城跡

小田原城跡~小田原北条五代~近世城郭と中世城郭の両方の遺構が残る城。

大田原城 天守閣



スポンサーリンク



小田原城

小田原城(おだわらじょう)は、
神奈川県小田原市にある
戦国時代から江戸時代にかけての日本の城(平山城)。
小田原北条氏の本拠地としても有名です。
江戸時代には小田原藩の藩庁がありました。
八幡山古郭及び総構を含めた城跡は
国の史跡に指定されています。

【小田原北条氏による小田原城の始まり】
伊勢盛時(北条早雲)は、
居館を現在の小田原城址公園にある
天守の周辺に置き、
後背にあたる八幡山(現在の小田原高校がある場所)を
詰の城としていたそうです。
けれども、全体の建築者は不明です。
居館部については小田原北条氏以前に
この地を所領していた
大森氏のものとするのが通説です。

【二つの小田原城】
3代当主北条氏康の時代には
難攻不落、無敵の城といわれ、
上杉謙信武田信玄の攻撃に耐え抜きました。
江戸時代に居館部が近世城郭へと改修。
現在の小田原城址の主郭部分となりましたが、
八幡山は放置されたままでした。
そのため、近世城郭と中世城郭が
江戸期を通して並存し、
現在も両方の遺構が残る
全国的に見ても珍しい城郭となっています。

【お城の構造】
最大の特徴として、
豊臣軍に対抗するために
作られた広大な外郭が挙げられます。
八幡山から海側に至るまで
小田原の城下町全体を
総延長9キロメートルの土塁と空堀で
取り囲んだものであり、
後の豊臣大坂城の惣構を凌いでいたそうです。
慶長19年(1614年)、
徳川家康は自ら数万の軍勢を率いて
この総構えを撤去させています。
地元地方の城郭に
このような大規模な総構えがあることを
警戒していたという説があります。
ただし、完全には撤去されてはなく、
現在も北西部を中心に遺構が残っています。
古地図にも存在が示されており、
小田原城下と城外の境界であり続けたとのことです。
明治初期における小田原町の境界も総構えです。

小田原城総構え

【江戸時代の城主】
小田原北条氏没落後に城主となったのは
大久保氏でした。
しかしながら、2代藩主である
大久保忠隣の時代に政争に敗れ、
一度改易の憂き目にあっています。

大久保忠隣公幽居の跡

一時は2代将軍である徳川秀忠が大御所として
隠居する城とする考えもあったということですが
結局は実現するには至りませんでした。

【再び大久保氏へ】
その後、城代が置かれた時期もありました。
阿部氏、春日局の血を引く稲葉氏、
そして再興された大久保氏が再び入封されました。
小田原藩は入り鉄砲出女といわれた
箱根の関所を幕府から預かる立場でもありました。

なお、小田原藩大久保氏の大名となった
支藩(分家)には
荻野山中藩(現在の神奈川県厚木市)があります。




スポンサーリンク



【江戸時代の震災被害】
小田原城は、江戸時代を通して、
寛永10年(1633年)と
元禄16年(1703年)と大地震に遭っています。
なかでも、元禄の地震では、
天守や櫓などが倒壊するなどの
甚大な被害を受けています。
天守が再建されたのは、
宝永3年(1706年)で、
この再建天守は明治に解体されるまで存続しました。
更に天明2年(1782年)に起きた武相大地震では、
天守が傾き石垣が崩れる被害が出ていました。
其の後も度々地震が起きています。
天保14年(1843年)の天保地震、
嘉永6年(1853年)の嘉永大地震です。

【宝永の富士山噴火】
富士山に近い小田原はやはり
富士山の噴火の被害にも遭っています。
元禄16年の(1703年)に起きた
南関東駿豆地震で
甚大な被害を受けた小田原城はその修復を
宝永3年(1706年)にやっと完成させました。
ところが翌年の
宝永4年(1707年)に富士山が噴火して
火山灰が降下し、
主に富士山から東側の地域で
甚大な被害が発生したのでした。
噴火は約2週間続いたとのことです。

