【九条兼実】
九条 兼実(くじょう かねざね)は、
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿です。
藤原北家、関白・藤原忠通の六男です。
官位は従一位・摂政・関白・太政大臣。
月輪殿、後法性寺殿とも呼ばれていました。
通称は後法性寺関白(ごほっしょうじ かんぱく)。
五摂家の一つ、九条家の祖でありかつ、
その九条家から枝分かれした
一条家と二条家の祖でもあります。
五摂家のうち、
この3家を九条流というとのことです。
【母親と兄弟たち】
母親は、家女房で
太皇太后宮大進・藤原仲光の娘・加賀とのことです。
同母兄弟4人の中の長子となります。
同母弟には、太政大臣となった兼房、
天台座主となった慈円などいます。
また異母兄には近衛基実、松殿基房がいます。
異母弟には興福寺別当となった信円らがいます。
【玉葉】
九条兼実が40年間書き綴った日記「玉葉」は、
当時の状況を知る上での一級史料となっています。
【生誕】
久安5年(1149年)
【死没】
承元元年4月5日(1207年5月3日)
【改名】
兼実⇒円証(法名)
【別名】
月輪殿、後法性寺殿
【墓所】
京都市東福寺
【官位】
従一位、摂政、関白、太政大臣
【主君】
後白河天皇⇒二条天皇⇒六条天皇⇒
高倉天皇⇒安徳天皇⇒後鳥羽天皇⇒土御門天皇
【氏族】
藤原北家御堂流九条家
【父】
藤原忠通
【母】
加賀局(藤原仲光の娘)
【兄弟】
恵信、覚忠、聖子、近衛基実、
松殿基房、育子、兼実、尊忠、
道円、信円、兼房、慈円、最忠など
【養兄弟】
呈子
【妻】
藤原兼子(藤原季行の娘)
藤原顕輔または藤原頼輔の娘、
八条院三位局(高階盛章の娘)
【子】
良通、良経、任子、良円、良平、
良快、良輔、良尋、良海、良恵、玉日
【九条兼実の生涯】
久安5年(1149年)、
摂政・藤原忠通の六男として生まれました。
母の身分は低かったのですが、
異母姉である皇嘉門院の猶子となり
保元3年(1158年)は兄である基実の
猶子の資格で元服、正五位下に叙せられ、
左近衛権中将に任ぜられました。
永暦元年(1160年)には従三位となり、
公卿に列したのでした。
【10代での昇進】
保元の乱で勢力を後退させた摂関家は、
故実先例の集積による
儀礼政治の遂行に特化することで
生き残りを図ろうとしていました。
皇嘉門院の庇護を受けて
九条兼実も学問の研鑽を積み、
有職故実に通暁した公卿として
異母兄の基実・基房に次ぐ昇進を遂げました。
長寛2年(1164年)に16歳で内大臣、
仁安元年(1166年)に18歳で右大臣に昇進しました。
九条兼実は若年ではありましたが
公事・作法について高い見識を有し、
特に左大臣・大炊御門経宗の作法については
違例が多いと厳しく批判しています。
【留まった官職】
しかしながら、九条兼実の官職は
この時から20年間動くことはなく、
永らく右大臣に留まったのでした。
理由として欠員が出ず、
昇進が頭打ちになったこともありますが、
所労・病悩を訴えて朝廷への出仕が
滞りがちだったことも
要因の一つとして考えられています。
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【治承三年の政変】
治承3年(1179年)11月、
平清盛はクーデターを起こし
後白河法皇を幽閉し、
関白である松殿基房を追放しました。
これは九条兼実にとっては
思わぬ僥倖(ぎょうこう)をもたらしました。
(僥倖とは思いがけない幸運のことです)
新たに関白となった近衛基通は
公事に未練であったため、
平家は九条兼実にその補佐役としての
役割を期待して、
九条兼実の嫡男である良通を
権中納言・右大将とする優遇策に出ました。
九条兼実は平家から恩顧を与えられることを
「生涯の恥辱」と憤慨しながらも、
任官自体は九条家の家格上昇に
繋がるため受諾しました。
公事の遂行について
助言を求める近衛基通に対しても、
「故殿(基実)の深恩を思う」として
その手ほどきをしたとのことです。
【後白河院との距離】
