【佐原城】
佐原城(さわらじょう)は
神奈川県横須賀市佐原3丁目にあった中世山城です。
相模国の豪族三浦氏一門、
三浦義明の子である
佐原義連の居城と伝わっています。
【城郭構造】
不明
【天守構造】
なし
【築城主】
佐原氏
【築城年】
不明(12世紀代か)
【主な城主】
佐原義連
【廃城年】
不明(13世紀半ばか)
三浦半島東部、
横須賀市久里浜に流下する
平作川の支流、
佐原川右岸に面した台地上に所在しています。
周辺は開発による土地改変が進み、
土塁や堀切などの山城遺構は
今ではほとんど確認することはできませんが、
明治26年(1893年)建立の
「「佐原十郎義連城跡」明治二十六年九月八日佐原里民建之」
と書かれた石碑が建っています。
佐原城は、衣笠を拠点としていた
三浦氏の第4代目である
三浦大介義明の子の
佐原十郎義連の居城でした。
自然の地形を上手に利用して
築城されており、
怒田城とともに
衣笠城の当面を固めていました。
近年、この丘の上で、
弥生時代の住居跡などの遺跡も
発見されています。
【所在地】
〒239-0835 神奈川県横須賀市佐原3丁目
【目印の建物】
◆横須賀ダイヤランドテニスクラブ
◆三浦学苑高等学校 野球グラウンド
【交通アクセス】
京急「北久里浜」駅よりバス(北久14)⇒
「佐原橋」バス停より徒歩約6分程度。
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【駐車場】
専用の駐車場はありません。
「佐原城への入り口」付近は
「駐車禁止」ゾーンではないので
短時間であれば駐車できます。
【佐原 義連】
佐原 義連(さわら よしつら)は、
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将でした。
相模国の豪族である三浦義明の子です。
三浦氏の本拠地である
相模国衣笠城の東南に位置する
佐原城(現在の神奈川県横須賀市佐原)
に居住していたため、佐原氏を称しました。
【生涯】
治承4年(1180年)8月の
源頼朝挙兵に一族と共に参じて御家人となりました。
養和元年(1181年)4月、
佐原義連は源頼朝の寝所を警護する
11名の内に選ばれました。
治承・寿永の乱では一ノ谷の戦いで
源義経率いる搦手軍に属し、
「鵯越の逆落とし」で真っ先に駆け下りた武勇が
「平家物語」に描かれています。
1672年に刊行された「会津旧事雑考」
によりますと、佐原義連は
文治5年(1189年)7月の奥州合戦に従軍し、
その功により、陸奥国会津四郡を
与えられたとされています。
更に嘉禄3年(1227年)7月、
浄土宗多念義派(長楽寺義)の祖である
隆寛律師(法然の弟子)が
奥州に流罪と決した際(嘉禄の法難)、
奥州に所領を持つ佐原盛時(佐原義連の孫)の
預かりとなっている事実から、
佐原盛時が宝治合戦以前より
会津郡耶麻郡加納庄を
領していたことへの傍証となります。
また宝治合戦(1247年)の時点、
佐原盛時の異母兄が
会津の北田や藤倉を名字地とする
北田広盛・藤倉盛義の名が
「吾妻鏡」にみえるから、
佐原氏が宝治合戦以前から
会津を所領としていたことは
明らかであると云えます。
佐原義連は文治5年(1189年)の
北条時房の元服の際、
源頼朝の命により烏帽子親となりました。
建久3年(1192年)の
源頼朝上洛に従い左衛門尉に任ぜられました。
関東御領遠江国笠原荘の
惣地頭兼預所も務めました。
没年には諸説あります。
「異本塔寺長帳」では
建久3年(1192年)4月15日に75歳で死去。
「葦名系図」では建仁3年(1203年)5月17日に
78歳で死去。
「葦名家由緒考證」では
承久3年(1221年)4月15日に
82歳で死去とあります。
また子供の佐原盛連(さはら もりつら)
の子息たちは宝治合戦時には北条方として戦い、
三浦盛時は後に相模三浦氏として再興しました。
また、鎌倉時代から会津に分かれた
庶流は蘆名氏を称して
有力な戦国大名となったのでした。