富士山

【小田原城の構造】

【平地部】(近世城郭)
近世に大久保忠世・稲葉正勝
によって改修された部分です。
現在の小田原城址公園及び、
その近辺となります。
主要部のすべてに石垣を用いた
総石垣造りの城です。
佐倉城や川越城などのように、
土塁のみの城の多い関東地方においては
特殊と言え、関東の入口としての
小田原城の重要性が伺えます。
なお、現在のような総石垣の城になったのは
寛永9年(1632年)に始められた
大改修後のことです。
本丸を中心に、東に二の丸および三の丸を重ね、
本丸西側に屏風岩曲輪、
南に小峯曲輪、北に御蔵米曲輪を設け、
4方向の守りを固めていました。
この他、小峯曲輪と二の丸の間に鷹部曲輪、
二の丸南側にお茶壺曲輪および馬屋曲輪、
二の丸北側に弁才天曲輪と、
計4つの小曲輪が設けられ、
馬出(うまだし)として機能していました。
建造物としては、
本丸に天守および桝形の常磐木門、
二の丸には居館、銅門、
平櫓がそれぞれ設けられ、
小田原城全体では、城門が13棟程、
櫓が8基程建てられていたものと
考えられています。
さらに江戸末期には、
海岸に3基の砲台が建設されています。

明治初期に殆どの建物が取り壊されました。
が、本丸・二の丸・茶壺曲輪・
馬屋曲輪は復元が進んでいます。
鷹部曲輪には図書館・郷土文化館が置かれ、
小峯曲輪は報徳二宮神社、
屏風岩曲輪は遊園地となっています。
御蔵米曲輪は球場となった後、
一時的に駐車場となっていましたが、
現在は復元整備中です。
弁財天曲輪は城址公園外の
住宅地となっており、
商工会館や旭丘高校が建っています。

<小峰曲輪>
小峰曲輪

【八幡山古郭】(中世城郭)
平地部に対する詰城に当たります。
小田原合戦において、
北条氏政がここに陣を置いたとされています。
大森氏時代からの
本来の小田原城とも見られています。
もちろん異説もあります。
大森氏の時代は「花岳城」と呼ばれ、
現在の城源寺の位置にあったともいわれています。

八幡古郭は東から順に、
東曲輪、本曲輪、西曲輪、
藤原平、毒榎平と連なる連郭式の構造です。
本曲輪の南側に南曲輪、
西曲輪の北側に鍛冶曲輪を置き、
守りを固めています。
現在、大半が宅地化しています。
東曲輪は一部史跡公園となりましたが、
本曲輪とその北側、及び南曲輪は住宅地です。
西曲輪、藤原平は現在の小田原高校で、
鍛冶曲輪は庭球場、
毒榎平は貯水池及び城山公園となっています。

<毒榎平>
毒榎平

【総構】(中世城郭~近世城郭)
小田原城は中核部が
二の丸総堀、三の丸総堀、
総構堀によって
三重に囲われた構造となっています。
二の丸総堀は平地部及び
八幡山古郭外周の堀が繋がったものです。
三の丸総堀は近世城郭部の三の丸堀に加え、
南側の天神山丘陵の尾根を走る空堀、
そして最西端の小峰大堀切によって構成されています。
小峰大堀切は中世城郭部最大の遺構です。
東側へと伸びる八幡山丘陵、天神山丘陵、
谷津丘陵が集まる点にあり、
各丘陵と西側の山地部を切断しています。
総構堀は以上の様に小田原の町全体を
取り囲んだ連続した空堀と水堀です。
山地部の空堀は小峰大堀切より
さらに西の小田原城最高所となる
お鐘の台をとりこんでおり、
ここから北西部の桜馬場、
稲荷森の総構堀は比較的よく残っています。
平地部の水堀は消滅、
あるいは地下に埋没しましたが、
南西部の早川口や東部の蓮上院近辺に
辛うじて土塁が残っています。

