【坂田城】
坂田城(さかたじょう)は、
現在の千葉県山武郡横芝光町坂田付近にあった
日本の城です。
【別名】
市場城
【城郭構造】
連郭式平山城
【築城主】
千葉氏
【築城年】
14世紀中頃
【主な改修者】
井田胤徳
【主な城主】
千葉氏(三谷胤興)、
三谷氏、井田氏
【廃城年】
天正18年(1590年)
【遺構】
曲輪、櫓台、虎口、土塁、空堀
【坂田城について】
14世紀中頃千葉氏によって
築城されたと伝えられています。
なお、平良兼と関連があるとする
むきもありますが、
平良兼の時代の居館は屋形であり、
関連性は薄いとの見解があります。
【地理地形】
南東側に九十九里平野から太平洋を望み、
北東側は栗山川を挟んで下総国と境を接し、
九十九里浜中央から酒々井を経て
下総国府へ至る道と、
牛久を経て常陸国府へ至る
道の分岐点にあり、
築城当時付近は
要衝の地であったと推定されています。
【坂田城の歴史】
「総州山室譜伝記」によりますと、
坂田城はこの地方の領主だった
三谷胤興の居城でしたが、
一族で争っていたため
山室氏の客将であった井田氏に
付け入られることとなり、
弘治元年(1555年)閏10月18日、
井田友胤に急襲されて三谷氏は滅亡、
井田氏に乗っ取られたといわれています。
弘治2年(1556年)に
井田友胤の子である井田胤徳が修復し
里見氏に属した安房正木氏の
永禄年間における東下総侵攻を防戦しました。
けれども、天正18年(1590年)の
小田原征伐の際は、
城主井田胤徳は小田原城にあって、
坂田城にはわずかの留守部隊しかおらず
無血開城、廃城となりました。
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【支城】
支城として長倉城、小堤城、
浜手城を持っていました。
小堤城は康正元年(1455年)9月7日に
原胤房に追われた千葉胤賢が当城で自刃し、
千葉氏宗家が滅亡した場所とされています。
【現在】
隣接する坂田池の
「ふれあい坂田池公園」とともに、
城跡の一部が「坂田城梅林」
として整備されています。
【周辺の城】
栗山川を挟んだ北東方向の下総側に、
連郭式城郭の初めとされる篠本城があり、
南西方向の市町境を越えた山武市には、
版籍奉還後の稜堡式城郭である
松尾城があるとのことです。
築城者や築城年代は不明ですが、
1000を超える千葉県の
中世城郭なかでも
最大級の規模のものであるとされ、
遺構も良く残ることから
城郭ファンに根強い人気があるとのことです。
【所在地】
千葉県横芝光町坂田字登城地先
【交通アクセス】
JR総武線「横芝」駅から徒歩20分程度。
※近くにあるローソンから撮影しました。
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