉朝興が死去して、
若年の上杉朝定が跡を継ぐと、
北条氏綱は武蔵に出陣して
扇谷上杉家の本拠地である河越城を陥れ、
三男の北条為昌を城代に置きました
【葛西城の攻略と足利義明との全面対決】
天文7年(1538年)には
葛西城を攻略して
房総への足がかりを築きます。
北条氏綱と足利義明はこれまで
対立と和睦と繰り返しながらも
全面的な対決を避け続けていましたが、
河越城の陥落に危機感を抱いた
足利義明は葛西城の攻防において
扇谷上杉家への援軍を派遣して
全面的に対立する方向に向かったのでした。
【駿相同盟】
北条氏綱は関東に勢力を拡大する一方で、
父親の伊勢盛時(北条早雲)の代より
形式的には主従関係にあった
駿河国の今川氏との駿相同盟に基づいて
甲斐国の武田信虎と
甲相国境で相争いました。
【武田氏との争い】
武田氏は、元々扇谷上杉家と友好関係にあり、
武田軍が扇谷上杉家を支援するために
北条領である相模国津久井郡に侵攻したり、
反対に北条軍が武田領である
甲斐国都留郡(郡内地方)に侵攻するなど
対立関係であったのでした。
【武田信虎の弟を討ち取る】
天文4年(1535年)には
今川家当主となった
今川氏輝の要請に応えて都留郡に出陣し、
山中の戦いにおいて武田信虎の弟である
武田信友を討ち取る大勝を収めています。
【花倉の乱】
天文5年(1536年)に
今川氏輝が急死すると
家督を巡って「花倉の乱」と呼ばれる
お家騒動が起こり、
北条氏綱は栴岳承芳を支持しました。
【甲駿同盟に激怒】
栴岳承芳が勝利して今川義元として
家督を相続しましたが、
翌年の天文6年(1537年)に、
今川義元は事もあろうに
武田信虎の娘である定恵院を娶って
甲駿同盟を成立させたのでした。
【河東の乱と完全独立】
北条氏綱はこれに激怒して相駿同盟が破綻し、
今川との抗争が勃発します。
小田原北条軍は駿河国の河東地方(富士川以東)
に侵攻して占領し、これにより、
今川氏との主従関係を完全に解消して
独立を果たしたのでした。
【小弓公方を滅ぼす】
小田原北条氏の房総進出は、
小弓公方と対立する
古河公方の利害と一致するものでした。
小弓公方の足利義明が
古河・関宿への攻撃を画策すると
古河公方の足利晴氏は
北条氏綱と北条氏康父子に対し
「小弓御退治」を命じたのでした。
【第一次国府台合戦】
天文7年(1538年)10月7日、
北条氏綱は、小弓公方の足利義明と
安房の里見義堯らの連合軍と戦います。
北条氏綱と北条氏康父子は、
足利・里見連合軍に大勝し、
足利義明を討ち取って小弓公方を滅ぼし、
武蔵南部から下総にかけて
勢力を拡大することに成功したのでした。
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【関東管領に補任】
「伊佐早文書」によれば、
古河公方の足利晴氏は
合戦の勝利を賞して、
北条氏綱を関東管領に補任したといいます。
関東管領補任は幕府の権限でありましたが、
享徳の乱以降、室町幕府による
関東管領補任は行われなくなっており、
山内上杉家の家督と一体化して
扱われるようになっていたのでした。
従って、関東管領の山内上杉憲政が
存在する以上は、
正式なものにはなり得ませんが、
古河公方を奉ずる
北条氏綱と北条氏康は
東国の伝統勢力に対抗する
政治的地位を得たことになりました。
【足利氏の「御一家」の身分】
天文8年(1539年)には
北条氏綱は娘(芳春院)を
足利晴氏に嫁がせ、
古河公方との紐帯を強めるとともに
足利氏の「御一家」の身分も
与えられたのでした。
【領国支配】
北条氏綱の時代に、
小田原北条氏の支城体制が確立しています。
小田原城を本城に、
伊豆国の韮山城、
相模国の玉縄城、三崎城(新井城)、
武蔵国の小机城、江戸城、河越城が
支城となり、各々領域支配の拠点となりました。
支城には伊豆入部以来の重臣や
一門が置かれました。
このうち玉縄城主となった
三男の北条為昌は後に河越城主も兼ねて
広大な領域を管轄しており、
北条氏綱の晩年には、
嫡男である北条氏康に匹敵する
重要な地位を占めるようになっていました。
【父にはない独自の施策】
北条氏綱は父親の伊勢盛時(北条早雲)の
郷村支配を継承しましたが、
独自の施策として、
中世になって廃絶していた
伝馬制度を復活させて
領内における物資の流通及び
輸送を整備しています。
また、検地によって増分した
田地や公収した隠田
そして交通の要所に
積極的に御領所(直轄地)を設置し、
その代官には信頼できる側近を任命したのでした。
【商人や職人に対する統制】
北条氏綱の時代に
積極的にすすめられた築城や
寺社造営のために職人集団を集めており、
小田原北条氏は商人・職人に対する統制を行い、
年貢とは別に諸役・諸公事を課し、
小田原城下の津田藤兵衛に発した
藍瓶銭(藍染業者への賦課金)の徴収を許す
享禄3年(1530年)付の
虎の印判状が現存しています。
天文7年(1538年)には
伊豆と相模の皮作に触頭を置き、
武具製作に不可欠な皮作を掌握しました。
なお、「皮作」とは皮革を加工する
職人階層のことです。
【鎌倉鶴岡八幡宮の造営】
領国拡大以外の北条氏綱の大事業としては、
鎌倉鶴岡八幡宮の造営があります。