【小田原城の歴史】

【平安~鎌倉時代】
元は、平安時代末期、
相模国の豪族土肥氏一族である
小早川遠平(土肥小早川氏の祖とされる)
の居館であったとされています。

「いざ鎌倉」の元となった話「鉢木物語」にて、
鎌倉幕府第5代執権だった
北条時頼から佐野源左衛門に
与えられたという物語があります。

【室町時代】
【大森氏】
応永23年(1416年)、
上杉禅秀の乱で禅秀方であった
土肥氏が失脚し、
それまで駿河国に根拠を置いていた
大森氏がこれを奪って、
相模国・伊豆国方面に勢力を広げました。
大森頼春は応永24年(1417年)に現在の
「城源寺」に居城したとのことです。
そして城郭内に三寺を建立し、
「城源寺」と号したとの事です。
(所在地: 〒250-0045 神奈川県小田原市城山2丁目14−32)

その城郭は花岳(はなのおか)城とも
伝えられているそうです。

享徳3年(1454年)、享徳の乱が勃発します。
この頃、大森実頼及び大森氏頼が
八幡山に小田原城築城したとも
伝えられています。




スポンサーリンク



【伊勢盛時の登場】
明応4年(1495年)、
伊豆国を支配していた
伊勢平氏流伊勢盛時(北条早雲)が
大森藤頼から奪い、
旧構を大幅に拡張したとのことです。
ただし、年代については
明応4年(1495年)以後に、
大森氏が依然として城主であったことを
示すとされる古文書も存在しており、
実際に伊勢盛時が小田原城に奪ったのは
もう少し後で、遅くても
文亀元年(1501年)と考えられています。

【北条五代】
ただし、伊勢盛時は亡くなるまで
伊豆の韮山城を根拠としており、
小田原城を拠点としたのは
息子の伊勢氏綱(後の北条氏綱)が
最初であったとされています。
その時期は北条氏綱が家督を継いだ
永正15年(1518年)もしくは
伊勢盛時が死去した
翌年の永正16年(1519年)の後と
みられています。
以来北条氏政、北条氏直父子の時代まで
戦国大名北条氏の五代にわたる居城として、
南関東における政治的中心地となったのでした。

上杉謙信との戦い】
永禄4年(1561年)、
北関東において小田原北条氏と
敵対する上杉謙信が越後から侵攻し、
小田原城の戦いとなりました。
軍記などでは、11万3千(関八州古戦録より)
ともいわれる大軍勢で小田原城を包囲。
1か月にわたる篭城戦の後、
上杉軍の攻撃を防ぎ切ったと
伝えていますが、
実際は10日間ほどの包囲であったそうです。

武田信玄による駿河侵攻】
永禄11年(1568年)、
甲斐国の武田信玄は
駿河今川領国への侵攻を開始。
小田原北条氏は甲相同盟を破棄し、
越後上杉氏との越相同盟を結び
武田方に対抗します。

三増峠の戦い
武田信玄はこれに対して
北関東の国衆と同盟し、
小田原北条領国へ圧力を加え、
翌年の永禄12年10月1日から
4日にかけて小田原北条領国へ侵攻し、
小田原城を包囲する
軍事的示威活動を行いました。
撤退に際して追尾した小田原北条勢を
三増峠の戦いにおいて撃退したのでした。
後に小田原北条氏は武田の駿河領有を承認し、
甲相同盟を回復している経緯からも、
この時の小田原攻め
本格的侵攻ではなく
軍事的示威行為に
過ぎないものであったと考えられています。

【小田原北条氏による城の改築】
小田原北条氏による小田原城の改築は、
大きいものでは少なくても
2度あったと考えられています。
<1>
最初は伊勢盛時(北条早雲)が
小田原城を得た直後で、
明応地震と言われる鎌倉に
大被害をもたらした
大地震があったと言われています。
文献上の記録は今のところはありませんが、
距離的に近い小田原も
被害を受けた可能性があり、
戦闘と地震による打撃を
回復させるための改築が行われたと
見られています。

最も、地震発生時の当主が
大森氏であった可能性があります。
その際には大森氏が
改築を行った可能性もあります。
また近年の研究では、
地震に乗じて、又は、
地震後の混乱に乗じて
伊勢盛時が城を奪ったとする説もあります。

<2>
もう1度は永禄9年(1566年)から
同12年の時期に、
小田原城の改築に関する文書が
多数発給されており、
この時期に相次いだ上杉氏及び武田氏の
侵攻に備えたものと考えられています。

