【お市】
お市の方(おいちのかた)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての女性です。
初め近江の戦国大名である
浅井長政の継室で、
後に織田家重臣の柴田勝家の正室となりました。
小谷の方(おだにのかた)、小谷殿とも称されます。
名は通説では「於市」で、
「お市姫」(お市御料人)とも云い、
「好古類纂」収録の「織田家系譜」には
「秀子」という名が記されています。
江戸時代の書物の「祖父物語」や
「賤獄合戦記」では「天下一の美人」
(天下第一番の御生付)だと
誉が高かったということです。
【生涯】
前半生についてはほとんど
記録がなく不明です。
実名も一次史料には見られず
定かではありません。
通説では、天文16年(1547年)に
尾張那古野城内で生まれたとしています。
戦国大名の織田信長の妹(または従妹)で、
織田信長とは13歳離れています。
通説では、父は織田信秀で、
五女と伝えられ
生母は土田御前とされていますが、
本当のところは不詳です。
土田御前を生母とする説では、
信行、秀孝、お犬の方は
同腹の兄姉となります。
子に茶々(豊臣秀吉側室)、
初(京極高次正室)、
江(徳川秀忠継室)がいます。
孫にあたる人物は豊臣秀頼(茶々の息子)、
豊臣完子、千姫、徳川家光、
徳川和子(江の娘、息子)などです。
徳川和子は後水尾天皇の中宮となり、
その娘は明正天皇となりました。
また、今上天皇の先祖に当たる人物です。
婚姻時期については、
古くは永禄7年と考えられてましきたが、
同8年12月に六角承禎の命を受けた
和田惟政が織田・浅井両家の縁組に
奔走すたものの浅井長政側の賛同を
得られずに一度頓挫し、次の機会であった、
永禄10年(1567年)9月
または永禄11年(1568年)早々の
1月から3月ごろであったとされます。
このとき同10年9月に
浅井長政側から急ぎ
美濃福束城主・市橋長利を介して
織田信長に同盟を求めてきたとされ、
この縁談がまとまって、
お市は浅井長政に輿入れしたとされています。
この婚姻によって織田家と浅井家は
同盟を締結しました。
なお、浅井長政は主家である六角家臣の
平井定武の娘との婚約がなされていましたが、
市との婚姻により破談となっています。
その後、浅井長政との間に3人の娘を授かります。
この時期浅井長政には少なくとも
2人の息子が居たことが知られていますが、
いずれも市との間に設けられた
子供ではないと考えられています。
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元亀元年(1570年)、
織田信長が浅井氏と関係の深い越前国(福井県)の
朝倉義景を攻めたため、
浅井家と織田家の友好関係は断絶しました。
けれども政略結婚ではありましたが、
浅井長政と市の夫婦仲は良かったとのことです。
永禄13年頃から実家の織田家と
浅井家が対立するようになり、
緊張関係が生じた時でも、
娘を出産したことから
夫婦間は円満であったようです。
一方で、末娘の江に関しては
小谷出生説に異論を唱える史料もあり、
延宝7年(1679年)に成立した
「安土創業録」(蓬左文庫所蔵)では、
小谷城を脱出したのは市と娘2人であり、
お市は岐阜で江を出産したとあるとのことです。
浅井長政が姉川の戦いで敗北した後、
天正元年(1573年)に小谷城が陥落し、
浅井長政とその父である浅井久政も
織田信長に敗れ自害しました。
お市は3人の娘
「茶々」
「初」
「江(江与)」と共に
藤掛永勝によって救出され
織田家に引き取られました。
その後は、従来はお市と三姉妹は
伊賀国の兄・信包のもとに
預けられて庇護を受けていたと
されてきましたが、
近年の研究成果では、
お市と三姉妹は信包の庇護ではなく、
尾張国守山城主で織田信長の叔父にあたる
織田信次に預けられたという説が出てきています。
織田信次が天正2年9月29日に
戦死をした後は織田信長の岐阜城へ
転居することになります。
織田信長死後の天正10年(1582年)、
柴田勝家と羽柴秀吉が申し合わせて、
清洲会議で承諾を得、柴田勝家と再婚しました。
従来の通説では、神戸信孝の仲介に
よるものとされてきましたが、
柴田勝家の書状に
「秀吉と申し合わせ…主筋の者との結婚へ
皆の承諾を得た」と書かれたものがあり、
柴田勝家のお市への意向を汲んで
清州会議の沙汰への
柴田勝家の不満を抑える意味もあって、
会議後に羽柴秀吉が動いたとの説もあります。
婚儀は本能寺の変の4か月後の8月20日に、
信孝の居城岐阜城において行われました。
同年、柴田勝家の勧めにより、
京都の妙心寺で
織田信長の百箇日法要を営んでいます。
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天正11年(1583年)、
羽柴秀吉と対立していた柴田勝家が
4月の賤ヶ岳の戦いで敗れたため、
柴田勝家は敗走して
越前北ノ庄城に帰城しました。
羽柴秀吉はこれを急追して
城を包囲して激しく攻め立てます。
落城の前夜、城を枕に
切腹する覚悟を決めた柴田勝家は、
お市に場外退去を勧めましたが、
お市はこれを拒んで
共に自決すると誓ったのでした。
三人の娘だけは死出の道連れにするのを
憐れんで富永新六郎という武士に預けて
羽柴秀吉のもとに届けさせ、
お市の方も「主筋」であるから
大切にしてほしいとの書状を
添えたとのことです。
それから柴田勝家とお市、
一族、直臣、女中衆は、夜を徹して
酒宴を催して今生の別れをした上で、
4月24日、80名余で
共に自害したとのことです。
享年は37歳でした。
北ノ庄城には火が放たれて焼け落ちたとのことです。
辞世は
「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ 郭公(ほととぎす)かな」
— 「桃山時代の女」
「戦国の女性」
【墓所】
現在の墓所は西光寺(福井県福井市)で、
菩提寺は如意輪山願応寺自性院(福井県福井市)、
幡岳寺(滋賀県高島市)、
高野山持明院です。
戒名は願応寺では自性院殿微妙浄法大姉、
東禅院殿直伝貞正大姉、
高野山持明院の「江州浅井家之霊簿」では
照月宗貞禅定尼。
また、小谷城跡(滋賀県長浜市)のある
小谷山山頂に旧跡があります。
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