城跡

二俣城~水運に恵まれた街道上の要衝で武田VS徳川の激しい攻防の舞台となり、徳川信康が切腹を遂げた城です。

二俣城址



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二俣城

 
二俣城(ふたまたじょう)は、
遠江国豊田郡二俣
(現在の静岡県浜松市天竜区二俣町二俣)
にあった日本の城で山城です。
天竜川と二俣川に挟まれた
天嶮に恵まれた中世城郭として名高く、
武田信玄・勝頼親子と徳川家康
この城を巡って激しい攻防を繰り広げました。
また、徳川家康の嫡男である
徳川信康(松平信康)が
悲劇の切腹をとげた城としても知られています。
城跡は国の史跡に指定されています。
指定名称は「二俣城跡及び鳥羽山城跡」です。

城山公園案内図(二俣城)

【別名】
蜷原城

【城郭構造】
連郭式山城

【天守構造】
なし

【築城主】
二俣昌長

【築城年】
不明(16世紀前半から半ば)

【主な改修者】
大久保忠世

【主な城主】
二俣氏、松井氏、中根氏、依田氏
大久保氏、堀尾氏

【廃城年】
慶長5年(1600年)

【遺構】
石垣、土塁、堀

【指定文化財】
国の史跡

【二俣城の立地】
二俣の地は、天竜川と二俣川との合流点にあり、
水運に恵まれた地でありました。
加えて、北にある信濃側から見ると
山間部から遠州平野への入り口といえる
場所に位置し、南の道を気賀まで抜ければ、
東海道の脇街道である
本坂通(姫街道)が東西に走り、
そこからさらに下れば
浜名湖の東側(現在の浜松市中心部)
に出るなど、街道上の要衝といえる
位置にあったのでした。

天竜川・二俣城址付近の地図

【今川氏の拠点として】
この二俣への築城は、
戦国時代初頭、遠江を巡って
今川氏と斯波氏が争った際に、
今川氏が拠点とするために
城館を築いたのが
その初めとされております。
けれども、それは後のように山城ではなく、
北東の平坦地にあったと考えられています。
ちなみに現在の浜松市天竜支所周辺とのことで、
笹岡古城の名が残っています。
その後今川氏は当主である
今川義元の勢力下で大きく勢力を伸張します。
その被官松井氏(当主は松井宗信か)が
城の位置を変更し、
天竜川を見下ろす小山に築城したと
いわれておりますが確実な史料は残ってはいません。
松井宗信は永禄3年(1560年)5月、
桶狭間の戦いで当主である
今川義元とともに討死しますが、
その子である松井宗恒も跡を継いだ
今川氏真に重用され、3千貫を与えられています。




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【今川氏の滅亡】
ところが永禄12年(1569年)、
今川氏は甲斐の武田信玄
三河の徳川家康の挟撃にあって滅亡しました。
松井氏は武田信玄への従属の道を選びますが、
武田信玄と敵対した徳川家康に攻撃され、
降伏しました。
徳川家康は二俣城に鵜殿氏長を城代として置き、
武田勢の攻撃の危険が高まると
譜代の家臣である中根正照に
城代を交代させたのでした。

【武田VS徳川の攻防戦】
元亀3年(1572年)10月、
武田信玄が大軍を率いて
信濃から遠江に侵攻し、
武田勝頼を大将とする軍が
二俣城を攻撃しました。

北遠の城

【落城】
徳川方からすれば落城すると
本拠地である浜松を守る拠点がなくなるため、
城代中根正照以下必死に抵抗し、
城の堅固さも手伝ってよく守っていました。
そこで攻めあぐねた武田勝頼は、
籠城軍が天竜川河畔に
水の手櫓を築いて
水を確保しているのを発見します。
そこで天竜川に大量のいかだを流して
水の手櫓にぶつけて破壊させることに成功。
水の手を失った籠城側は戦意を失って
落城したということです。
(「三河物語」)

