【朽木谷城(くつきたに)】
石垣と井戸そして水堀の一部が遺構として見られ、
園外の県道横には堀跡が現存しています。
朽木資料館(高島市朽木野尻478番地の22)が建てられています。
約10万㎡の敷地に本丸、二の丸、三の丸、御殿、
侍所、剣術道場、および馬場などがあったといわれています。
朽木陣屋跡、朽木城とも称します。
関ヶ原の戦後、減封となりましたが、
大名に準じる地位で引き続き朽木谷を領有し、陣屋の規模も縮小となりました。
朽木資料館には陣屋の模型があるそうです。
原則として事前予約が必要で、問い合わせ先は下記になります。
朽木陣屋跡にはトイレは見当たりませんでした。
<朽木谷城(朽木陣屋跡)>
<朽木陣屋跡説明看板>
<朽木陣屋跡・駐車場>
見学予約・問い合わせ先▽
<高島歴史民俗資料館>
TEL:0740-36-1553/FAX:0740-36-1554
<開館時間>
午後午前9時~午後4時30分
<休館日>
月・火曜日・祝日
(※高島歴史民俗資料館はこれまでどおり通常開館します)
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【朽木氏】
朽木氏(くつきし)は、日本の氏族の一つ。
近江源氏佐々木氏の分流である高島氏の有力庶家です。
高島郡の中でも、
安曇川上流域(高島郡北部)である朽木谷を領しました。
鎌倉時代から江戸時代にかけて活動しています。
佐々木信綱の子高島高信の次男頼綱を祖とします。
頼綱の三男・朽木義綱が近江国朽木庄を領し、
朽木氏を称したのが始まりとされています。
宗家高島氏や他の高島氏分家とともに
高島七頭と称され、高島郡の有力武士の一つでした。
【朽木元網】
朽木元綱(くつきもとつな)は、
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名、寄合旗本。
天文19年(1550年)に父・晴綱が戦死したため、
わずか2歳で家督を継承します。
【足利将軍を匿う】
天文22年(1553年)より
三好長慶に京都を追われた
13代将軍・足利義輝を父に引き続き朽木谷に匿いました。
朽木元綱も足利義輝・義昭に仕え、
外祖父に公卿飛鳥井雅綱を持つなど
名門の血を継いでいます。
【信長の窮地を救う!朽木越え】
永禄9年(1566年)の浅井長政による
近江国高島郡侵攻に際しては人質を差し出し、
永禄11年(1568年)12月には
浅井久政・長政父子と起請文を交わしましたが、
まもなくこれを破棄しています。
元亀元年(1570年)の朝倉攻めにおいては
松永久秀の説得を受けて
織田信長の京都撤退(金ケ崎の退き口⇒朽木越え)を助け、
後に信長に仕え信長麾下として磯野員昌、
その追放後は津田信澄に配されましたが、
天正7年(1579年)には代官を罷免されているので、
信長からは厚遇されていなかった模様です。
【信長の隠れ岩】
織田信長の隠れ岩。
織田信長は越前の朝倉氏攻めから撤退する際に
朽木谷を通り京都へ無事帰還しましたが、
領主・朽木元網の向背が明らかになるまで、
この岩窟に身を隠していたと伝わる場所です。
<地図:青印⇒「信長の隠れ岩」
「赤印⇒朽木陣屋跡及び朽木資料館」>
<信長の隠れ岩>
<信長の隠れ岩・説明>
【戦国の世を巧みに生きる】
信長の死後は豊臣秀吉に仕え、
伊勢安濃郡・高島郡内の蔵入地の代官に任ぜられ、
小田原征伐にも参加、朽木谷2万石を安堵されています。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、
当初は大谷吉継に従って西軍でしたが、
小早川秀秋に呼応して
脇坂安治や小川祐忠、赤座直保らと共に東軍に寝返りました。
死後、遺領は3人の息子に分割されたために、
朽木宗家は6300余石となりました。
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【本流は明治維新まで続く】
江戸時代に入り、朽木谷城を拡張して陣屋を築きました。
三の丸まであったそうですが、
明治維新と共に陣屋建物は壊されました。
現在もこの地に子孫の方がお住まいです。
【朽木稙綱<江戸時代>】
元網の末子の朽木稙綱(くつきたねつな)は、
江戸幕府3代将軍・徳川家光の信頼を受けて
大名として取り立てられます
寛永13年8月13日(1636年9月12日)に
加増を受けて1万石の大名となり、その後、
正保4年12月24日に下野国鹿沼などを与えられて
鹿沼城を居城と定めた事で鹿沼藩が成立します。
其の後3万石をもって常陸土浦藩に転封となります。
【朽木稙昌】
更に、稙綱の子である朽木稙昌(くつきたねまさ)は
寛文9年(1669年)9月、
5000石加増の3万2000石で
丹波福知山藩に加増移封されました。
かつての明智光秀の領地であった福知山に入り、
福知山城主となります。
そして朽木氏13代の支配が続き明治維新を迎えます。
なお、第5代藩主朽木玄綱(くつき とうつな)の時代には
明智光秀御霊法会を許可しています。
これは現在も続く御霊祭りの開始となります。
【興聖寺(朽木氏岩神館跡)】
興聖寺(こうしょうじ)。
鎌倉時代、
高島氏及び朽木氏の祖である佐々木信綱は
承久の乱で戦死した一族の供養で
曹洞宗の開祖である道元禅師(どうげんぜんし)を訪ねます。
そして道元禅師が、この地を訪れ、
伏見深草の興聖寺に似て絶景であるとして
建立を勧めたのが始まりとされています。
別名を朽木氏岩神館跡ともいいます。
<興聖寺>
<遺構>
土塁・空堀
【足利庭園】
興聖寺の中にあり、国の特別名勝を受けている庭園です。
相次ぐ武将たちの反乱で京を追われた12代将軍である足利義晴が、
三好松永の反乱を避け、享禄3年(1530年)に
朽木稙綱(くちきたねつな)<戦国時代>をたよってこの地に滞在します。
(江戸時代に大名に取り立てられた朽木稙綱(くちきたねつな)の曽祖父 (そうそふ))
その時に、佐々木一族・京極高秀・浅井亮政・朝倉孝景を始めとする
近隣の大名の協力の元、細川高国が造園した庭園とのことです。
別名は旧秀隣寺庭園ともいいます。
<足利庭園>
<場所>
駐車場辺りです。
興聖寺(朽木氏岩神館跡)へは駐車場脇にある
小道を上がった先にあります。
水洗トイレ有り。
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