【満江御前の屋敷跡(曽我氏の下屋敷跡)】
曽我兄弟が工藤祐経を討つために
富士の裾野に向かおうとする時、
母の満江御前のもとを訪れ、
今生の別れに母の満江御前から
小袖を乞い受けたと伝わる
曽我氏の下屋敷跡(地元では大屋敷)です。
現在は曽我別所公民館のあるところです。
そして満江御前に従って
河津から移り住んだ一族の末裔である
武藤家と安池家が
今もこの下屋敷跡の近くに住んでおり、
下屋敷跡や下屋敷跡に近い法連寺裏手にある
満江御前のお墓の管理を
なさっているとのことです。
【所在地】
〒250-0205 神奈川県小田原市曽我別所126
【駐車場】
公民館の駐車場があります。
【所在地】
法蓮寺の所在地:
〒250-0205 神奈川県小田原市曽我別所54
<駐車場>
参拝者用の駐車場があります。
【満江御前】
読みは「まんこうごぜん、まんごうごぜん」。
久安5年(1150年)?~正治元年(1199年)5月28日。
父親は2つの説があります。
一つは狩野親光の3女、
もう一つは横山党の武士である
横山時重の娘です。
但し、祖父は共通して
狩野茂光であるそうです。
当初は伊豆目代である源仲成
(河内源氏の嫡流である
源頼政の嫡男である源仲綱の乳子)
に嫁いで一男一女を授かっています。
その後、夫である源仲成が
主君である源仲綱の帰京に従った際に、
実家の父親である狩野親光(横山時重説有り)から
伊豆に留まって欲しいと懇願され、
源仲成と離縁して、伊東祐親の嫡男である
河津三郎佑泰と再婚しました。
そして河津三郎佑泰との間には、
一万(後の十郎祐成)、
箱王(後の五郎時致)を産み、
第三子(御坊丸)の出産が近かった
安元2年(1176年)に
夫である河津三郎佑泰が
工藤佑経の郎党の者たちによって
射殺されてしまいました。
そして舅である伊東祐親の指示によって
曽我祐信の処へ5歳の十郎(祐成)、
3歳の五郎(時致)の
2人を連れて再婚しました。
一万(十郎祐成)は当初は
曾我祐信の実子である
曽我祐綱がまだ幼なかったため、
曾我祐信の猶子となり、
将来は曾我氏を継ぐ予定だったとの事です。
とはいえ、既に曾我祐信の子は
男子が3名、女子が少なくとも
一人はいたそうですが。
一方、弟の箱王(五郎時致)は、
成長後に出家するべく
箱根権現に入ったとの事です。
川津三郎佑泰の死後に誕生した御房丸は
河津三郎祐泰の実弟である
伊東祐清の養子となりましたが、
伊東祐清が北陸篠原合戦で
木曾義仲軍と戦い討死、
或いは行方不明となったため、
伊東祐清の妻であった比企尼の三女は、
御房丸を連れて平賀義信に再嫁しました。
御房丸はその所領だった越後の国上寺で成長し
律師坊実永と名乗るようになりました。
律師坊実永は仇討ち事件後に
事情聴取のため鎌倉に呼ばれ、
死罪と思い込み、空気を読みすぎて
甘縄の民家で自害してしまったのでした。
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満江御前と曽我兄弟の養父の曾我祐信は
建久四年(1193年)5月に起きた
曽我兄弟の仇討ち事件後に出家隠居し、
大御堂を建立して
兄弟の菩提を弔ったとのことです。
満江御前は、曽我兄弟の七回忌にあたる
正治元年(1199年)5月28日に
その生涯を閉じたという事です。
年齢は50歳前後であったそうです。
その1年後には
曾我祐信も他界したとの事です。
満江御前の墓所は、夫婦が
大御堂を建立したという下屋敷に近い
法連寺裏手にあります。
現在、満江御前の墓は、
満江御前が伊豆から曽我の地に来た時に
従った一族の末裔である
武藤家が管理しています。
【古寺「崇泉寺」】
なお、大御堂は「曽我の大御堂」とも称され、
戦国時代に北条氏康に
攻められた際に廃寺となった
