徳川家臣

本多忠勝~徳川四天王の中でも屈折の剛勇者で愛槍の「蜻蛉切」で主君を救いました。

本多忠勝像(岡崎城)



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本多忠勝

本多 忠勝(ほんだ ただかつ)は、
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。
徳川氏の家臣で上総大多喜藩初代藩主、
伊勢桑名藩初代藩主です。
忠勝系本多家宗家初代。
本姓は藤原氏。
通称は平八郎(へいはちろう)。

徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、
徳川家康の功臣として現在も顕彰されています。

【生誕】
天文17年2月8日(1548年3月17日)

【死没】
慶長15年10月18日(1610年12月3日)

【改名】
鍋之助(幼名)⇒忠勝

【別名】
平八郎(通称)

【墓所】
浄土寺(三重県桑名市)
圓教寺(兵庫県姫路市)
良玄寺(千葉県夷隅郡大多喜町)

【官位】
従五位下・中務大輔

【主君】
徳川家康

【藩】
上総大多喜藩主⇒伊勢桑名藩主

【氏族】
本多氏

【父】
本多忠高

【母】
小夜(植村氏義娘)

【兄弟】
妹:栄子(長束正家室)

【異父妹】
女(中根忠実室)

【妻】
正室:於久の方(阿知和玄鉄娘・見星院)
側室:乙女の方(松下弥一娘・月量院)

【子】
松姫真田信之正室)、
もり姫(奥平家昌正室)、
忠政、忠朝、女(本多信之室)、
女(松下重綱室)、
女(蒲生瀬兵衛室)

【生涯】
【出生・初陣と初首】
天文17年(1548年)、
安祥松平家(徳川本家)の
最古参の安祥譜代の本多氏で、
本多忠高の長男として、
三河国額田郡蔵前
(愛知県岡崎市西蔵前町)で生まれました。

天文18年(1549年)、
父である本多忠高が戦死し、
叔父である本多忠真のもとで育ちました。

幼い頃から徳川家康に仕え、
永禄3年(1560年)、
13歳の時に桶狭間の戦い
前哨戦である大高城兵糧入れで
初陣となります。
このとき、同時に元服しました。

大高城 二の丸跡

永禄6年(1563年)の
三河一向一揆に徳川方として参戦しています。

本多忠勝が一次史料に現れるのは
永禄11年(1568年)の
祝田新六に宛てて出された、
徳川家康の書状に対する副状です。
本多忠勝は祝田新六の働きを褒め、
懸命に取り成すので褒美のことは
自分に任せてほしいと伝えています。
この時期から徳川家康への他の
国衆の取次役を担っていたことが分かります。




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【徳川四天王としての武勲】
今川義元が敗死し、徳川家康が今川家から独立。
織田信長との清洲同盟締結後、
本多忠勝は上ノ郷城攻めや
牛久保城攻めなどに参戦しました。
永禄6年(1563年)9月の
三河一向一揆では、
多くの本多一族が敵となる中で、
一向宗(浄土真宗)から浄土宗に改宗して
徳川家康側に残り武功を挙げました。
永禄9年(1566年)には19歳にして
旗本先手役に抜擢されて、
与力54騎を付属されます。
以後、本多忠勝は常に
徳川家康の居城の城下に住み、
旗本部隊の将として活躍したのでした。

姉川の戦い
元亀元年(1570年)の
姉川の戦いにも参加し、
徳川家康本陣に迫る朝倉軍1万に対して
無謀とも思える単騎駆けを敢行します。
そしてこの時必死に
本多忠勝を救おうとする
徳川家康軍の行動が反撃となって
朝倉軍を討ち崩したのでした。
この戦いにおいて本多忠勝は
朝倉軍の豪傑・真柄十郎左衛門との
一騎討ちで勇名を馳せたのでした。

姉川の古戦場

一言坂の戦い
元亀3年(1572年)の
二俣城の戦いの前哨戦たる
一言坂の戦いでは偵察隊として先行し、
武田本軍と遭遇します。
報告するために撤退しますが、
武田軍に追撃され、
大久保忠佐と共に殿軍を努め、
坂下という不利な地形に陣取り、
馬場信春の部隊を相手に奮戦し、
徳川家康率いる本隊を逃がし
撤退戦を無事に完了させたのでした。
この時に本多忠勝が着ていたのが
鹿角の兜に黒糸威の鎧であったそうです。