治承4年(1180年)の以仁王の挙兵を機に
全国各地は動乱状態となりました。
治承5年(1181年)には平清盛が死去して
後白河院が院政を再開するなど
情勢は目まぐるしく変転します。
こうした中、九条兼実は特定の勢力に属さず
内乱期を通して傍観者的態度を取りました。
この時期の九条兼実は
右大臣の要職にありながら
朝廷にほとんど出仕せず、
後白河院からの諮問には
明確な返答を避けたといい、
摂政の基通に対しても
煩わしさからか公事・作法を
教示することはなくなっていました。
九条兼実は内心の不満や
批判は日記の中だけに止め、
それを公言したり、
後白河院や平家に正面切って
対峙するようなことは
決してしなかったのですが、
貴族社会崩壊の危機に直面して
苦慮している後白河院にとっては
信頼を置きにくい存在であり、
両者の関係は敵対とは
行かないまでも徐々に
冷却化していったのでした。
【「徳政」を訴える】
朝廷の中枢と距離を取っている間、
九条兼実は中国の政治書を学習しています。
平家による南都焼き討ちがあった際には、
再建に対して重要性を訴える一方で、
戦乱や飢饉による民衆への被害が
解決しないうちから
寺社を再建させることは
民を苦しめることに繋がるなど、
神仏の信仰と
民衆救済活動の両立を図った
「徳政」を訴えています。
【八条院との関係の強化】
この頃九条兼実は、
現状の混乱した政治を憂いて、
自らが政治運営を主導できる
立場になった際には、
政治の刷新を図り、
過去の安定した社会を
回復させたいという
政治理念を掲げたのでした。
そのための後ろ盾を得るために
後白河法皇の異母妹「八条院」へ接近し、
八条院の臣下「三位局」
(さんみのつぼね)との間に
「九条良輔」(くじょうよしすけ)
をもうけています。
九条兼実は、
九条良輔を八条院の養子にして、
八条院との結び付きをさらに強めたのでした。
【内覧宣下】
文治元年(1185年)10月、
後白河法皇は源義経の要請により
源頼朝追討の院宣を下しましたが、
翌月の源義経没落で
苦しい状況に追い込まれました。
源頼朝は後白河院の独裁を掣肘するために
院近臣の解官、議奏公卿による
源朝政の運営、
九条兼実への内覧宣下を柱とする
廟堂改革要求を突きつけます。
源頼朝が九条兼実を推薦した背景には
九条兼実が故実に通じた
教養人だったこともありましたが、
平家と親密だった近衛家、
木曾義仲と結んだ松殿家による政権を
好まなかったという事情もあったといえます。
もっとも内覧推薦は九条兼実にとっては
全くの寝耳に水だったようで、
「夢の如し、幻の如し」
(「玉葉」12月27日条)と驚愕し、
関東と密通しているという
嫌疑をかけられるのではないかと怯えています。
源頼朝の要求に対して後白河院が
近衛基通擁護の姿勢を取ったため、
一時は摂政・内覧が並立するなど
紆余曲折がありましたが、
文治2年(1186年)3月12日、
九条兼実はようやく摂政・氏長者を宣下されたのでした。
【執政の座に就く】
執政の座に就いた九条兼実は、
それまでの病悩が嘘のように政務に邁進しました。
文治3年(1187年)には、
保元以来廃絶していた記録所を
閑院内裏内に設置。
続いて後白河院の名で諸臣に対する
意見封事を求める御教書が出さましたが、
これは実は九条兼実の提言によるもので
最終的な文面の推敲したのも九条兼実でした。
九条兼実の信条は保守的で故実先例に基づき
公事を過失なく遂行することを重視しましたが、
その反面「政を淳素に反す」という
理念の実現のために必要な改革や
徳政の推進については積極的でした。
文治4年(1188年)正月27日、
九条兼実は一門・公卿・殿上人を
引き連れて春日社に参詣し、
氏神に感謝の祈りを捧げています。
【嫡子の死】
ところが、それから一月も立たない
2月20日未明、
嫡子で内大臣の九条良通が22歳で死去しました。
九条良通は前夜に九条兼実と
雑談しており正に急逝だったのでした。
将来を嘱望していた嫡子の死に
九条兼実は打ちのめされました。
が、喪が明けると悲しみを
振り払うかのように
自らの女子の入内実現に向けて