「崇泉寺」とされている説があります。
現在、曽我兄弟と
曽我祐信・満江御前の墓がある
城前寺の墓石は
明治初期にその「崇泉寺」跡から
出土した五輪塔であるとの
伝承があります。
「崇泉寺」は曾我氏館跡や
城前寺により近い場所にあります。
ちなみに「崇泉寺」のがあった辺りからは
古い五輪塔の破片が沢山出土して
「ハカンド」とよばれていたとか。
出土した五輪塔の多くは
城前寺に運ばれたとの事です。
【満江御前の連れ子たち】
満江御前が河津三郎佑泰と再婚した際に
連れ子であった子供ですが、
男の子は源信俊となり別名は原小次郎、
北条本「吾妻鏡」や「曽我物語」では
「京の小次郎」です。
源範頼の家臣となりましたが、
曾我兄弟の仇討ちに連動して失脚した
源範頼の縁座として建久4年(1193年)に
25歳で斬首されてしまったとのことです。
ですが後述する藤原成親との面会が
1177年なので、
そうすると9歳頃に既に元服して
面会したことになってしまうので、
少なくとも享年は
30歳前後であったかもしれません。
女の子は花月尼で
二宮朝忠(中村宗平の4男である二宮友平の嫡子)
と結婚しました。
後に二宮に知足寺を建立して
異父弟の曽我兄弟と
夫である二宮朝忠(二宮友忠)
の菩提を弔ったとのことです。
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【満江御前が曽我祐信に嫁いだ考察】
曽我兄弟の兄である一万(十郎祐成)は
父親である河津三郎佑泰が殺された時には
数えで5歳でした。
ならば、伊東祐親が後見人となり、
河津を継承することも出来たはずですが、
あえて、満江御前に子連れ再婚を命じました。
曾我祐信の所領は決して広くはありません。
すでに嫡子もいました。
しかし、一万(十郎祐成)に曾我を継がせる、
という約束で再婚させています。
結局はその約束は反故にされて
曽我兄弟は悲惨な目に遭いましたが。
そして曾我祐信の「祐」字が気になります。
それは伊東一族の字でもあるからです。
そして曽我祐信の父親の名前は
曾我祐家でやはり「祐」の字があります。
そして伊東一族にも同じ名前である
伊東祐家がいます。
【叔父と甥の関係】
曾我氏の祖は曾我祐家とされています。
その曾我祐家に嫁いだとされているのが
伊東祐親の姉ということです。
そうなると伊東祐親と曽我祐信とは
叔父と甥の関係になります。
【河津荘は危険?】
では何故、伊東祐親はわざわざ
出産したばかりの
満江御前に自分の甥である
曽我祐信の処へ嫁に行けと言い、
しかも嫡子が既におり、
その他にも、もう二人男子が
いたとされるのに、
いずれは河津三郎の子に
曾我領を継がせる約束をしたのでしょうか?
【中村党と連携を画策?】
河津三郎が殺される前に
伊東祐親は工藤佑経に嫁がせた
じぶんの娘である万劫御前を
中村党の土肥遠平に再婚させています。
ちなみに自分の妻も中村党出身でした。
更に曾我祐信の前妻も、
中村党の武士である
中村宗平の娘であったそうです。
中村党・曽我氏と連携して
いずれは工藤氏を包囲しようと
考えていたのでしょうか?
【横山党とも連携?】
満江御前は横山党の武士団である
横山時重の娘である説もあります。
横山党は、和田一族とも親戚であり、
和田合戦で滅んでしまったので、
史料が更に少なく、
分からない事も多いのですが。
【大見氏の存在】
ちなみに伊東祐親の祖父である
工藤祐隆の後妻は
大見氏の娘とされています。
そして河津三郎を襲った
工藤佑経の郎党の一人が
大見小藤太でやはり大見氏です。
大見荘と河津荘は近いので、
このまま幼い河津三郎の遺児に
河津荘を継がせても、
工藤氏や大見氏にすぐに
攻められてしまい、
キケンであると判断したのでしょうか?