天竜川

三方ヶ原の戦い
二俣城の落城により武田軍は
遠州平野内に入り、
浜松を無視するが如くそのまま西進します。
これに業を煮やした徳川家康が
浜松城から出撃し、12月23日に
三方ヶ原の戦いで両軍は激突しました。
結果は武田軍の大勝で、
12月28日には武田信玄は
越前の戦国大名である朝倉義景
戦勝を報告するとともに
織田信長を討つよう
出陣の催促の手紙を送っています。
(「伊能文書」)。
この中に二俣城が修築中であることも
記載されているとのことです。

【武田信玄の死去】
けれども、武田信玄が発病したために
上洛が中止となり、武田信玄は帰国中に死去しました。

【二俣城を奪還せよ!】
その後二俣城には、信濃先方衆の
依田信蕃が城主として入りました。
徳川家康は武田信玄死後から直ちに
遠江・三河にある武田の諸城を攻撃しました。
二俣城にも元亀4年(1573年)6月に
攻勢をかけましたがこのときは撤退となりました。

高天神城の落城】
遠江東部の高天神城が
武田の新当主である
武田勝頼によって落城となり、
徳川氏にとっては厳しい状況が続きました。

高天神城跡

長篠の戦いで武田が大敗、反撃】
天正3年(1575年)5月21日、
長篠の戦いで武田軍は織田・徳川連合軍に大敗。
徳川家康は直ちに反攻を開始します。
6月には二俣城にも軍を出し、
付城(前線基地)を二俣城の隣の小峰である
鳥羽山ほか5箇所に作って包囲しました。
同年8月14日、
徳川家康は遠江の東端にある
諏訪原城を落城させましたが、
二俣城の城兵はよく戦い、
なかなか落城しませんでした。

長篠・設楽原合戦屏風絵図

【二俣城の奪還】
しかし同年12月24日、
城兵の安全な退去を条件についに開城し、
城代依田信蕃も駿河田中城に撤退しました。
徳川家康は城主として
重臣の中でも特に武勇名高い
大久保忠世を置き、
合わせて万全な城の修築工事を行わせました。
武田軍はその後たびたび攻撃をかけましたが、
武田の手には落ちませんでした。




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【嫡男の徳川信康(松平信康)の切腹】
二俣城は、徳川家康の嫡男である徳川信康(松平信康)が
若くして父に切腹させられた
悲劇の地としても知られています。
天正7年(1579年)7月、
徳川家康と同盟を結んでいた
織田信長に徳川家康の正室である築山御前
嫡男である徳川信康(松平信康)が
武田方に内通したとの報がもたらされました。
この信憑性は非常に薄いものでした。
しかし織田信長は徳川家康に
この二人を処断するよう求めたとのことです。
なおこれには異説があります。

二俣城址

徳川家康は悩んだ末に築山殿の殺害を命じます。
そして9月15日に二俣城に幽閉させていた
徳川信康(松平信康)を切腹させたのでした。
このとき服部半蔵が介錯を務めましたが、
涙のあまり刀が振り下ろせなかったとの話が残っています。
なお、この逸話にも別の話があります。

<信康廟への階段>
清瀧寺 信康廟への階段

【清瀧寺】
徳川信康(松平信康)は享年21歳でした。
徳川信康(松平信康)の遺体は
二俣城から峰続きにある
小松原長安院に葬られました。
翌年には徳川家康によって
同院に廟と位牌堂が建立され、
その後徳川家康が詣でた際に
寺に清涼な滝があるのを見て
寺の名を清瀧寺と改めさせました。
現在もお寺と信康廟が現存しています。

