城跡

常滑城~常滑水野氏の代々の居城、後に大目付の起源の惣目付に水野守信が就任。

常滑城跡



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【常滑城】

常滑城は緒川城主・水野氏の一族である
水野監物忠綱によって築かれた城です。
水野忠綱からはじまる常滑水野氏
その後、大和守忠清、監物守次とつづき
三代にわたる居城となりました。
ただし、常滑水野氏の祖は
水野貞守の次男である
水野政祖(まさとも)
であるという説もあります。
その場合は少なくとも4代に
わたったことになります。

本家の緒川水野氏を水野信元が継ぐと、
水野信元(水野忠政・次男)は
織田信長と結び、
知多制圧に乗り出しました。
常滑水野氏は常滑北部にある
大野城の佐治氏と争いながらも、
常滑南部だけではなく
半田市板山あたりまで
勢力を拡大していましたが、
常滑三代目城主の水野守次(守隆)は
知多半島中南部まで
勢力を伸ばしてきた
水野信元の娘と婚姻関係を結び、
一族として本家の知多制圧に
力を貸す事になるのでした。

常滑城

天正10年(1582年)に
水野守次は明智光秀に味方したため城を退去し、
その後は織田信雄の家老である
星崎城主・岡部重孝に
与えられましたが、
羽柴秀吉の謀略で岡部重孝が
織田信雄によって殺害されると、
刈谷城主で宗家を継いだとされる水野忠重
(水野忠政・九男)に攻められ落城しました。
その後は徳川家康の家臣である
高木広正が城主となりましたが、
徳川家康の関東移封に従ったため
廃城となりました。
現在城址は宅地化のため遺構はほぼありません。

ただし、城主・水野氏三代の遺徳を偲んで
建立されたという正法寺の前の公園に
城址碑と案内板が建てられています。

【縄張形態】
平山城(丘城)

【築城主】
水野監物忠綱

【廃城年】
天正18年(1590年)か

【主な城主】
常滑水野氏

【交通アクセス】
(電車)
名古屋鉄道常滑線「常滑」駅から徒歩約17分

(車)
知多横断道路「常滑」ICから8~9分

【所在地】
〒479-0828 愛知県常滑市市場町5丁目13

※専用の駐車場はありません。

【常滑水野氏】

水野貞守の次男である政祖(まさとも)が
分家をして常滑の地へ移り、
常滑城を築いたのが始まりとされています。
ただし、緒川城主水野下野守清忠の
三男である水野監物忠綱が始まりである
とされる説もあります。

常滑城

水野忠綱およびその子の墓所は
常滑市山方町5-106の天沢院にあります。
常滑水野氏の祖とされる
「政祖」の名がみえるのは「寛政譜」のみです。
「寛永系図」の「水野-坤」では
「某・山城守・法名花鴎」-
「守次・監物」とさていますが、
水野宗家4代目の水野忠政
との関係は明らかではないとのことです。
また「士林泝洄」巻36は
「大和守・常滑城主」-「大和守」
-「守隆・監物」とし
「大和守・常滑城主」を
水野忠政の兄弟としています。
ただしこれが「寛政譜」にいう
監物「忠綱」のことであるかは
明らかではないとのことです。
常滑城を退去した水野守次(守隆)は、
1598年に京都で没したとのことです。、
墓所は京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町68
天龍寺妙智院です。
常滑に残された妻(水野信元の娘)は
剃髪して総心尼となり、
1615年総心寺を建立しました。
水野守次(守隆)の子である新七は、
1584年の「小牧、長久手の戦い
で討死しているとのことです。




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もう一人の水野守次(守隆)の子とされている、
水野河内守「守信」が「半左衛門」を名乗って
大目付、後に大身旗本となりました。
また戦死した「新七」の後には
水野信元の孫八郎衛門(あるいは新七郎)が
養子に入って「水野保雅」を名乗り、
尾張藩士となっています。
水野守信の墓所は父である水野守次(守隆)と
同じ京都・天龍寺の永明院(同町60)、
養子にはいった「保雅」の墓は
常滑市社辺64の総心寺とのことです。