故に、
中村党や横山党と
連携しようとしたのでしょうか。
【曾我氏は曾我祐信の嫡子が継いだ】
伊東祐親の約束であった
十郎祐成が曽我氏を継ぐということは
果たされることはありませんでした。
伊東祐親が亡くなり、
その子である伊東佑清も、
社会的にはいなくなってしまったからです。
母である満江御前は兄の十郎祐成にも
出家することを勧めていたともされています。
この仇討により、自分が産んだ男子全てを
失うことになってしまった
満江御前。
子供に継がせる所領がないと
されていた曽我祐信ですが、
先妻との間には
嫡子を含めて3人の男子がおり、
所領を3分割したとあります。
上曾我・下曽我・曽我別所とされています。
【満江御前は二人?】
実は「満江御前」は後年になって
名づけられたもので
曽我兄弟の母親の名前は
記されてはいません。
「満江」のよみは「まんこう・まんごう」。
「万劫」とも記されるそうです。
そしてその意味は仏語であり、
1万劫のこと、
きわめて長い年月、 まごうとのことです。
そういえば工藤佑経の妻が「万劫御前」でしたね。
そして「満江御前」は
二人いるとされています。
「狩野(工藤)親光」の娘と「横山時重」の娘。
共通点は「狩野茂光の孫娘」。
河津三郎の妻は実は
複数いたとも云われており、
そのうち、曽我兄弟を産んで、
曽我祐信に再度嫁いでいったのが
「横山時重」の娘とも云われています。
そして源信俊(原小次郎)と
花月尼を産んだのが
狩野親光の娘であると考えています。
更に狩野親光の娘は、
横山時重の娘よりも
年上ではないでしょうか。
それは源信俊の年齢にあります。
「平家物語」によりますと
源信俊は藤原成親に会いに
京都に行っています。
その年代が
「安元3年(1177年)7月20日出家、
同じき26日信俊下向」とあり、
これで、左衛門尉の源信俊が
来たことがわかります。
この時の源信俊(原小次郎)の年齢が
仮に14歳頃としても
その原小次郎が生まれたのは1163年頃。
そうなると1150年生まれとされる
満江御前は13歳位で産んだことになります。
この時代ではこの年齢で出産した女性は
殆ど見当たらず、可能かもしれませんが、
ちょっと厳しいかもしれません。
源信俊(原小次郎)が
藤原成親に面会した年齢は
もっと上だった可能性も十分にあります。
従って源信俊と花月尼を産んだ女性と
曽我兄弟を産んだ女性は
別人である可能性があります。
曽我兄弟の兄が生まれた年は
1172年とされており、
源信俊と花月尼を産んだ女性は、
曽我兄弟を産んだ女性より
年上であったと推察できます。
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史料によっては、
源信俊(原小次郎)と曽我兄弟とは
「同腹」(同じ母親)と
記されているものがあるので、
現在の処、一般的には、
「満江御前」は一人とされています。
後述する異父姉の花月尼の
伝承を読むと、
曽我兄弟と母親が同じであると
納得してしまうのですが。
【知足寺】
曽我兄弟は父の仇、工藤祐経を討って
永年の本懐を遂げました。
兄弟には中村党の武士である
二宮朝忠に嫁いだ異父姉がおります。
姉は出家して花月尼と称し、
異父弟である曽我兄弟と
夫である二宮朝忠の菩提を弔いました。
知足寺は正式名称を
「花月院知足寺」と称します。
浄土宗の寺であり、ご本尊は阿弥陀如来です。
寺の名前の「知足」とは、
