【比叡山】
比叡山(ひえいざん)は、
滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山。
大津市と京都市左京区の県境に位置する大比叡(848.3m)と
左京区に位置する四明岳(しめいがたけ、838m)の二峰から成る
双耳峰の総称です。ある。高野山と並び古くより信仰対象の山とされ、
延暦寺や日吉大社があり繁栄しました。
古事記には淡海(おうみ)の日枝(ひえ)の山として記されており、
古くから山岳信仰の対象とされてきました。
<地図>
【延暦寺】
延暦寺(えんりゃくじ、正字: 延曆寺)は、
滋賀県大津市坂本本町にあり、
標高848mの比叡山全域を境内とする寺院です。
比叡山、または叡山(えいざん)と呼ばれることが多く、
平安京(京都)の北にあったので南都の興福寺と
対に北嶺(ほくれい)とも称されていました。
平安時代初期の僧・最澄(767年~822年)により
開かれた日本天台宗の本山寺院です。
住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括します。
1994年には、古都京都の文化財の一部として
ユネスコ世界文化遺産にも登録されました。
寺紋は天台宗菊輪宝。
その他、詳細や行き方などはこちらをどうぞ⇓⇓⇓
比叡山・延暦寺を訪ねる~滋賀県側(坂本)からが便利です!坂本ケーブル動画あり
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【武装化】
名僧を次々と輩出した比叡山でしたが、
やがて比叡山の僧はのちに円仁派と円珍派に分かれて
激しく対立するようになりました。
「山門」(円仁派、延暦寺)と「寺門」(円珍派、園城寺)は
対立・抗争を繰り返し、こうした抗争に参加し、
武装化した法師の中から自然と僧兵が現われてきました。
延暦寺の武力はやがて年を追うごとに強まり、
強大な権力で院政を行った白河法皇ですら
「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」
と歌に詠んでいた程でした。
山は当時、一般的には比叡山のことであり、
山法師とは延暦寺の僧兵のことです。
強大な権力を持ってしても制御できないものとなっていました。
延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、
僧兵たちが神輿(当時は神仏混交であり、神と仏は同一であった)
を奉じて強訴するという手段で、
時の権力者に対し自らの主張を通していました。
また、祇園社(現在の八坂神社)は当初は興福寺の配下でしたが、
10世紀末の抗争により延暦寺がその末寺となりました。
同時期、北野社も延暦寺の配下に入っていました。
1070年には祇園社は
鴨川の西岸の広大の地域を「境内」として認められ、
朝廷権力からの「不入権」を承認された程でした。
このように、延暦寺はその権威に伴う武力があり、
また物資の流通を握ることによる財力も持っており、
時の権力者を無視できる一種の独立国のような状態
でなっていました。
延暦寺の僧兵の力は奈良の興福寺と並び称せられ、
南都北嶺と恐れられるようになりました。
延暦寺の勢力は貴族に取って代わる力をつけた武家政権をも脅かしました。
従来、後白河法皇による平氏政権打倒の企てと考えられていた
鹿ケ谷の陰謀の一因として、
後白河法皇が仏罰を危惧して渋る平清盛に延暦寺攻撃を命じたために、
清盛がこれを回避するために命令に加担した院近臣を捕らえたとする説
下向井龍彦・河内祥輔説)が唱えられ、
建久2年(1191年)には、
延暦寺の大衆が鎌倉幕府創業の功臣・佐々木定綱の処罰を
朝廷及び源頼朝に要求し、最終的に頼朝がこれに屈服して
定綱が配流されるという事件が起きているのです。(建久二年の強訴)。
【武家との確執】
<足利義数>
初めて延暦寺を制圧しようとした権力者は、
室町幕府六代将軍の足利義教です。
義教は延暦寺の制圧に最終的には成功しましたが、