【駿河国駿東郡の緊迫状態】
また、甲相駿三国同盟の時期を除けば、
小田原城の西隣に位置する
駿河国駿東郡は小田原北条氏を含めた
諸勢力による争奪が長く続いていました。




スポンサーリンク



【北条五代の本拠地が小田原の理由】
小田原北条氏の時代全体を通じて
一番緊迫した国境であった
駿東方面への押さえとして
小田原城は重要視されていました。
関東地方の大半を制圧した後も
その中央部に本拠地に移動させずに
小田原城を本拠とした理由と
考えられています。
なお、北条氏康の居館には
会所・寝殿が備わっており、
永禄元年(1558年)に
小田原に入った古河公方
足利義氏が氏康邸を宿舎としていたことが
知られています。

【安土桃山時代】
小田原征伐
天正18年(1590年)、
豊臣秀吉が天下統一の仕上げとして
隠居していた北条氏政と
当主である北条氏直が指揮する北条氏と開戦し、
当時北条の台頭に対抗していた
関東の大名であった
佐竹義重・宇都宮国綱らとともに
数十万の大軍で小田原城を総攻撃しました。
この戦いにおいて豊臣秀吉は
圧倒的な物資をもって取り囲むとともに、
別働隊をもって関東各地の
北条氏の支城を各個撃破。
篭城戦によって敵の兵糧不足を待ち、
逆襲しようとした北条氏の意図を挫き、
3か月の篭城戦の末、
ほとんど無血で開城させたのでした。

【小田原評定】
この篭城戦において、
北条側が和議と抗戦継続をめぐって
議論したものの、
一向に結論が出なかった故事が
小田原評定という言葉になっています。

【宇都宮仕置】
その後、豊臣秀吉は宇都宮国綱とともに
下野国宇都宮に陣を移し、
参陣した東北地方の諸大名の処遇を決定。
豊臣秀吉の国内統一事業は
これをもって完成しました。

【江戸時代】
戦後、北条氏の領土は徳川家康に与えられ、
江戸城を居城として選んだ徳川家康は
腹心である大久保忠世を小田原城に置きました。
小田原旧城は、現在の小田原の市街地を
包摂するような巨大な城郭でしたが、
大久保氏入部時代に規模を縮小させ、
以後、17世紀の中断を除いて
明治時代まで大久保氏(藤原北家宇都宮氏流)
が居城したのでした。
一方北条氏は、一族の北条氏盛が
河内国狭山(現在の大阪府大阪狭山市)
1万余石を治める外様大名として
明治に至っています。

そしてこの時代は大地震に富士山の大噴火という
災害との闘いの年代でもあったのでした。
特に「宝永大噴火」と称される
宝永4年(1707年)
(宝永大噴火)大規模な富士山の噴火では
甚大な被害をもたらしています。

【宝永大噴火の被害と復興】
火山灰は関東一円に降り注ぎ、
農作物に多大な影響をもたらしたのでした。
小田原藩では自力での復興は
無理であると判断し、
領地の半分を幕府に差しだし救済を求めました。
けれども、噴火から20年以上を経ても
復興できない地域が多くあり、
小田原藩の米の収量が元に戻るまで
実に90年程の歳月を要したのでした。

【酒匂川の治水工事】
酒匂川流域では、
堆積した火山灰により
(富士山周辺で推定40cm)
水位が上がり堤防が決壊し、
水没する村が続出したのでした。
伊奈 忠順(いな ただのぶ)が
幕府から命を受けて
砂除川浚(すなよけかわざらい)奉行と
呼ばれる災害対策の最高責任者に任じられ、
川底に火山灰が堆積していた
酒匂川の砂除け、堤防修復などに従事しました。
伊奈忠順は復興開始から4年後、
事業半ばで死去します。
表向きには「病死」ですが、
実際にはとある罪を問われての
切腹であったとも言われています。
その罪とは、
駿府代官所の米蔵を勝手に開き、
1万3千石の米を飢えに苦しむ
棄民に支給し、その咎で罷免され、
責任を取った、というものでした。
それは、
幕府の支援が一切行われず、
放棄され飢餓に苦しむ者が続出している
悲惨な状況下となっており、
その救済のためでした。
そう記した文書も残ってはいないので
公式にはあくまでも「病死」ですが、
突然の死であることは確かであったようです。
其の後、
大岡越前守忠相に見出された
田中休愚(たなかきゅうぐ)が
徳川吉宗の命を受けて、
享保11年(1726年)から
復興に当たりました。
そして享保12年(1727年)5月に
工事は終了しました。




