【安楽寺(吉見観音)】
安楽寺(あんらくじ)は、
埼玉県比企郡吉見町にある
真言宗智山派の寺院です。
山号は岩殿山で院号は光明院です。
本尊は聖観世音菩薩で、
坂東三十三箇所11番札所、
関東八十八箇所75番札所、
東国花の寺百ヶ寺埼玉5番です。
吉見観音とも称されています。
また、第9番慈光寺、第10番正法寺とともに
比企三山とも言われています。
【寺の歴史】
岩殿山安楽寺は坂東11番の札所で
古くから吉見観音の名で親しまれてきました。
本尊は聖観世音菩薩です。
吉見観音縁起によりますと、
今から約1200年前に行基菩薩が
この地に観世音菩薩の像を彫って
岩窟に納めたことが
始まりとされているとのことです。
平安時代の末期には、源頼朝の弟である
源範頼がその幼少期に
身を隠していたと伝えられています。
安楽寺の東約500メートルには
「伝範頼館跡」と呼ばれている場所があり、
現在は息障院があります。
この息障院と安楽寺は、
かつては一つの大寺院を
形成していました。
天文6年(1537年)、
小田原北条氏が松山城を攻めた際に、
その戦乱によって全ての伽藍が消失し、
江戸時代に本堂・三重塔・仁王門が
現在の位置に再建されたと伝えられています。
毎年6月18日は
「厄除け朝観音御開帳」が行われており、
この日は古くから「厄除け団子」が売られています。
現在でも、6月18日は安楽寺の長い参道に
出店が立ち並び、深夜2時ごろから
早朝にかけて大変な賑わいとなるとのことです。
奥州征伐のとき、この地に立寄った
坂上田村麻呂によって領内の総鎮守となり、
その後、源平の合戦で名高い源範頼が
吉見庄を領するに及び、
本堂・三重塔を建立したとのことです。
戦国時代に入って
小田原北条氏との戦いですべて消失しました。
現在の本堂は今から約350年前の
寛文元年、秀慶法印によって
再建されたものです。
その様式は禅宗様に和様を交えた
典型的な五間堂の平面を持つ密教本堂です。
内部各部材に施された
華麗な色彩文様と共に
江戸時代前期の様式を
保持しているとされています。
屋根は元々は柿葺でしたが、
大正12年の改修の際に
銅瓦棒葺に改められました。
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現存する三重塔は今から
約380年前の寛永年間に
杲鏡法印によって建築されたものです。
本堂・三重塔・仁王門・大仏等の中では
最も古い建造物となります。
総高約24.3メートルの三重塔で
基壇は設けられず、
心柱は初重天井上の梁で
支えられているとのことです。
屋根は柿葺でしたが、
現在は銅板葺に改められています。
初重の面積は高さに比較して非常に大きく、
また各重の面積の縮減も程よく、
これに加え軒の出が
非常に深いので
塔全体にどっしりとした
安定感を感じさせるとのことです。
【安楽寺仁王門】
<埼玉県指定文化財>
本建造物は、境内の入口に南面して立つ
三間一戸の八脚門です。
規模は、表三間のうち
両側の仁王像安置の間が
約2.38メートルあり、
中央は約2.94メートルです。
側面は二間とも約2.38メートルです。
正面両端間には金剛棚を廻めぐらし
内部に「阿」「吽」の
密迹金剛力士二体が安置されています。
屋根は元々は瓦葺でしたが、
現在は銅板葺に改められています。
【仁王像】
<吉見町指定文化財>
仁王像の造立は息障院文書から
元禄15年(1702年)と考えられています。
平成8年~平成10年にかけて実施された
解体修理では、元禄年間の
造立時の寄進者を列記した
幅六寸、長五尺二寸の板が
胎内から11枚発見されたとのことです。
【交通アクセス】
東武東上本線 「東松山駅」よりタクシー10分程度
関越自動車道 「東松山」ICから
北東へ約8km・20分程度
【駐車場】
100台程度
【所在地】
埼玉県比企郡吉見町御所374
【トイレ】
男女一緒ですがあります。
源範頼~ひそやかに育てられ、兄の源頼朝のために尽力するも嵌められて消えてゆく
比企尼~源頼朝の乳母~ずっと支え続けた偉大なゴッドマザーで鎌倉幕府創立の陰の功労者。
比企掃部允~比企尼の夫、ナゾ多き人物で居住していた三門館跡にもナゾがあります。
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