佐原義蓮の墓所は横須賀市の満願寺にあります。
宝治合戦を生き抜き、
三浦一族を未来に繋ぎ、
相模三浦氏・会津の戦国大名である蘆名氏へと
引き継いでいったのが佐原義蓮です。
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【満願寺】
満願寺 岩戸山。
臨済宗で、満願寺は鎌倉時代初期に創建されました。
三浦一族ゆかりの寺で開基、
佐原十郎義連公によって創建されました。
正面に中島三郎助筆の松尾芭蕉句碑があります。
本尊の木造観音菩薩像や地蔵菩薩像は、
高さ200cm以上あり、
伝、運慶作の仏像や文化財が残っています。
鎌倉時代初期に造立したといわれ、
国の重要文化財に指定されています。
また観音堂の右隣には、
佐原十郎義連の墓と伝わる五輪塔があります。
例年ですと毎年3月に、
「春の文化展」が開催されるとのことです。
なお収蔵庫拝観は要予約とのことです。
三春の滝桜があるとのことです。
<木造観音菩薩立像・木造地蔵菩薩立像>
(国指定重要文化財)
<木像不動明王立像・木造毘沙門天立像>
(横須賀市指定重要文化財)
<観音堂・佐原義蓮公の墓所、入り口>
昔ながらの階段ですり減っていますので、
階段の昇降の際はご注意ください。
<佐原義連公の墓所脇の五輪塔>
家臣や子供たちの供養塔でしょうか。
素朴な石塔で苔むしており年代を感じさせます。
【満願寺・所在地】
横須賀市岩戸1-4-9
【電話番号】
046-848-3138
【交通アクセス】
(電車・バス)
京急「北久里浜駅」より(北久14・16)バス
⇒「岩戸二丁目」バス停より徒歩約7分
(徒歩)
京急「北久里浜駅」より徒歩約40分程度。
(車)
横浜横須賀道路「佐原」IC⇒県道27号(横須賀葉山線)
⇒信号「満願寺入り口」に入り、坂道を下る。
道が狭く、信号から曲がって下がった直後の道は
クランク状態なので走行にはくれぐれもご注意ください。
【駐車場】
参拝者用の駐車場があります。
三浦義明と衣笠城合戦~長老は自らの命を盾に三浦一族の未来を守りました。
三浦義澄~源頼朝を支えた宿老の一人で13人の合議制のメンバーで相模守護。三浦一族の栄枯盛衰。
源義経~戦略家且つ戦術家であった若き天才~その悲運な生き様はやがて伝説となった。
和田義盛と和田合戦~三浦一族~鎌倉幕府創始の功臣だが北条義時に嵌められる
北条時房~初代連署で六波羅探題南方、北条義時の弟で甥の北条泰時とは最高の相棒であり好敵手でした。
三浦義村~鎌倉幕府の創設期から執権政治の確立まで仕え権謀術数に優れた策略家
矢部禅尼~三浦義村の娘で北条泰時の正室、子供達は相模三浦氏や戦国大名の蘆名氏につながる。
芦名城~戦国大名・蘆名氏の発祥の地であり、三浦一族の本拠地である衣笠城の支城でした。
平作城~衣笠城の支城、三浦義明の弟の孫である平佐古(蘆名)為重の所領でした。
怒田城・大矢部城・小矢部城~三浦一族の本拠地である衣笠城の支城です。
大田和城址~大多和氏は三浦義明の三男である大多和三郎義久が築城しました。
会津若松城(鶴ヶ城)~日本100名城、蘆名氏が築城、伊達・上杉・蒲生・加藤・保科・松平と続いた天下の名城。
小田山城~蘆名氏が築城し詰城として数百年機能、戊辰戦争時には会津若松城への砲撃場所となりました。
向羽黒山城(続100名城)~蘆名盛氏が築き、上杉景勝・伊達政宗・蒲生氏郷も改修した東北最大級の要害です。
猪苗代城 ~三浦一族で蘆名氏と同族の猪苗代氏が築城し約400年間支配、江戸時代は会津藩の重要拠点でした。
摺上原(磨上原)古戦場跡~蘆名氏VS伊達政宗の決戦地!会津の歴史が大きく変わりました。
会津新宮城跡~三浦一族の佐原盛蓮の六男である新宮氏が築城、国の史跡です。
藤倉舘~三浦一族の佐原盛蓮の三男・藤倉盛義の居館と伝えられています。
会津・北田城跡~三浦一族・佐原盛蓮の次男の佐原広盛が築城し、北田氏を名乗り7代続きました。
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