スポンサーリンク



【明治時代~現代】
小田原城は明治3年に廃城となり、
ほとんどの建物は解体され、
残っていた石垣も大正12年(1923年)の
関東大震災によりことごとく
崩れ落ちてしまいました。
現在の小田原城跡は、
本丸・二の丸の大部分と総構の一部が、
国の史跡に指定されています。
また、本丸を中心に「城址公園」として整備され、
昭和35年(1960年)に天守閣が復興、
次いで昭和46年(1971年)には常盤木門、
平成9年(1997年)には銅門、
平成21年(2009年)には馬出門が復元されました。

【中世城郭の遺構】
中世小田原城の遺構としては、

◆小峰の大堀切、土塁、中堀
小峰の大堀切、土塁、中堀1

小峰の大堀切、土塁、中堀2

小峰の大堀切、土塁、中堀4

◆八幡山古郭 東郭
◆三ノ丸外郭 新堀土塁
三ノ丸外郭 新堀土塁

<説明板>
三ノ丸外郭 新堀土塁 説明板

◆稲荷森の堀
◆高校脇ポケットパークの土塁、障子堀跡
◆大久保神社付近の残存土塁、
◆お鐘の台曲輪付近に空堀および土塁
小峰の大堀切、土塁、中堀3

◆早川口付近に二重土塁
◆幸田口および蓮上院付近に土塁

などが、それぞれ現存しています。
また、遺跡調査では旧三の丸の
幸田口門があった付近(小田原市栄町一丁目)で
障子堀跡が確認されています。
堀跡の1号堀は幅約20メートルの障子堀で、
2号堀は幅約7メートルです。

【史跡指定】
昭和13年(1938年)8月8日、
「小田原城跡」として国の史跡に指定されました。
昭和34年(1959年)5月29日、
一部地域を追加指定し、
昭和52年(1977年)5月4日、
小田原北条氏時代のものと思われる北東側の空堀と、
江戸時代の絵図などで知られる
「早川口」関連遺構と考えられる
二重の土塁について、
さらに当該部分の追加指定がされました。
その後もたびたび追加指定が行われています。

史跡指定範囲は、
小田原市城内・本町・栄町・浜町・城山・
板橋・十字・谷津・南町におよんでいます。

【日本100名城】
2006年(平成18年)、
日本100名城(23番)に選定され、
2007年(平成19年)6月から
全国規模の日本100名城スタンプラリーが
開始されました。
※スタンプ設置場所⇒天守閣1階

【小田原城址公園】

小田原城天守閣・常盤木門SAMURAI館は
新型コロナウイルス感染拡大防止のため
休館していましたが、
緊急事態宣言の解除に伴い
2020年6月1日(月)から開館いたしました。

小田原城址公園 案内図

ただし、感染拡大防止の観点から、
小田原城NINJA館(歴史見聞館)は、
引き続き 休館です。
開館している施設についても
一部利用の制限を行っております。




スポンサーリンク



【天守閣】
天守閣は、昭和35年に
市制20周年記念事業として
総工費8千万円をかけて復興されました。
江戸時代に造られた雛型や引き図を基に
(宝永年間の再建の際に作られた模型や設計図)
昭和35年に江戸時代の姿として
外観復元され、内部は歴史資料の
展示施設となっています。
復興に当たっては、
「瓦一枚運動」が展開され、
多くの市民からの寄付が寄せられました。
小田原城 天守閣、広場

<天守閣の構造>
3重4階の天守櫓に付櫓、渡櫓を付した
複合式天守閣で、地上38.7m、
鉄筋コンクリート造、
延床面積1822㎡となっています。
なお、最上階の高欄付き廻縁は
復興に際して新たに付けられたものです。

<展示物について>
内部には、甲冑・刀剣・絵図・古文書など、
小田原の歴史を伝える資料や、
武家文化にかかわる資料などが展示されています。
標高約60メートルの最上階からは
相模湾が一望でき、
良く晴れた日には房総半島まで見ることができます。