活動を開始したのでした。
文治5年(1189年)11月15日、
女子は従三位に叙され
「任子」の名が定められました。
文治6年(1190年)正月3日、
後鳥羽天皇の元服において
九条兼実は加冠役を務め、
任子は11日に入内、
16日に女御となり、
4月26日には中宮に冊立されました。
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【土御門通親の動き】
一方で、この頃から
九条兼実にとって気にかかる
事態も生じていたのでした。
文治5年(1189年)10月16日、
後白河院が権中納言・土御門通親の
久我亭に入り種々の進物を献上されました。
九条兼実は日記に
「人以って可となさず、弾指すべし弾指すべし」
と記して土御門通親の動きに
警戒感を募らせましたが、
土御門通親はさらに
後白河院の末の皇女(覲子内親王)が
内親王宣下を受けると勅別当となり、
生母である丹後局との
結びつきを強めたのでした。
12月14日、
九条兼実の太政大臣就任を祝う大饗では
土御門通親と吉田経房が座がないことを
理由に退出するなど、
しだいに九条兼実に反発する勢力が
形成されていったのでした。
【源頼朝の上洛】
文治5年(1189年)に
奥州藤原氏を討滅して
後顧の憂いがなくなった源頼朝は、
建久元年(1190年)11月7日に上洛しました。
9日、九条兼実は閑院内裏の鬼間において
源頼朝と初めて対面しました。
【反九条兼実派の動向】
上洛中に九条兼実と源頼朝が
何度会ったかはわかりませんが、
「玉葉」による限り両者の対面は
この一度きりでした。
そして皮肉にも翌年から
反九条兼実派の動きは
むしろ活発となり、
九条兼実は窮地に追い込まれることになるのでした。
【土御門通道の動きと鎌倉】
建久2年(1191年)4月1日、
源頼朝の腹心である中原広元(大江広元)が
土御門通親の推挙により、
慣例を破って
明法博士・左衛門大尉に任じられました。
4月5日には源頼朝の娘の大姫が
10月に入内するのではないかという風聞が、
九条兼実の耳に入っています。
【宣陽門院】
6月26日、
覲子内親王が院号宣下を受けて
宣陽門院となりました。
土御門通親は宣陽門院の執事別当となり、
院司には子息や自派の廷臣を登用して
大きな政治的足場を
築くことになるのでした。
九条兼実は元来、宣陽門院の生母である
丹後局に良い感情を持っていませんでした。
しかしながら院号定には所労不快ながら、
追従の心切なるによって参入しています。
【九条兼実の窮地】
7月17日、九条兼実の家司が
法皇を呪詛しているという内容の落書が、
丹後局から九条兼実に示されました。
11月5日、
一条高能(一条能保の子、母は坊門姫)と
山科教成(丹後局の子)の近衛中将、
少将への補任について
後白河法皇から諮問され、
九条兼実の返答は
法皇の逆鱗に触れたのでした。
これを聞いた九条兼実は
「無権の執政、孤随の摂籙、薄氷破れんとす、
虎の尾を踏むべし、半死半死」と自嘲しています。
「愚身仙洞に於いては疎遠無双、
殆ど謀反の首に処せらる」
(「玉葉」建久3年正月3日条)
とまで追い詰められていました。
【後白河院の崩御】
建久3年(1192年)3月13日、
後白河院が崩御したことで
長年の重圧から解放されたのでした。
建久2年(1193年)に出された
建久新制には九条兼実の現実的な側面と
政治理念が反映されているという見方があります。
こうした姿勢によって貴族社会に
一定の秩序と安定をもたらしたのでした。
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【短い実りある時期】
法皇崩御により九条兼実は一転して
廟堂に君臨し、誰を憚ることもなく
朝政を主導することになりました。
源頼朝に征夷大将軍を宣下し、
南都(奈良)復興事業を実施するなど、
九条兼実の政治生活では
一番実り多い時期となりました。
けれどもそれも長くは続きませんでした。
【反兼実派の結集】
後白河院崩御後に新たな治天の君となった
後鳥羽天皇や上級貴族は
