城跡

蓮華山城 ~毛利家臣となった椙杜氏の本拠地、 ご先祖様は初代問注所執事の三善康信です。

蓮華山城



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【蓮華山城】

蓮華山城(れんげやまじょう)は、
周防国玖珂郡(現在の山口県岩国市周東町)
にあった日本の城(山城)です。

【城郭構造】
連郭式山城

【天守構造】
なし

【築城主】
太田時直? 椙杜隆康?

【築城年】
不明

【主な城主】
椙杜氏
【廃城年】
不明

【遺構】
堀切、郭跡

【築城年代について】
築城年代については、
関東管領・上杉憲実に従って
周防国に下向した太田時直の頃
(享徳年間以降)と、
大内氏、後に毛利氏に従った
椙杜隆康の時代(天文年間)の
築城説があります。

【防長経略】
弘治元年(1555年)に、
陶晴賢が厳島の戦いで討死し、
同年より毛利氏が
周防・長門国への侵攻を開始しました。
その際に城主であった椙杜隆康は、
毛利氏の侵攻前後に
毛利元就と誼を通じており、
即座に降伏したのでした。
近隣の杉隆泰も降伏しましたが、
杉隆泰は大内氏とも
連携を取っていたとされ、
最終的には毛利氏の攻撃を
受けることになったのでした。

【鞍掛合戦】
蓮華山城は、
鞍掛山城のすぐ北にある
隣山だったため、
毛利軍は蓮華山城から出陣しました。
杉隆泰の居城である
鞍掛山城の背後から早朝、奇襲を仕掛けました。
不意を突かれた鞍掛方は混乱の最中に壊滅し、
杉隆泰も毛利氏に降った
瀬田城主小方元康の手で討ち取られ、
鞍掛山城は落城しました。

蓮華山城(向左)と鞍掛山城(向右)

その後、玖珂は完全に
椙杜氏の領するところとなりました。
蓮華山城はこの後も
玖珂の中心として栄えましたが、
後に廃城となりました。
廃城年は不明です。
一説には志道椙杜(志道)元縁が
長門且山(長門勝山)城
(ながとかつやまじょう)の
城主を命じられた
天正16年(1588年)とされています。




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【蓮華山城について】
標高576mの蓮華山の山頂に
築城されており、頂上部に本丸がありました。
遺構としては、堀切や郭跡があります。
比高は480mでとても堅固です。
別名は蓮華大将陣、六角山とも称します。

【所在地】
〒742-0344 山口県岩国市玖珂町

【登城ルート】
登城ルートは、
比叡神社の鳥居から入っていく、
市が迫ルートと、
谷津上公会堂から進んで
二鹿から登る
「相谷ルート」などがあるとのことです。
登山道はあまり整備されていないようです。
荒れている箇所もあるとのことなので、
迷う恐れもあります。
往復3時間以上との情報もあり、
登城の際には
「地図」
「ストック」など
軽登山以上の装備がよろしいかと思います。

【椙杜氏】

椙杜氏(すぎもりし、すぎもりうじ)は、
日本の氏族です。
周防国を本拠とする
椙杜氏が著名です。
古文書では「すぎ」の字を「椙」「杉」、
「もり」の字を「杜」「森」として
表記しており、「椙杜」以外に、
「杉森」など、
両方の字を自在に
使っていたことが分かっています。

【椙杜氏の発祥】
椙杜氏は大江広元同様に朝臣でした。
鎌倉幕府に仕えて
問注所初代執事となった
三善康信を祖とします。
鎌倉時代中期、三好康信の子である
三善康連は備後国世羅郡太田庄を領して
太田氏を称しました。
従って三善康連は
三善氏系太田氏の祖となります。
建武の新政の後、
太田時直は足利尊氏に従って活動し、
祖父の太田貞連から
周防国玖珂郡椙杜郷の
地頭職を譲られました。

【南北朝時代】
太田時直の孫である太田正康は
南北朝時代に南朝勢力の強い
九州を平定すべく、
筑後国に所領を得て、西国に下り、
その後椙杜郷に移り、
椙杜を名字として、
大内氏の被官となったとのことです。
太田正康改め
椙杜正康の子である椙杜弘康は、
応仁元年(1467年)の
応仁の乱では大内政弘に従って
上洛しています。

【大寧寺の変】
椙杜弘康は養子に椙杜房康を迎え、
その子である椙杜隆康の時
天文20年(1551年)、
大内義隆が家臣の陶隆房の謀反により
殺害されるという事態が発生しました。

【毛利氏に帰順】
その後も大内氏に仕えましたが、
弘治2年(1556年)より始まる
毛利元就の防長経略の際、
毛利氏に帰順しました。
そして居城の蓮華山城に隣接する、
杉隆泰の鞍掛山城を毛利軍と攻撃し、
杉隆泰を討ち取ったのでした。




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【毛利氏の家臣へ】
椙杜隆康には子がありませんでした。
そこで毛利元就の五男である
毛利元秋を養子としましたが、
毛利元秋は月山富田城の城主となり、
養子縁組は解消されました。
代わりに毛利元秋の弟である
毛利元康(末次元康)を養子としましたが、
またもや天正13年(1585年)、
毛利元康は毛利元秋死後の月山富田城に入り、
養子縁組は再び解消されたのでした。
そして再び椙杜隆康は
毛利氏庶家である志道氏の
志道元保の次男となる
志道元縁を養子に迎えたのでした。

千畳平から月山を見る 月山富田城

【長府藩の筆頭家老へ】
椙杜元縁は長門国勝山城の在番に
任ぜられたましたが、
慶長5年(1600年)の
関ヶ原の戦いの後、
長府藩を興した
毛利秀元の家臣となり、
筆頭家老となったのでした。

【江戸時代の椙杜氏】
椙杜元縁の死後、
杉杜元周、杉杜広中、杉杜広品、椙杜元世と続き、
長府藩家老として
権力の中枢にありました。
けれども宝永7年(1710年)の
浮石義民事件によって処罰され、
減封されてしまいました。
その後正徳3年(1713年)には、
筆頭家老の座を細川宮内に譲ったのでした。

【長府藩の家名断絶危機】
享保3年(1718)に
長府藩5代藩主である
毛利元矩が死去しました。
15歳での夭折だったため、
長府藩は家名断絶となり、
領地は萩藩に還付することが
検討される一大事となったのでした。

【長府藩の存続】
毛利本家は清末藩主であった
毛利元平に家督を継がせ、
長府藩の存続を幕府に願い出て、
許されました。
毛利元平は毛利匡広と名乗り、
長府藩の6代藩主となったのでした。

【清末藩出身者VS長府藩】
そのため清末藩出身者が
長府藩でも幅をきかせるようになり、
藩内では対立が激化したとのことです。
享保5年(1720年)春、
ついに椙杜元岑(元世より改名)と、
同じく家老の時田元遠は、
藩主となった毛利匡広に願い出て、
家禄を返上して長府を去ったのでした。

【備後国に移住】
椙杜元岑は妻の実家である
豊前国宇佐郡に移り住み、
その後は分家のある
長門国深川に住んだとのことです。
ここに嫡男の椙杜元位を置いて、
備後国三原に移り住み、
名を三原正白と変えたとのことです。

【椙杜氏の本流の断絶】
享保7年(1722年)、
備中国笠岡の智光寺に身を寄せ、
享保12年(1727年)に他界しました。
嫡子の椙杜元位も
享保15年(1730年)に他界し、
ここに椙杜氏の本流は断絶となったのでした。

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