【開館時間】
午前9時~午後5時
(入館は午後4時30分まで)
【休館日】
12月31日〜1月1日
12月第2水曜日 ※館内整理のため
【入館料】
<天守閣単独券>
一般:510円(410)
小中学生:200円(160円)
※()は30人以上の団体料金。

<常盤木門SAMURAI館との2館共通券>
一般:610円(500円)
小中学生:220円(180円)
※()は30人以上の団体料金。

【常盤木門(ときわぎもん)】
小田原城本丸には
常盤木門、鉄門の2つの城門がありました。
このうち常盤木門は本丸の正門にあたり、
重要な防御拠点であったので、
他の門と比べても大きく、
堅固に造られていました。
多聞櫓と渡櫓門を配し、
多聞櫓は武器等の貯蔵庫として
用いられていました。
本丸の正面に位置し、
古絵図などの記録から、
江戸時代初期から設けられていました。
元禄16年(1703年)
の大地震で崩壊した後、
宝永3年(1706年)に、
多聞櫓と渡櫓から構成される
桝形門形式で再建されたものが、
明治3年(1870年)の
小田原城廃城まで姿をとどめていた
といわれています。
現在の常盤木門は、
市制30周年事業として再建したもので、
昭和46年(1971年)3月に完成しました。

常盤木門

【常盤木門SAMURAI館】
小田原城常盤木門の展示をリニューアルし、
新たな歴史観光施設
「常盤木門SAMURAI館」が
2016年に開館しました。
甲冑や刀剣などの武具に
特化した展示を行い、
武士の精神性や
武具の美術性を紹介しています。

【開館時間】
午前9時~午後5時
(入館は午後4時30分まで)
【休館日】
12月31日〜1月1日
12月第2水曜日 ※館内整理のため
【入館料】
<SAMURAI館単独券>
一般: 200円(160円)
小中学生: 60円(40円)
※()は30人以上の団体料金。

<天守閣との2館共通券>
一般:610円(500円)
小中学生:220円(180円)
※()は30人以上の団体料金。

<場所>
小田原城址公園内本丸広場 
常盤木門2階展示室

※障がい者手帳(原本)持参・提示で
無料(付添1名含む)になります。
※小田原市が発行する
「福寿カード」持参・提示で
無料(付添1名含む)になります。

【銅門(あかがねもん)】
馬屋曲輪(うまやくるわ)から
二の丸に通じる位置にあり、
二の丸の正門にあたります。
渡櫓門(わたりやぐらもん)、
内仕切門(うちじきりもん)と
土塀で周囲を囲む枡形門(ますがたもん)
の構造を持ちます。
渡櫓門にはその名の由来となった
銅板の装飾が映えます。
平成9年の復元です。

銅門

【馬出門(うまだしもん)】
馬出門は二の丸正面に位置する門で、
馬出門、内冠木門と土塀で
周囲を囲む枡形門の構造を持ちます。
馬屋曲輪へ通ずることから
この名が付いたとみられます。
平成21年の復元です。

【こども遊園地】
【営業時間】
午前9時~午後4時30分改札まで
【料金】
豆汽車、バッテリーカー 各80円
自動遊器具⇒30円

<豆汽車>
こども遊園地 豆汽車

休園日:あり
こども遊園地 休園日

【所在地】
神奈川県小田原市城内6-1

【交通アクセス】
【電車】
東海道新幹線
JR東海道線・
小田急小田原線
伊豆箱根鉄道
「小田原」駅から徒歩約10分から15分

【車】
◆小田原厚木道路「荻窪IC」から約10分
◆西湘バイパス「小田原IC」から約5分
◆東名高速道路「大井松田IC」から約40分

【駐車場】
小田原城址公園には、一般駐車場はありません。
近隣の有料駐車場のご利用となります。

但し、小田原城址公園に隣接している
「報徳二宮神社」の駐車場(有料)はあります。
※土日はほぼ常に満車状態です。

花岳城跡~平安末期に土肥一族の小早川氏が居館、室町期に大森頼春が築城したが伊勢盛時に奪われた。

伊勢盛時(北条早雲・伊勢宗瑞)の登場~小田原北条初代~名門一族の出自で関東に覇を唱えに行く!