鶴岡八幡宮は大永6年(1526年)に
戦火によって焼失してしまいました。
造営事業は天文元年(1532年)から始まり、
興福寺の番匠を呼び寄せて、
翌年から工事が着手されたのでした。
北条氏綱は関東の諸領主に奉加を求めましたが、
両上杉氏はこれを拒否しています。
天文9年(1540年)に上宮正殿が完成し、
北条氏綱ら北条一門臨席のもとで
盛大な落慶式が催されたのでした。
この造営事業は北条氏綱の没後まで続き、
完成は北条氏康の代である
天文13年(1544年)でした。
【東国武家政権の政治的後継者】
源頼朝以来の武門の守護神たる
鶴岡八幡宮の再興事業を
主導することは
執権北条氏や鎌倉公方といった
東国武家政権の政治的後継者を主張するに
等しい意味を持っていたのです。
【死去】
北条氏綱に敗れた扇谷上杉朝定が、
山内上杉家の上杉憲政と手を結んで
反攻の兆しを見せ始め、
さらに今川軍との戦いも長期化する中、
天文10年(1541年)に病に倒れ、
7月19日に死去しました。
享年は55歳でした。
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【五ヶ条の訓戒状】
後を嫡男である北条氏康が継ぎました。
北条氏綱は若い北条氏康の器量を心配して、
死の直前の天文10年(1541年)5月に
北条氏康に対して五ヶ条の訓戒状を伝えています。
なお前文では
「其方儀、万事我等より生れ勝り給ひぬと見付候得ハ」と
北条氏康の器量を評価しています。
一、
大将から侍にいたるまで、義を大事にすること。
たとえ義に違い、国を切り取ることができても、
後世の恥辱を受けるであろう。
一、
侍から農民にいたるまで、全てに慈しむこと。
必要のない民などいない。
一、
驕らずへつらわず、
身の丈にあった分限を守るをよしとすべし。
一、
倹約に勤めて重視すべし。
一、
いつも勝利していると、驕りが生まれ、
敵を侮ったり、不行儀なことがあるので注意すべし。
北条氏綱、五ヶ条の訓戒
(要旨)
※なお原文は、2000文字程度もあるとのことです。
【「北条記」の評価】
北条氏綱の時代に小田原北条氏は
伊勢盛時(北条早雲)からの
伊豆・相模に加えて、
武蔵半国と下総の一部
そして駿河半国を領国としていました。
北条記は北条氏綱を
「二世氏綱君は父のあとをよく守って
後嗣としての功があった」
と評価しているとのことです。
【墓所】
神奈川県箱根町の金湯山早雲寺に残る
北条氏綱を含む北条五代の墓所は、
江戸時代の寛文12年(1672年)に、
北条氏規の子孫で
狭山藩北条家5代目当主である北条氏治が、
伊勢盛時(北条早雲)の命日に当たる
8月15日に建立した供養塔です。
北条氏綱の本来の墓所は、
かつての広大な旧早雲寺境内の
春松院に葬られましたが、
旧早雲寺の全伽藍は
豊臣秀吉の軍勢に焼かれたため、
その位置は不明となってしまっています。
伊勢盛時(北条早雲・伊勢宗瑞)の登場~小田原北条初代~名門一族の出自で関東に覇を唱えに行く!
北条氏康~小田原北条3代目~相模の獅子 ・関東八州にその名を轟かした猛将は戦国随一の民政家。
北条幻庵(北条長綱)~小田原北条五代の全ての当主に仕えた多芸多才のオールラウンダー。
北条氏政~小田原北条4代目~最大の領土を築くも、生きた時代と合わなかった慎重派で愛妻家で家族思い。
北条氏直~小田原北条家最後の当主~30年の短き人生は戦国後期、激動の関東と共に。
小田原城跡~小田原北条五代~近世城郭と中世城郭の両方の遺構が残る城。
興国寺城~国指定史跡~(伝)伊勢盛時の旗揚げの城であり今川・小田原北条・武田・豊臣・徳川と領地争奪戦の城。
二宮城~木曽義仲の末裔である大石信重によって築城との記録あり、現在の二宮神社、武蔵守護代の大石氏とは?
鉢形城~数万の敵に1か月も籠城した頑強な要害で日本100名城で国の史跡です。
花園城~築城は平安末期、猪俣党の一族で山内上杉氏の重臣を代々務めた藤田氏の居城です。
毛呂山城跡(毛呂氏館跡)と毛呂一族の墓~源頼朝に仕えた在地領主で、戦国時代まで存続しました。
青木城跡~横浜市街地にある「多米氏」の城。権現山城と併せて訪れたい街中の城跡。
笹下城・笹山城~横浜市にある土地開発等で消え去った小田原北条氏の城です。
小机城跡~長尾景春の乱と豊島氏の滅亡、小田原北条氏の時代へ~戦国時代の神奈川県を見つめてきた城
深沢城跡~今川氏が築城し、北条氏と武田信玄の攻防最前線となった要害
古河公方館跡~古河公方とは?関東における戦国時代の幕開けの存在
真里谷城~武田信長が築城し真里谷武田氏の本拠地となった城と云われています。
峰上城~真里谷氏が築いた歴戦の城で登城するには高難度、七つ堀切が有名です。
関宿城跡~利根川と江戸川に囲まれた関東の水運の拠点~北条が上杉を制した場所。
国府台城~下総国の大激戦の地~国府台合戦、里見氏VS小田原北条氏
白浜城 (安房国)~安房里見氏の始まりの城、里見義実が拠点としました。
亀井城(川崎 月讀神社)~伝亀井六郎(源義経四天王)の居城、戦国時代には領主は小島佐渡守、古墳もあり。
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