義教が後に殺されると延暦寺は再び武装し
僧を軍兵にしたて数千人の僧兵軍に強大化させ
独立国状態に戻ってしまいました。
<細川政元>
戦国時代に入っても延暦寺は独立国状態を維持しており、
明応8年(1499年)、管領細川政元が、
対立する前将軍足利義稙の入京と
呼応しようとした延暦寺を攻めたため、
再び根本中堂は灰燼に帰しました。
<織田信長>
また戦国末期に織田信長が京都周辺を制圧し、
朝倉義景・浅井長政らと対立すると、
暦寺は朝倉・浅井連合軍を匿うなど、
反信長の行動を起こしました。
元亀2年(1571年)、
延暦寺の僧兵4千人が
強大な武力と権力を持つ僧による仏教政治腐敗で
戦国統一の障害になるとみた信長は、
延暦寺に武装解除するよう再三通達をし、
これを断固拒否されたのを受けて9月12日、
延暦寺を取り囲み焼き討ちしました。
これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、
多くの僧兵や僧侶が亡くなりました。
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<再建>
信長や明智光秀の死後、
豊臣秀吉や徳川家康らによって各僧坊は再建されました。
根本中堂は三代将軍徳川家光が再建しています。
家康の死後、天海僧正により江戸の鬼門鎮護の目的で
上野に東叡山寛永寺が建立されると、
天台宗の宗務の実権は江戸に移りました。
なお、現在は比叡山に戻っています。
【比叡山焼き討ち(1571年)】
比叡山焼き討ち(ひえいざんやきうち)(1571年)ついて記します。
元亀2年9月12日(1571年9月30日)に
現在の滋賀県大津市の比叡山延暦寺で行われた合戦です。
この合戦で織田信長は僧侶、学僧、上人、児童の首を
ことごとく刎ねたと伝わっています。
またこの合戦はルイス・フロイスの書簡にも記載されているそうです。
一方、近年の発掘調査から、
施設の多くはこれ以前に廃絶していた可能性あるとが指摘されています。
<合戦のきっかけ>
比叡山と信長が対立したきっかけとして、
信長が比叡山領を横領した事実が指摘されています。
永禄12年(1569年)に
天台座主応胤法親王が朝廷に働きかけた結果、
朝廷は寺領回復を求める綸旨を下していますが、
信長はこれに従いませんでした。
元亀元年6月28日(1570年7月30日)の
姉川の戦いで勝利した信長でしたが、
同年8月26日の野田城・福島城の戦いでは
逆に浅井長政・朝倉義景連合軍に背後を突かれ、
浅井・朝倉連合軍は比叡山に立てこもり
比叡山の攻防戦(志賀の陣)となり、
正親町天皇の調停により和睦しています。
<志賀の陣・宇佐山城合戦>
元亀元年(1570)、
浅井・朝倉軍が逃げ込んだ比叡山を織田信長が囲み、
両軍が対峙する「志賀の陣」が起こりました。
この戦いで信長は弟・織田信治と宇佐山城の森可成を失ってしまいます。
(「宇佐山城の戦い」)
この時の信長の怒りは収まらず、
この怒りの一番の矛先を
浅井・朝倉軍をかくまった比叡山に向けたとも伝えられています。
<近江周辺の緊迫>
浅井・朝倉連合軍に加え、
近江南部・甲賀では六角義賢がゲリラ的に活動し、
三好三人衆も摂津・河内を抑えて再び京奪還を狙っていました。
更に石山本願寺を率いる顕如は、
摂津・河内・近江・伊勢、
そして信長のお膝元でもある尾張の門徒衆にも号令を発していました。
<信長による通行封鎖>
元亀2年1月2日、横山城の城主であった木下秀吉に命じて
大坂から越前に通じる海路、陸路を封鎖させます。
その目的は、石山本願寺と
浅井・朝倉連合軍、六角義賢との連絡を遮断するためでした。
なお『尋憲記』にこの時の命令書が残っています。
「北国より大坂への通路の緒商人、その外往還の者の事、姉川より朝妻のでの間、
海陸共に堅く以って相留めるべき候。
若し下々用捨て候者これ有るは、聞き立て成敗すべきの状、件の如し」
信長は「尋問して不審な者は殺害せよ」と厳しく命じています。
この時の通行封鎖はかなり厳重で、