北条氏綱~小田原北条2代目~北条氏を名乗り、小田原北条氏の礎を築き、先進的な領国経営をした当主。

北条氏康~小田原北条3代目~相模の獅子 ・関東八州にその名を轟かした猛将は戦国随一の民政家。

北条幻庵(北条長綱)~小田原北条五代の全ての当主に仕えた多芸多才のオールラウンダー。

北条氏政~小田原北条4代目~最大の領土を築くも、生きた時代と合わなかった慎重派で愛妻家で家族思い。

北条氏直~小田原北条家最後の当主~30年の短き人生は戦国後期、激動の関東と共に。

北条氏照~北条氏政の同母弟、文武両道で外交手腕に長けており、兄を補佐し盛衰を共にしました。

八王子城~日本100名城で日本遺産となった関東屈指の山城、城主は北条氏照でした。

滝山城~続日本100名城、国の史跡で中世城郭の最高傑作の一つであり遺構がよく残されています。

二宮城~木曽義仲の末裔である大石信重によって築城との記録あり、現在の二宮神社、武蔵守護代の大石氏とは?

小机城跡~長尾景春の乱と豊島氏の滅亡、小田原北条氏の時代へ~戦国時代の神奈川県を見つめてきた城

河村城跡~平安時代から鎌倉時代、南北朝、戦国の世に在り続けた山城と河村氏。

上杉謙信について~越後の龍・49年の生涯~駆け足で超手短に!

羽柴秀吉(豊臣秀吉・木下藤吉郎)~下層民から天下人~の生涯を手短に!

古河公方館跡~古河公方とは?関東における戦国時代の幕開けの存在

大森氏頼~兄弟親子の分裂を経て当主になり西相模で勢力をのばしました。居館跡(矢崎城)は紫雲寺です。

生土城跡~大森氏が築城した支城~鎌倉公方・足利持氏が滞在したと伝わる中世の城。

深沢城跡~今川氏が築城し、北条氏と武田信玄の攻防最前線となった要害

相模沼田城~波多野氏の一族の沼田氏が築城し、後に大森氏の所領となる。

湯船城跡~平安時代の築城と伝わるも、宝永の富士山大噴火の遺跡として有名となった城。

宇都宮城~800年の歴史を誇る関東七名城~宇都宮氏が築城し本多正純が築いた城下町

今川義元~祝・生誕500年~足利一門の名門・海道一の弓取りと称された東海の覇者!

めだかの学校~日本全国で世代を超えて親しまれている童謡はここで生まれました。

漁港の駅 TOTOCO小田原~小田原漁場の恵みがたくさん詰まった美味し処です。

関連記事

  1. 真岡城跡 城山公園 真岡城~宇都宮氏の家臣であった芳賀氏の居城、江戸時代には陣屋があ…
  2. 阿波崎城址 入口 阿波崎城~南北朝時代に南朝方の北畠親房が転戦した古城跡です。
  3. 鉢形城跡 三の曲輪 鉢形城~数万の敵に1か月も籠城した頑強な要害で日本100名城で国…
  4. 十神山城跡 十神山城 、中海の水軍を抑える要害~尼子十砦~
  5. 金剛寺(今井城) 横浜 今井城(今井砦)~木曾義仲家臣で巴御前とは兄弟である今井四郎兼平…
  6. 末森城跡(遠景) 末森城跡~末森城攻防戦の地~前田利家VS佐々成政、前田利家の加賀…
  7. 本納城址 本納城~里見氏の支城から士気酒井氏が統治した中世山城の遺構が多く…
  8. 鳴海城跡(天神社) 鳴海城~築城は足利義満の時代、戦国期は織田信秀から今川義元直轄と…



スポンサーリンク




コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。

おすすめ記事

  1. 長久手城~長久手の戦いの前哨戦の岩崎城の戦いで奮戦した加藤忠景(加藤景常)の居城です。 長久手城址(長久手市)

ピックアップ記事

  1. 臼井城
  2. 仁右衛門島
  3. 源範頼(墓所)
  4. 長久手城址(長久手市)
  5. 本佐倉城
スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
PAGE TOP