「保雅」の実母は水野信元の娘で
法名「栄寿院転誉清心」(あるいは「博誉清心」)、
養母も同じく水野信元の娘
「向陽院花影総心」であるということです。
(「士林泝洄」巻36)。
向陽院は監物守隆の妻で、
剃髪後は熱田に居住したとのことです。
(「張州雑志」復刻1巻650頁)。
「士林泝洄」巻36「水野」は、
「総心」の養子となった八郎右衛門「某」の母を
「水野信元」の娘とし、
同時に「中山五郎左衛門」(勝時)
の子であるとしています。
(名古屋市蓬左文庫所蔵本「藩士名寄」
稿本版122‐125巻126項の記述も同様)。
他方「士林泝洄」巻69「大崎」では、
「水野信元」の娘を妻とした
「大崎七郎右衛門」昌好
(元和6年・1620年卒)の下に
八郎右衛門「保雅」
(承応元年・1652年卒)をかけています。
その姓を「水野」と明記しており、
養子となったのは
この「保雅」と考えられています。
(「張州雑志」に
同趣旨の記述があるそうです)。
けれども彼が昌好の実子
であるのかどうかまでは
記されていないとのこと。
保雅の娘が「七郎右衛門妻」
となっていますが、
これは七郎右衛門「昌継」
(寛永11年・1634年卒)の子、
七郎右衛門「昌次」
(延宝3年・1675年卒)
の妻と考えられているとのことです。
(「士林泝洄」巻69)。

【水野守信】
水野 守信(みずの もりのぶ、天正5年(1577年)⇒
寛永13年12月25日(1637年1月21日))は、
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将です。
江戸幕府旗本寄合、惣目付。幼名は新七郎。
通称は半左衛門。官位は従五位下・河内守。
父は水野守次です。
母は側室の北小路公頼の娘の菊とも、
水野信元の娘ともいわれています。
正室は有馬豊氏の娘。
子女は荒尾重就(池田光仲家臣)室、
兵助(早世)、水野守政(養子、娘の子)、
清三郎(早世)、
成瀬正勝室、織田信当室、
徳山重政室(のち離縁)。




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母の菊と母方の祖父の
北小路公頼に養育されたとのことです。
徳川家康に仕え、会津征伐に従軍し、
旗本として3500石を賜ります。
慶長10年(1605年)の
徳川秀忠上洛の際には供をしています。
書院番を務め、元和3年(1617年)
に使番となり、寛永3年(1626年)に
長崎奉行に就任しました。
キリシタンの取締りを強化し、
踏み絵を考案したのも
水野守信といわれています。
寛永5年(1628年)2月2日、
大坂町奉行、寛永6年(1629年)2月6日より
堺奉行を兼任しました。
寛永9年(1632年)12月17日、
秋山正重・柳生宗矩・井上政重
とともに惣目付に任じられました。
これが大目付の起源であるとのことです。
寛永11年(1634年)、
1500石を加増されました。

寛永13年(1637年)死去しました。
自身が開基した京の嵯峨天龍寺の
塔頭永明院に葬られました。
家督は養子の守政が継いだとのことです。

水野信元~徳川家康のかなり頼れる伯父だが、最期は織田信長から殺害命令が下る。

於大の方~徳川家康の生母、戦国の動乱の中を逞しく生き抜いた女性です。

緒川城~水野氏五代の居城、徳川家康の生母である於大の方の出生地です。

明智光秀について~駆け足で手短にわかる明智光秀の生涯~

大御堂寺野間大坊~真言宗豊山派の寺院で野間美浜で最期を遂げた源義朝の墓があります。

河和城~戸田宗光が築城、孫の守光没後にその遺児が母方の水野姓を名乗り河和水野氏となります。

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