清瀧寺

【その後の二俣城】
そのまま大久保忠世が城主を務めましたが、
本能寺の変後の徳川家康の勢力伸張に伴い
大久保忠世自身が信州惣奉行として
小諸城に在番することが多く、
二俣城にはあまり在城していませんでした。
天正18年(1590年)、
徳川家康の関東転出に伴い
堀尾吉晴が浜松城に入り、
二俣城はその支城となりました。
慶長5年(1600年)に
堀尾氏が出雲に転封すると廃城となりました。
その後も城としての役割を
果たすことはありませんでしたが、
明治29年(1896年)、
日清戦争で戦死した
地元有志を弔うことを目的で
北曲輪跡に旭ヶ丘神社が建立され、
日露戦争の戦死者なども合祀されました。
太平洋戦争後には城一帯は
地元の公園として整備され、
現在に至っています。

<旭ヶ丘神社>
二俣城 旭ヶ丘神社

【二俣城の構造】
天竜川と二俣川が合流する手前で
形成している蜷原台地の先端部、
現在城山と呼ばれている
小山に築城されています。
台地自体の標高は40m、
本丸の標高は80m、
比高は40mほどとなっています。
山を階段状に削り取り、
北側から南側に外曲輪・北曲輪・
本丸・二の丸・蔵屋敷・南曲輪を
配置しており、連郭式山城となります。
城の東側は険しく、
西側も天竜川で隔てられており、
しかも切り立った岩盤上に
城は立地しています。
それゆえに水の確保が難しく、
川からの取水が必要でした。
虎口は遺構が明らかにはなってはいませんが、
城の南西部に開いていたと
想定されています。

<二俣城・虎口>
二俣城・虎口

【天守台と石垣】
天守台に石垣が使われており、
他の土塁部分にも上部などに
石垣が使われていた形跡が残っています。
天守台の築造時期については、
大久保忠世が武田勢と
対峙していた天正3年から
天正10年ころまでと想定されており、
徳川家康による浜松城の改修と
時期を同じにすることもあり
共通した部分が多く見られるとのことです。




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石垣は野面積み、天守の隅石には
当時の先端の積み方である
算木積みが用いられています。
石には当地で掘り出される
石灰岩が使用されており、
石の加工が容易なこともあって、
浜松城の石垣より丁寧に加工されています。

二俣城・天守台と石垣

【遺構】
天守台・石垣・土塁などが残っています。
ただし東側を中心に車道や
神社の建設の際に
一部の遺構が破壊されています。
また、井戸櫓が清瀧寺に復元されています。

昭和36年(1961年)に
市(当時は天竜市)の指定史跡に指定され、
合併後の浜松市に引き継がれました。
その後2018年2月13日官報告示により
国の史跡となりました。

【笹岡古城址】
二俣築城以前の
二俣周辺の支配の中心と考えられる
城館跡の現在の呼び名です。
遺構のほとんどは
昭和42年(1967年)の
天竜市役所(当時)建設の際に破壊され、
現在は背後の本城山に土塁が残っています。
市役所建設の事前発掘調査の際に
山茶碗・青磁・白磁・井戸枠・柱根などの
出土品が発掘され、当地が城館として
機能していた可能性が高いことを伺わせました。
築城時期については
「遠江国風土記伝」には
二俣昌長が文亀年間
(1501年-1503年)に築城し、
地元の民衆はこれを「古城」と
呼んでいるとの記述がありますが、
裏付ける史料がなく不明となっています。

【鳥羽山城】
徳川家康が二俣城を攻める際に
付城とした鳥羽山城も庭園など
多くの遺構が残っています。
この城については史料に
天正3年6月に築城したという
記録しか残っておらず、
発掘調査もなされていませんでした。
しかし地元の郷土史研究家が
一定規模の城郭があったものと考え、
昭和26年(1951年)から
20数年にわたって単独で発掘を行った結果、
大規模な遺構の存在が明らかになり、
昭和49年(1974年)から翌年にかけて、
天竜市教育委員会による
大規模な発掘調査が行われました。

鳥羽山城(鳥羽山砦)方面

これにより、二俣城と同規模、
またはそれ以上の城郭があったことが判明し、
各曲輪・枡形門跡・庭園・石垣・
井戸・排水溝などの遺構が発掘されました。
特に庭園については、
立石などから
安土桃山時代の形式で
枯山水の庭園であると考えられています。
また、染付・天目茶碗・鉄釉仏飯器なども
発見されています。
これらのことから、
徳川家康の二俣城攻略の後には、
鳥羽山城は二俣城の一部として
機能したと考えられていますが、
一方で石垣を含んだ大規模な築城は
堀尾氏入封後のものであるとの説もあります。

鳥羽山城・説明

なお、鳥羽山城跡は
現在は公園として整備され、
市民の憩いの場となっています。

天竜川と鳥羽山城

【交通アクセス】
天竜浜名湖鉄道「二俣本町」駅から
北に徒歩10分、
鳥羽山城跡については同15分程度。




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<天竜二俣駅>
「二俣本町」駅の隣駅です。
転車台があり、「ゆるキャン△」ポスターもあります。
SLも展示されています。
天竜二俣駅・ゆるキャン△

<蒸気機関車 C58 389号機>
蒸気機関車 C58 389号機

【二俣城址・所在地】
〒431-3314 静岡県浜松市天竜区二俣町二俣990

【駐車場】
スペースあり。

現地所要時間:20分~
※注意※
鳥羽山城址である
鳥羽山公園まで見て回ると
1時間はかかるとみてよいでしょう。

松平信康(徳川信康)~将来を有望されていた嫡男でしたが、築山殿と共に非業の死を遂げます。

清龍寺(浜松)~徳川信康(松平信康)の墓所となる信康廟があります。

三方ヶ原(三方原)古戦場~徳川家康の生涯において「伊賀越え」と並ぶ人生の危機となった戦です。

平岩親吉~徳川家康に幼年から仕え、嫡男の松平信康の傅役、名古屋城築城の総指揮官となりました。

服部正成(服部半蔵)~家柄は松平清康からの家臣で伊賀衆と甲賀衆を指揮、彼自身は忍者の頭領にあらず。

大久保忠世~家柄は松平清康からの家臣で、武功を上げ武田信玄からも称賛されたほどでした。

武田信玄~風林火山の軍旗のもとに、戦に明け暮れ駆け抜けていった53年の人生でした。

武田勝頼~甲斐源氏・戦国大名としての甲斐武田氏最後の当主、素質と環境が合わず悲劇が訪れます。

五徳(徳姫)~織田信長の長女で徳川(松平)信康に嫁ぎ二人の娘が誕生、が夫と義母の罪状を出す。

山県(飯富)昌景~武田家重臣の筆頭格で部隊の軍装「赤備え」が有名です。

設楽城跡~鎌倉時代初期に設楽氏が築城した愛知県で最も古い城跡であるそうです。

吉岡城~下條氏が7代112年間に渡って居城し、下條村の文化の中心地でありました。

高天神城(続日本100名城)~武田信玄・武田勝頼と徳川家康が激しい争奪戦を繰り広げた要衝

長篠城 (日本100名城)~城をめぐる激しい攻防戦で有名、国の史跡に指定されています。

浜松城(続日本100名城)~前身は今川氏が築城した曳馬城、野面積みの石垣が有名で出世城ともいわれています。

丸子城~駿河西部における重要地であり今川時代は守りとして、武田時代は攻略地点、江戸時代は東海道の丸子宿となりました。

水巻城~天竜川の河岸段丘上にあった奥山氏の一族が築城したと伝わる城です。

見付天神社(矢奈比売神社)~東海道・見附宿の守護で霊犬悉平太郎伝説、ゆるキャン△にも登場しています。

赤沢自然休養林(日本三大美林)の森林鉄道に乗車しました。森林浴発祥の地です。

臨川寺~天下の奇勝「寝覚めの床」があり、浦島太郎が住み着いた地との伝説があります。

三留野 SL公園~かつての三留野宿にD51351が腕木式信号機と共に静態保存されています。

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