『尋憲記』に更に、
奈良の尋憲の使者も止められたので
引き返したと記されているそうです。
同年2月、孤立していた佐和山城が降伏し、
城主の磯野員昌が立ち退いたため、
信長は丹羽長秀を城主に据え、
岐阜城から湖岸平野への通路を確保します。
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<信長包囲網を破っていく>
5月には浅井軍が一向一揆と組んで、
再び姉川に出軍し堀秀村を攻めましたが、
木下秀吉が堀を助けて奮戦し、
一向一揆・浅井連合軍は敗退します。
同月、信長は伊勢で長島一向一揆に参加した村々を焼き払うと、
8月18日には浅井長政の居城となっていた小谷城を攻め、
9月1日に柴田勝家・佐久間信盛に命じ、
六角義賢と近江の一向一揆衆の拠点となっていた
志村城、小川城を攻城します。
志村城では670もの首級をあげ、
ほぼ全滅に近かったと伝わっています。
それを見聞きした小川城の城兵は投降してきました。
また金ヶ森城も攻城しましたが、
こちらは大きな戦闘も無く落城したそうです。
9月11日、信長は坂本、三井寺周辺に進軍し、
三井寺山内の山岡景猶の屋敷に本陣を置きます。
<比叡山の重要性>
当時の比叡山の主は正親町天皇の弟である覚恕法親王でした。
比叡山は京都を狙う者にとっては、
北陸路と東国路の交差点になっており、
山上には数多い坊舎があって、
数万の兵を擁することが可能な戦略的に重要な拠点でした。
<目指すは徹底的破壊>
先の志賀の陣などの比叡山の攻防戦では、
比叡山側は信長が横領した寺領の返還を約束する講和も拒絶し、
浅井・朝倉連合軍を援けたりもしたので、
軍事的拠点を完全に破却しようと考えたと見られています。
信長包囲網で各勢力から包囲される中、
近江の平定と比叡山の無力化が戦線打破の重要課題でした。
比叡山の無力化とは、比叡山が信長方に属さない以上、
軍事的役割の抹殺つまり比叡山の
徹底的破壊を意味することになります。
<全ての家臣が賛同するわけではなく>
けれども織田軍の武将の中に、
この考え方に賛同しない家臣もいました。
『甫庵信長記』によりますと、
佐久間信盛と武井夕庵らが、
「この山と申す事は、人王五十代桓武天皇、
延暦年中に伝教大師と御心を合せ、
御建立ありしよう以来、
王城の鎮守として既に八百年に及ぶまで、
遂に山門の嗷訴をだに不用と云う事なし、
然るに今の世澆季とは申しながら、
斯る不思議を承り候事、前代未聞の戦にて御座候」と
「前代未聞の戦」という言葉を使い諌めましたが、
信長はこれに反論し全山焼き討ちが決定されたと考えられています。
しかしながらこの部分は
「『信長公記』にも見当たらないことから
事実か否か明らかではないと指摘されているそうです。
<攻撃前夜>
この時池田恒興が進言し、
夜になってしまえば逃散する者も出ると思われるので、
早朝を待って取り巻いて攻めれば
全員討ち取る事が出来る旨を進言します。
織田信長はこの言を聞き入れ、
また、森可成亡き後の宇佐山城に明智光秀を入れ、
明智光秀から比叡山焼き討ち準備完了の報告も受け、
近江一向衆の金ヶ森城を攻略後に
石山本願寺へ向かうと見せかけ、
11日夜中より比叡山の東麓を3万の兵が隙間なく取り巻いて、
早朝の合図を待ちます。
この動きを察知した延暦寺は、黄金の判金300を、
また堅田からは200を贈って攻撃中止を嘆願しましたが、
織田信長はこれを受け入れず追い返します。
ここに至り戦闘止むをえないとしたのか、
坂本周辺に住んでいた僧侶、
僧兵達を山頂にある根本中堂に集合させ、
また坂本の住民やその妻子は
山の方に逃げ延びていきました。
<比叡山へ攻撃開始>
元亀2年(1571年)9月12日、
織田信長は全軍に総攻撃を命じます。
まず織田信長軍は坂本、堅田周辺を放火し、
それを合図に攻撃が始まりました。
『信長公記』によりますと、この時の様子が
「九月十二日、叡山を取詰め、
根本中堂、山王二十一社を初め奉り、
零仏、零社、僧坊、経巻一宇も残さず、
一時に雲霞のごとく焼き払い、