厳格な九条兼実の姿勢に不満を抱いていきます。
一方で院近臣への抑圧は
宣陽門院を中心に
反兼実派の結集をもたらし、
門閥重視で故実先例に厳格な姿勢は
中・下級貴族の反発をも招いたのでした。
そして源頼朝も大姫入内のために
丹後局に接近し、
九条兼実への支援を打ち切りました。
【関白の地位を追われる】
こうして朝廷内で
浮き上がった存在となった
九条兼実でしたが、
自らの政治路線を譲ることなく、
故実先例に拘るよりも
自らの治天の君としての
立場の強化を図ろうとする
後鳥羽天皇との対立は深刻化していきます。
中宮・任子が皇子を産まなかったことで
廷臣の大半から見切りをつけられ、
建久7年(1196年)11月、
関白の地位を追われることになったのでした。
【浄土宗に帰依】
失脚した九条兼実は
二度と政界に復帰することはありませんでした。
建仁元年(1201年)12月10日には
長年連れ添った室(藤原季行の女)に先立たれ、
建仁2年(1202年)正月27日、浄
土宗の法然を戒師として出家、円証と号しました。
九条兼実は将来を嘱望されていた
長男である九条良通が早世した心痛から
専修念仏の教えに救いを求め、
法然に深く帰依するようになりました。
法然の著作「選択本願念仏集」(「選択集」)は
九条兼実の求めに応じて、
法然が著したものです。
しかし、「親鸞聖人御因縁」・「親鸞聖人正明伝」・
「親鸞聖人正統伝」などによりますと、
九条兼実は法然が唱える
悪人正機の教えに少々信用できませんでした。
そこで、自分達のような俗人や、
戒を破った僧までもが
本当に念仏を唱えることで
極楽浄土に往生できるのか
確かめようとしたのでした。
法然の弟子の僧と自らの娘を結婚させて
その僧を破戒僧にしてみようと
考えたのでした。
本当にそれでもその僧は
浄土に往生できるのかを
確認しようとしたのです。
そのような破戒僧でも
往生できるのならば
自分のような俗人でも
往生できるで筈だと。
その話を法然に持ちかけたところ、
法然は、かつては九条兼実の弟である
天台宗の慈円の弟子でもあった
綽空(のちの親鸞)を指名し、
あまり乗り気ではなかった綽空を説得して
九条兼実の娘の玉日と結婚させ、
九条兼実を安堵させました。
【晩年】
次男である九条良経は
土御門通親死後の
建仁2年(1202年)12月に
摂政となりましたが、
元久3年(1206年)3月に
38歳で急死してしまいます。
よって九条兼実は孫の道家を育てることに
持てる全てを傾けたのでした。
建永2年(1207年)2月に起こった
専修念仏の弾圧(承元の法難)では、
法然の配流を止めることはできませんでしたが、
配流地を自領の讃岐に変更して庇護したのでした。
その直後の4月5日、
九条兼実は59歳で死去しました。
京都法性寺に葬られ、墓は東福寺にあります。
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【和歌と日記「玉葉」】
九条兼実は若い頃から和歌に関心が深く、
自ら和歌を能したほか、
藤原俊成・定家らの庇護者でもありました。
40年間書き綴った日記「玉葉」は、
当時の状況を知る第一級の史料として有名です。
他の著作に「魚秘抄」「摂政神斎法」「春除目略抄」があります。
2022年NHK大河ドラマ
「鎌倉殿の13人」では
田中直樹(たなかなおき)さんが演じられます。
後白河院(後白河院天皇)(後白河法皇)「治天の君」の地位を保持した「日本一の大天狗」の異名をとる人物。
慈円~歴史書「愚管抄」の著者で九条兼実は同母兄、天台座主を務め小倉百人一首にも選出されています。
丹後局(高階栄子)~中流官僚の妻から後白河法皇の寵愛を受け、政治家として権勢を振るった美女
源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。
後鳥羽院(後鳥羽上皇)、承久の乱を起こし文武両道多芸多能で怨霊伝説もあるスゴイ人物。
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