「現在を満ち足りたものとして
受け入れること」という意味であるそうです。
山の斜面の一番奥に仇討ちで
有名な「曽我兄弟の墓」と
花月尼、二宮朝忠の墓があります。
この墓は、没後を供養した「供養墓」です。
弟の五郎時致が出家をやめたために
母から勘当された時、
居候していたのが
この花月の家であると伝わっています。
花月尼は兄弟の一日も早い仇討ちを願って、
吾妻山に浅間神社を建立して
毎朝祈願したと伝えられています。
また建久4年(1193年)の仇討ちの後、
曾我兄弟の母と花月、
十郎の愛人と言われている
遊女の虎御前の3人は五輪塔を建て、
花月尼は自宅の隣に庵室をたてて
兄弟の菩提を弔いました。
この庵室を再建したのが
知足寺であるといわれています。
その他この二宮には
曾我兄弟に関する伝説が残っています。
五郎が十郎のもとに駆けつける際に、
吾妻山近くの家で馬を借りた上、
生えていた大根を鞭にあてたという話や、
花月尼の信心深さのため
吾妻山にマムシが出なくなったという話が
残されています。
更に川勾神社前には
曾我兄弟が力比べをしたという
力石があります。
【供養墓】
曽我兄弟の供養墓の建立は
元禄7年(1694年)となっているとのことです。
供養墓は4つあり、
左から二宮朝忠、花月尼、
曽我十郎祐成、曽我五郎時致となっています。
※卒塔婆を見るとこの写真では逆、かもしれません。
【所在地】
〒259-0123 神奈川県中郡二宮町二宮1091
【駐車場】
参拝者用の駐車場がありますが、
お寺迄の道が急こう配となっており、
寺の手前には保育園もあるので、
ふもとの図書館の駐車場に停めて、
徒歩で参拝されるのがよろしいかと思います。
【交通アクセス】
JR「二宮」駅より徒歩10分程度
「図書館」駐車場より徒歩5分程度
(生涯学習センター内)
城前寺~曽我兄弟の菩提寺、曽我兄弟のお墓と養父・曽我祐信と母・満江御前の墓があります。
曾我城跡~曾我兄弟が育った曽我氏の館。北条氏康に滅ぼされたが嫡流は足利将軍や徳川家に仕え出世した。
河津三郎祐泰と血塚・伊東祐親の嫡男で曽我兄弟の父親であり曽我兄弟の仇討はここから始まりました。
曽我兄弟の縁の地・富士宮市~井出の代官屋敷・曽我八幡宮・曽我兄弟の供養塔・曽我の隠れ岩・音止の滝
曽我兄弟の縁の場所(富士市)~化粧坂少将(姫宮神社)・曽我寺・曽我八幡宮・五郎の首洗い井戸
伊東佑親~源頼朝の配流地の監視役で八重姫の父であり、北条義時・曽我兄弟・三浦義村の祖父。
伊東佑清~八重姫の兄で曽我兄弟の叔父、親交のあった源頼朝を父から助けるが平家方につく。
工藤(狩野)茂光~伊豆半島最大の勢力を築いた狩野氏~末裔に絵師集団「狩野派」がいます。
工藤佑経~復讐の連鎖の果てに~曽我兄弟の仇討の相手で後見人の伊東祐親に所領と妻を奪われてしまった人
虎御前~曽我兄弟の兄・曽我十郎祐成の愛妾、山下長者屋敷(住吉要害)で生まれ育ったとされています。
相模国大友郷~和田義盛の和田屋敷跡があり、戦国大名の大友氏の発祥の地です。
大見城跡(伊豆)~鎌倉御家人の大見氏はやがて越後に行き、水原氏から杉原氏となる。
中村宗平~中村党の祖で源頼朝を支えてきた武士団で、鎌倉党とは大庭御厨を巡る対立がありました。
大乗院~土屋氏屋敷跡、土屋宗遠を祖とする土屋氏は北条氏・足利氏・武田氏・北条氏政・徳川家に仕えました。
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