灰燼の地と為社哀れなれ、山下の男女老若、右往、左往に廃忘を致し、
取物も取敢へず、悉くかちはだしにして八王子山に逃上り、
社内ほ逃籠、諸卒四方より鬨声を上げて攻め上る、
僧俗、児童、智者、上人一々に首をきり、
信長公の御目に懸け、是は山頭において
其隠れなき高僧、貴僧、有智の僧と申し、
其他美女、小童其員を知れず召捕り」
と記されています。
坂本周辺に住んでいた僧侶、僧兵達や住民たちは
日吉大社の奥宮の八王子山地図に立て篭もったと見られていますが、
ここも徹底的に焼かれました。
この合戦での死者は、『信長公記』によりますと、
数千人、ルイス・フロイスの書簡には約1500人、
『言継卿記』には3000~4000名と記されているとのことです。
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<戦後処理は明智光秀に一任>
織田信長は戦後処理を明智光秀に任せ、
翌13日午前9時頃に精鋭の馬廻り衆を従えて
比叡山を出立、上洛していきました。
その後三宅・金森の戦いでは近江の寺院を放火していきます。
延暦寺や日吉大社は消滅し、寺領、社領は没収され
明智光秀・佐久間信盛・中川重政・柴田勝家・丹羽長秀に配分しました。
この5人の武将達は自らの領土を持ちながら、
各々与力らをこの地域に派遣して治めることになっていきます。
特に明智光秀と佐久間信盛はこの地域を中心に支配することになりました。
特に明智光秀に対して織田信長は、比叡山焼き討ちの功労者として
比叡山延暦寺の遺領を織田信長から与えられ、
更には明智光秀は坂本城を築城することになりました。
これは織田信長の家臣では初めての事でした。
<比叡山と坂本>
<明智光秀の保護>
織田信長の命令で
比叡山焼き討ち準備の任務を遂行した明智光秀ですが、
その前後に明智光秀が経典や高僧を「独断で助けた」と伝えられ、
やがて坂本城主になると、
領内となった比叡山延暦寺を手厚く保護しているのです。
<明智光秀直筆の書状>
個人の方所蔵の明智光秀の書状が発見されています。
その書状は元亀2年9月2日付となっており、
比叡山焼き討ち直前に地元の国人和田秀純に宛てた
明智光秀の直筆書状です。
内容としては、織田軍に味方してくれた礼、
恩賞は望み次第、雄琴城に弾薬、兵士を補給する事、
またあらぬ疑いを避けるため人質を差し出すように細かく指示を出し、
織田軍の湖東の進軍ルートが詳しく記載されています。
また、織田信長が本陣を置いた三井寺は当時、
比叡山とは敵対関係にあったそうです。
<比叡山側>
一方、比叡山延暦寺側では
正覚院豪盛らが逃げ切ることができました。
甲斐の武田信玄に庇護を求めます。
武田信玄は彼らを保護し延暦寺を復興しようと企てました、
元亀4年(1573年)に病死し、実現できませんでした。
天正7年(1579年)6月の日吉大社の記録には、
正親町天皇が百八社再興の綸旨を出したものの、
織田信長によって綸旨が押さえられ、
再興の動きは停止されてしまったと伝わっています。
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<羽柴秀吉の心を掴む>
その後本能寺の変で織田信長は倒れ、明智光秀も山崎の戦いで敗れると、
生き残った僧侶達は続々と帰山し始めます。
その後羽柴秀吉に山門の復興を願い出ますが、
簡単には許されませんでした。
けれども秀吉は、詮舜とその兄賢珍の2人の僧侶を意気に感じ、
それ以降陣営の出入りを許され、
軍政や政務について相談し徐々に秀吉の心をつかんでいったそうです。
そして小牧・長久手の戦いで
出軍している秀吉に犬山城で度重なる要請を行い、
ついに天正12年(1584年)5月1日、
正覚院豪盛と徳雲軒全宗に対して山門再興判物が発せられ、
造営費用として青銅1万貫が寄進されました。
比叡山焼き討ちから約13年後のことでした。
(写真は東塔地域の阿弥陀堂)
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