三方ヶ原の戦い
同年12月の三方ヶ原の戦いでは
左翼を担い、山県昌景隊と戦い、撃退しています。
また犀ヶ崖に陣取った武田軍に夜襲をかけ、
武田軍を大混乱に陥らせて、
多数の死傷者を出させる武功を挙げています。

長篠城攻め・高天神城
天正元年(1573年)の長篠城攻めでは
9月に堀越で榊原康政等と共に武田軍を破り、
獲得した長篠城に入り、城を守っています。

長篠・設楽原合戦屏風絵図 徳川家康

天正3年(1575年)の長篠の戦い
天正8年(1580年)の高天神城奪還戦にも
参戦しています。
これらの合戦における本多忠勝の活躍は
敵味方を問わずに賞賛され、
徳川家康からは「まことに我が家の良将なり」と激賞され、
「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。
手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。
鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」
と本多忠勝を詠んだ川柳もあるとのことです。

高天神城跡 搦手門側(高天神社参道)

本能寺の変の伊賀越え】
天正10年(1582年)、
本能寺の変が起きたとき、
徳川家康は本多忠勝ら少数の随行とともに
堺に滞在していましたが、
徳川家康が京都に行って
織田信長の後を追おうと取り乱したのを
本多忠勝が諌めて、「伊賀越え」を行わせました。
この時、帰路の途中の木津川で船に乗った際、
渡し終わった船の船底を
槍の石突で突き破り、
追手が使用するのを防いだということです。




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小牧・長久手の戦い
天正12年(1584年)4月の
小牧・長久手の戦いでは、
当初本多忠勝は留守を任されたのですが、
豊臣方16万の大軍の前に
徳川軍が苦戦して
崩れかけていることを聞き、
本多忠勝はわずか500名の兵を率いて
小牧から駆けつけ、
5町(約500m)先で
豊臣の大軍の前に立ちはだかり、
さらに龍泉寺川で単騎乗り入れて
悠々と馬の口を洗わせましたが、
この振舞いを見た豊臣軍は
逆に進撃をためらい戦機は去ったのでした。
この豪胆な振舞いや活躍などにより、
豊臣秀吉からも
東国一の勇士と賞賛されました。
また、織田信雄にも賞され、
法成寺という刀を賜りました。

【従五位下・中務大輔】
徳川氏が豊臣氏の傘下に入ると
天正14年(1586年)11月9日
(天正16年(1588年)4月とも)、
従五位下・中務大輔に叙位・任官されました。

【上総国夷隅郡大多喜10万石】
天正18年(1590年)、
徳川家康が関東に移封されると
上総国夷隅郡大多喜(千葉県夷隅郡大多喜町)に
榊原康政と共に、家臣団中第2位の10万石
(1位は井伊直政の12万石)を与えられます。
江戸から遠くなっているのは、
「譜代の将は敵が攻めてくる国境に配置する」
との、徳川家康の配置方針によるものです。
榊原康政は北の真田氏
上杉氏に対する備え、
本多忠勝は安房国の
里見氏に対する備えとのことです。

関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは
徳川家康本軍に従軍しました。
但し、本多本隊は嫡男の
本多忠政が指揮を執っており、
本多忠勝は徳川本陣にあって、
豊臣恩顧の武将の監視役に
あったともいわれています。
前哨戦ともいえる竹ヶ鼻城攻めや
岐阜城攻めに参戦し、
また吉川広家など諸大名に
井伊直政と連署の書状を送って
東軍方につける工作にも活躍しました。
本戦でも奮戦し、僅かな手勢で90にも
及ぶ首級をあげました。

