【箱根・竹ノ下の戦い】
箱根・竹ノ下の戦い
(はこねたけのしたのたたかい)は、
建武の新政時代の1336年1月24日
(建武2年12月11日)に、
足利尊氏の呼びかけに応じた足利軍と、
後醍醐天皇の宣旨を受けた新田義貞に、
参集した軍勢との間で行われた合戦です。
後醍醐天皇が建武政権に
反旗を翻した足利尊氏を討つために
新田義貞を派遣しましたが失敗。
建武政権崩壊の第一幕となったのでした。
現在の静岡県小山町竹之下周辺で行なわれました。
【きっかけ】
1333年(元弘3年/正慶2年)、
鎌倉幕府を打倒して成立した
建武政権でしたが、
現実から乖離した政策の数々に
武士は不満を募らせたのでした。
1335年(建武2年)、
発覚した西園寺公宗と北条泰家の陰謀は
失敗に終わりましたが、
これをきっかけに全国の旧北条氏所領で
北条残党の蜂起が相次いだのでした。
特に7月信濃で諏訪氏の支援のもと
蜂起した北条高時の遺児である
北条時行は、
各地の反建武政権勢力を吸収し、
足利直義を追い出し、
鎌倉を占領する勢いを見せたのでした。
【中先代の乱】
中先代の乱(なかせんだいのらん)と読みます。
これに対し、足利尊氏は
北条時行を討つために自分を派遣するように
後醍醐天皇に再三要請しましたが、
足利尊氏が自立することを怖れた
後醍醐天皇はそれを許可しませんでした。
けれども足利尊氏は無断で関東に出兵。
後醍醐天皇は追認で
足利尊氏を征東将軍に任じました。
結局、北条時行の反乱は鎮圧されたのでした。
中先代の乱を鎮めた足利尊氏は
其の後も鎌倉を占拠し続けました。
足利尊氏の自立を恐れた後醍醐天皇は
新田義貞に足利尊氏の追討の宣旨を下します。
11月、新田義貞は尊良親王を奉じ、
軍を率い東海道を下りました。
足利尊氏追討軍には
多数の公家も参加しています。
朝敵となることを恥じた足利尊氏が
出家するなど
足利側の士気が上がらなかったため、
足利尊氏軍は足利直義が中心となって
作戦行動に出ます。
新田義貞は三河矢作川、遠江の鷺坂、
駿河の手越河原の戦いで迎撃に出た
足利直義軍を次々と打ち破りました。
新田義貞軍は投降してきた軍勢を吸収し、
伊豆国府(三島)を占領し、
鎌倉へ着々と軍を進めました。
新田義貞が箱根に迫ったとの報に接し、
一時出家していた足利尊氏が
足利直義の説得に応じ、戦線に復帰しました。
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京側は 新田義貞が三島で軍を集結させると
軍を二方面に分け、
自らは搦め手軍の大友・菊池など
7万騎を率いて箱根峠に進み、
大手軍は実弟の脇屋義助を副将軍に
竹ノ下へ中務卿親王(尊良)、
諸庭の輩、北面の輩(500余騎)ら
7千騎が向かい足柄峠へ進軍させたのでした。
足利尊氏軍は足利直義が箱根に布陣。
足利尊氏は竹ノ下前面の足柄峠に布陣。
京側は箱根には新田義貞・大友・菊池など
7万騎が向かったのでした。
12月11日両軍は激突。
箱根方面では新田義貞軍が
足利直義軍を押し気味に戦局が展開。
足利尊氏と新田義助の主戦場は
足柄峠のすