鎌倉殿の13人

平知康~後白河法皇からの信任篤き人物でしたが木曾義仲、源義経、源頼家と源氏との相性はイマイチでした。

妙楽寺 紅葉



スポンサーリンク



【平 知康】

平 知康(たいら の ともやす)は、
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士でした。
壱岐守・平知親の子。
検非違使・左衛門尉。
鼓の名手で鼓判官(つづみのほうがん)
と呼ばれていたとのことです。
平氏ではありますが、平清盛をはじめとする
平家一門ではありませんでした。
生没年は不詳です。

【平知康の生涯】
北面武士で、後白河院の信任篤く
近臣となりました。
寿永2年(1183年)7月に
源義仲が平家を追い入京すると、
後白河法皇の使いとして
幾度か木曾義仲を訪れています。
「平家物語」では兵の乱暴狼藉を
鎮めるよう求めたところ、
木曾義仲から
「和殿が鼓判官といふは、
万(よろず)の人に打たれたか、張られたか」
と尋ねられて面食らい、
後白河法皇に木曾義仲討伐を
進言したとされています。

【法住寺合戦】
平知康は院御所の法住寺殿に兵を集めて、
公然と木曾義仲に
対決姿勢を示したとされています。
法皇方は木曾義仲に洛外退去を要求し、
応じねば追討の宣旨を下すと
通告したとのことです。
これに怒った木曾義仲は
寿永2年(1183年)11月19日、
法住寺殿を攻撃します。
平知康が防戦の指揮を執りますが、
結果は惨敗で、後白河院は
木曽義仲に捕らえられ
幽閉されてしまうのでした。
そして平知康は解官されてしまいます。

元暦2年(1185年)、
検非違使に復官し、
在京していた源義経に接近します。
けれども平家滅亡後に、
源頼朝と義経が不和になり、
源義経が都落ちすると、
平知康は再び解官されてしまうのでした。

元暦3年(1186年)、
この弁明のために鎌倉へ下向すると、
2代将軍である源頼家の蹴鞠相手として
留め置かれ、その側近となりました。
けれども17年後の建仁3年(1203年)、
源頼家が追放されて
伊豆国修禅寺に幽閉されると、
平知康は居場所を失い帰洛するのでした。
その後の消息は不明です。

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
矢柴 俊博(やしば としひろ)さんが演じられます。

後白河院(後白河院天皇)(後白河法皇)「治天の君」の地位を保持した「日本一の大天狗」の異名をとる人物。

平清盛~平家の黄金期を築いた棟梁~先見性と革新的思考で時代を切り開き後世に託す。

木曾義仲(源義仲)河内源氏の一族で源頼朝とは従兄弟、美男子で信義と情を備えていたが武骨で公家文化には疎かった

源義経~戦略家且つ戦術家であった若き天才~その悲運な生き様はやがて伝説となった。

源頼家~悲劇の2代目~北条VS比企、時々朝廷、そして東国武士の権力闘争が渦巻く時期。

北条時房~初代連署で六波羅探題南方、北条義時の弟で甥の北条泰時とは最高の相棒であり好敵手でした。

関連記事

  1. 千葉常胤 千葉常胤~桓武平氏の流れをくむ千葉氏の中興の祖~鎌倉幕府成立に大…
  2. 丹後局 供養塔(横浜市戸塚) 丹後局(丹後内侍)、源頼朝の妻妾で比企一族ともされています。供養…
  3. 鑁阿寺 鐘楼 北条時子~足利義兼の正室で北条政子の同母妹、身の潔白の為に自害。…
  4. 岩船地蔵堂 亀ヶ谷 三幡(乙姫)~源頼朝と北条政子の次女、父親と同じ年に14歳にて早…
  5. 墨俣川(現長良川) 義円~源義朝の八男で源義経と阿野全成とは同母兄弟で源頼朝の異母弟…
  6. 鶴岡八幡宮 境内 足立遠元~十三人の合議制のメンバー、平治の乱で活躍し、東国武士…
  7. 和田義盛 旧里碑 和田義盛と和田合戦~三浦一族~鎌倉幕府創始の功臣だが北条義時に嵌…
  8. 安達盛長の墓所(修善寺) 安達盛長~源頼朝を流人時代からの側近で生涯に渡って支え続け厚い信…



スポンサーリンク




コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。

おすすめ記事

  1. 越前大野城址~雲海に浮かぶ天空の城~一向一揆平定の恩賞として金森長近が築城 越前大野城

ピックアップ記事

  1. 足利義昭
  2. 岡本城(安房国) 安房里見氏
  3. 法隆寺 建屋内部
  4. 正倉院
  5. 寿福寺 北条政子
スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
PAGE TOP