【伊勢国桑名】
この功績により、慶長6年(1601年)、
伊勢国桑名(三重県桑名市)
10万石に移されると、
旧領・大多喜は次男である本多忠朝
別家5万石で与えられました。
これは一説には、
徳川家康が本多忠勝に対して
さらに5万石を増領しようとしましたが、
本多忠勝が固辞したために
徳川家康が次男に与えたとされています。
一方で、関ヶ原合戦後に
本多忠勝は一国が与えられることを望み、
家臣へ与える知行の目録まで
作成して待っていましたが叶えられず、
訪れた阿部正次にこの話をした後に
目録を焼いたとされています。

【桑名藩の藩政確立】
本多忠勝は桑名藩の藩政を確立するため、
直ちに城郭を修築し、慶長の町割りを断行し、
東海道宿場の整備を行い、
桑名藩創設の名君と仰がれています。




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【中枢から遠ざかる】
晩年は、戦乱の収束により
本多正純などの若く文治に優れた者(吏僚派)が
徳川家康及び徳川秀忠の側近として台頭し、
本多忠勝自身も慶長9年(1604年)頃から
病にかかるようになり、
江戸幕府の中枢からは遠ざかっています。

【隠居と死去】
慶長9年に病にかかり隠居を申し出ますが、
この際は徳川家康に慰留されています。
その後、慶長12年には眼病を煩い、
慶長14年(1609年)6月、
嫡男の本多忠政に家督を譲って隠居します。
慶長15年(1610年)閏2月には
三河国田原で徳川秀忠が挙行した
大規模な巻狩に同行しました。
同年10月18日に桑名で死去ましした。
享年は63歳でした。
この際に重臣の中根忠実と
梶原忠両名が殉死し、
本多忠勝の左右に埋葬されました。
本多忠勝は臨終に際して
「侍は首取らずとも不手柄なりとも、
事の難に臨みて退かず。
主君と枕を並べて討死を遂げ、
忠節を守るを指して侍という(略)」
という言葉を遺しています。

【本多忠勝の人となり】
愛槍は「蜻蛉切」。
兜は「鹿角脇立兜」。
鹿の角をあしらった脇立は
何枚もの和紙を貼り合わせて
黒漆で塗り固めたものです。
鎧は当世具足「黒糸威胴丸具足」。
自らが葬った敵を弔うため、
肩から大数珠をさげるのが
常であったと云われています。
また動きやすさを重視し
軽装を好んだということです。
愛馬は「三国黒」で、
後の二代将軍である徳川秀忠より贈られました。
関ヶ原の戦いで島津勢の銃撃により死亡。
織田信長はその並はずれた武勇を
武田征伐後、
「花も実も兼ね備えた武将である」
と侍臣に紹介したとか。
豊臣秀吉には「日本第一、古今独歩の勇士」
と称され、また、
「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、
西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」
と勇将として引き合いに出されたそうです。

【逸話】
<榊原康政>
榊原康政とは同年齢ということもあり、
仲が良く親友同士だったそうです。
天正元年(1573年)の長篠城攻めでは
榊原康政と武功を競い合っています。

本多正信
本多正信のことを快く思わず
佐渡守(正信)の腰抜け」
「同じ本多一族でもあやつとは
全く無関係である」とまで言い捨てていました。

<長篠の戦い>
長篠の戦いの時、
逃げる武田軍が投げ捨てた旗を拾い、
「軍旗を捨てるとは何事か」
と嘲ったということです。
長篠の戦い終了後、
本多忠勝はどこか物憂げであり、
家臣がその訳を尋ねると、
本多忠勝は
「武田家の惜しい武将達を
亡くしたと思っている。
これ以後戦で血が騒ぐ事は
もうないであろう」と愚痴をこぼしたということです。




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<小牧・長久手の戦い>
小牧・長久手の戦いでは、
わずか500名の軍勢を率いて
豊臣秀吉自ら率いる8万の大軍と対峙し、
豊臣秀吉の家臣、
加藤清正福島正則らが
本多忠勝を討ち取るべしと進言しました。
けれども、本多忠勝の姉川での勇猛ぶりを
聞き知っていた豊臣秀吉は目に涙を浮かべ
「わざと寡兵で我が大軍に勇を示すのは、
我が軍を暫時喰い止めて
家康の軍を遠ざけるためであろう。
徳川家を滅ぼした際には
彼を生け捕って我が家人にすべきなり」
と本多忠勝を討ち取ることを禁じたとのことです。

