城跡

須賀川城跡~二階堂氏が室町時代に築城、やがて伊達氏と争い去っていきます。

須賀川城址



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須賀川城】

須賀川城(すかがわじょう)は
福島県須賀川市にかつて存在した
日本の城(平山城)です。
釈迦堂川の氾濫原を見下ろす
段差約20mの台地上にあります。
現在は本丸跡に二階堂神社が残っています。
そのほか遺構としては、
長松院の北側にある
神炊館神社周辺に
土塁と空堀をわずかに確認できます。

長松院 須賀川城址

【構造形態】
平山城

【築城主】
二階堂行続

【築城年】
1399年

【主な城主】
二階堂氏、石川昭光、蒲生郷成

【標高(比高)】
270m( 20m )

【廃城年】
1627年頃

【遺構】
土塁、空堀、水堀

【指定文化財】
未指定

【須賀川城の歴史】
野川本「藤葉栄衰記」によりますと、
応永6年(1399年)、
足利満兼が奥羽支配のため遣わした
足利満貞・足利満直の配下であった
二階堂行続(二階堂治部大輔)が築城しました。
また、「中古日本治乱記」には、
須賀川城主である二階堂信濃守(二階堂行続?)が
応永20年(1413年)の
伊達持宗らによる挙兵を関東公方である
足利持氏に伝えたという記述があります。

二階堂行続が反抗したため文安年間には
二階堂為氏が下向してこれを破り、
城主となって当地一帯を支配したとのことです。
なお、「鎌倉管領所領役考応仁武鑑」では、
二階堂行続の遺子である
二階堂盛重を当城主としています。

元亀3年7月27日(1572年9月14日)に
那須資胤の軍勢が攻めてきましたが、
当時の城主・高瀬伊勢守に敗れています。

天正9年(1581年)に
城主の二階堂盛義が死去すると、
後室の大乗院が城主となり、
城代の須田盛秀が実務を代行しました。

この頃から伊達氏との対立が深まっていきます。
「政宗記」によりますと、
天正13年(1585年)に
伊達政宗は当地を
攻撃するつもりでしたが、
逆に佐竹義重らが出陣して
伊達側の城を攻撃しています。
また、天正15年(1587年)には
会津衆と二階堂氏が共同で
伊達氏を攻撃しました。




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天正17年8月19日(1589年9月28日)の
那須資晴の書状によりますと、
須賀川城には当時、
佐竹某が在番していました。
二階堂家臣団では、
佐竹氏との同盟を進める
須賀川城代である須田盛秀と
伊達氏との連携を主張する
保土原行藤が当時それぞれ派閥を形成し、
分裂していたのでした。
そして岩瀬郡西域の行藤派は
伊達政宗に内応し、
天正17年10月26日(1589年12月3日)に
伊達政宗が西方から接近して
山王山城に陣すると、
これを先導して須田氏、佐竹氏らの兵である
約600人の守る当城は攻め落とされました。

この際に釈迦堂川南岸で激戦があり、
長禄寺が放火されて本丸まで延焼しています。
城主の大乗院(阿南姫:伊達晴宗の娘)は
佐竹家へ落ち延び、
伊達政宗は一族の石川昭光に
須賀川城を与えました。
けれども天正18年(1590年)、
豊臣秀吉の奥州仕置によって
須賀川近辺は蒲生氏郷領となり、
配下の田丸具直が
須賀川城主となりました。

慶長3年(1598年)、
上杉景勝が会津に入り、
部下の栗田国時が
愛宕山の城から一帯を統治しました。

慶長6年(1601年)に蒲生秀行が
会津藩主となると、
家臣の蒲生郷成が須賀川城に入りました。

寛永4年(1627年)、
加藤嘉明が会津藩主となった後、
まもなく廃城となりました。
廃城後は、跡地に在郷町が繁栄しています。

<在郷町>
在郷町(ざいごうまち)は、
日本の都市の形態のひとつです。
日本において中世から近世の時代に、
農村部などで、中心となる施設がなく、
商品生産の発展に伴って発生した
町・集落です。
在町(ざいまち)、郷町(ごうまち)、
在方町(ざいかたまち)などとも
呼ばれたとのことです。

【遺構】
須賀川城の面影を残すところは
ほとんどありません。
けれども数が少ないながらも
土塁や堀跡が僅かに残っています。
その場所は、神炊館神社(おたきやじんじゃ)、
長松院、本丸跡の二階堂神社です。

二階堂神社(須賀川城址)

【構造】
天正年間のものと推定される
「二階堂居城時代須賀川城絵図」では、
中央に本丸、その東に二の丸、
北に三の丸があり、
これらの周囲を水濠が囲んでいました。
南の大手に家臣居住区、
西には長禄寺や諏訪明神などの寺社を配置、
北は職人や奉公人の町並がありました。
また、南東には守備のため
備えに有力武将の館を配置していました。

二階堂氏居城時代の須賀川城と町割図

【交通アクセス】
JR東日本東北本線「須賀川」駅からバス
⇒現在も運行しているかご確認下さい。
最寄りバス停は「宮先町」バス停。
「須賀川」駅から徒歩で20~25分程度。