<豊臣秀吉からの質問>
秀吉・家康が和睦した後に
秀吉に召しだされたとき、
「秀吉の恩と家康の恩、
どちらが貴殿にとっては重いか」
と質問されると、
「君のご恩は海より深いといえども、
家康は譜代相伝の主君であって
月日の論には及びがたし」と答えたそうです。

<関ヶ原の戦い>
関ヶ原の戦いの際、
東軍の兵士達は背後に陣を構えた
毛利・長宗我部軍の動向を気にしていました。
その時、本多忠勝は
「もし毛利軍に戦う意志があるのならば、
山の上ではなく、
山を下って陣を構えるはず。
今山の上にいるのは、
戦う意志がないからである」
と言い、味方を安心させたということです。

真田昌幸真田信繁の助命嘆願>
関ヶ原において西軍が敗戦した際、
それに与した真田昌幸・真田信繁(幸村)親子の
助命を娘婿の真田信之と共に嘆願しましたが、
両名に散々煮え湯を飲まされている
徳川家康は強硬に拒否しました。
またそれ以上に真田昌幸により
上田城に釘付けにされた挙句に
関ヶ原遅参という失態を演じ、
徳川家康の勘気を被った
徳川秀忠は強硬に死罪を主張しました。
結局は本多忠勝らの嘆願に折れる形で
真田親子は紀伊高野山山麓の
九度山に蟄居という処分に止まり、
信濃上田領は信之に与えられることとなりました。

<かすり傷の予言>
本多忠勝が死ぬ数日前、
小刀で自分の持ち物に名前を彫っていた時、
手元が狂って左手にかすり傷を負ってしまいました。
本多忠勝は「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな。」
と呟き、その言葉通りになったということです。

【遺書・辞世】
遺書の一節
「侍は首を取らずとも不手柄なりとも、
事の難に臨みて退かず、
主君と枕を並べて討ち死にを遂げ、
忠節を守るを指して侍という」と、
辞世の歌
「死にともな 嗚呼死にともな
死にともな 深きご恩の君を思えば 」は、
晩年は不遇であったとされながらも、
主君である徳川家康への変わらぬ
忠誠心の大きさを物語っているとのことです。

2023年NHK大河ドラマ
どうする家康」では
山田 裕貴(やまだ ゆうき)さんが演じられます。

徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!

松平信康~将来を有望されていた嫡男でしたが、築山殿と共に非業の死を遂げます。

本多忠真~本多忠勝の叔父で甥の本多忠勝を最強の武士に育て上げ、三方ヶ原の戦いで散ります。

稲(小松姫)~本多忠勝の愛娘で真田信幸(信之)の正室、男勝りで利発で良妻賢母という戦国期の理想の女性。

大高城~松平元康(徳川家康)が兵糧を届け守備につき、本多忠勝が初陣及び元服しました。

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酒井忠次~東三河の旗頭で徳川家康第一の功臣、嫡男の信康切腹事件では防げなかったとありますが果たして?

榊原康政~徳川四天王、部隊の指揮に優れ能筆家で、井伊直政・本多忠勝とは特に仲が良かったとされています。

服部正成(服部半蔵)~家柄は松平清康からの家臣で伊賀衆と甲賀衆を指揮、彼自身は忍者の頭領にあらず。

鳥居元吉~岡崎譜代の忠臣で徳川家康を支え「三河武士の鑑」と称された人物です。

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本多正信~一度は袂を分かつも盟友として家康を支え、徳川政権樹立の陰の立役者とされています。

井伊直政~徳川四天王の最年少、小柄で容顔美麗ながら井伊の赤鬼として勇猛果敢に生涯を駆け抜ける。

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忠勝公園~本多忠勝公、正室、次男で大多喜藩の第2代藩主である本多忠朝公の墓があります。

万喜城~築城は上総土岐氏と伝えられており、本多忠勝が一時居城していました。

桑名城~築城の起源は永正10年、関ヶ原の戦いの後に本多忠勝が入封し城郭を建造しました。

真田昌幸~武田信玄を敬愛し「表裏比興の者」は死しても徳川家に恐怖を与えました。

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