<徒歩ルート>
須賀川駅の前の道を
須賀川市役所方面へまっすぐ進みます⇒
ホテル虎屋、須賀川信用金庫総本店⇒
看板が見える道を右に曲がります⇒
少し進んだところにある
二階堂神社が本丸で、城址碑があります。

【所在地】
〒962-0842 福島県須賀川市諏訪町

(車)
東北自動車道「須賀川」ICから10分程度。
【駐車場】
◆須賀川市役所駐車場
◆長松院駐車場
<所在地: 〒962-0847 福島県須賀川市諏訪町88>

【二階堂氏】

二階堂氏(にかいどうし)は、
下級貴族(官人)、軍事貴族(武家)、
名門(高家)、幕府官僚の一氏族です。
特に陸奥国岩瀬郡須賀川を支配し
須賀川城を居城とした戦国大名が著名です。

【二階堂氏は工藤氏】
二階堂氏は藤原姓で、
藤原南家乙麻呂流工藤氏の流れです。
工藤行政は文官として源頼朝に仕え、
建久3年(1192年)11月25日に建立された
永福寺(二階建ての仏堂があった)の周辺に
邸宅を構えた為、二階堂氏を称したということです。
工藤行政には二階堂行光と
二階堂行村の二人の子がいました。
二階堂行光は鎌倉幕府政所執事に任命され、
一時親族の伊賀光宗が任じられた以外は
二階堂氏から同職が補任される慣例が成立しました。

【「信濃流」と「壱岐流」】
当初は二階堂行光を祖とする
「信濃流」と呼ばれる一族が
執事職を占めていました。
しかしながら、鎌倉時代中期に
信濃流嫡流の執事の相次ぐ急逝によって
信濃流庶流や二階堂行村を祖とする
「隠岐流」を巻き込んだ
執事職を巡る争いが発生し、
鎌倉時代末期には
信濃流の二階堂行貞の系統と
隠岐流の二階堂行藤の系統が
交互に執事の地位を占め、
前者は室町幕府でも評定衆の地位にあったのでした。

二階堂氏の子孫は実務官僚として
鎌倉幕府・建武政権・室町幕府に仕え、
その所領は日本全国に散在しており、
多くの庶子家を出しました。
喜連川藩の家老であった
二階堂氏は元は
上総国椎津城を与えられた
鎌倉府の家臣で、
小弓公方成立時にその傘下に入り
そのまま喜連川氏に従った
椎津二階堂氏の出身ですが、
鎌倉府に仕えた二階堂氏の系統が
複数あるため、どの系統につながる
二階堂氏であるかは不明です。




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【須賀川二階堂氏】
文安元年(1444)頃、
鎌倉から二階堂為氏が須賀川に下向し、
命令に従わなくなった
須賀川代官であった
二階堂治部大輔を討ち、
須賀川城に入ったということです。
この二階堂為氏が
須賀川二階堂氏の初代当主といわれています。
現存する須賀川二階堂氏の
系図の多くは後世に
作成されたものであり、
二階堂為氏以前が
どの家系につながるかはわかってはいません。

須賀川城 本丸跡

須賀川二階堂氏は鎌倉府の時期には
三河守系と遠江守系の
二つの系統があったようです。
戦国期につながるのは
足利義政から御内書を下された
二階堂藤寿の遠江守系で、
二階堂貞藤(備中家)の兄である
二階堂時藤の養子であった
二階堂成藤の子孫と推定されています。
ただ、二階堂藤寿は現存する
二階堂氏の系図には
名前が見当たらず、
二階堂為氏との関係は定かではありません。




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天文11年(1542年)に
勃発した天文の乱と呼ばれる
伊達氏の内訌(ないこう)に
端を発した大乱では、
伊達稙宗の娘婿である
二階堂照行(輝行とも)は
伊達稙宗方となっています。

永禄年間(1558年から1570年)になると、
度々蘆名氏に攻められ、
二階堂盛義は息子を人質として送り講和しました。

二階堂盛義の死後当主となった
二階堂行親は早世し、
その跡は二階堂盛義の未亡人であり、
伊達政宗の伯母にあたる
阿南の方(大乗院)が継いでいました。
そのため伊達政宗も幾度となく
降伏を薦めましたが、
阿南の方はこれを頑強に拒否したのでした。
天正17年(1589年)10月26日に
伊達政宗に攻められて、須賀川城は落城しました。
阿南の方はその後は伊達政宗を嫌って
甥の岩城常隆を頼り、
岩城常隆の死後は佐竹義宣の元に身を寄せました。
佐竹氏が出羽に移封されると
病のため須賀川に留まることになり、
1602年に62歳で没したということです。

二階堂行政、13人の合議制のメンバーで初期の鎌倉政権を支えた実務官僚でした。

岩瀬山城(愛宕山城)~鎌倉時代に築城され、須賀川城が移るまで二階堂氏の本拠地でした。

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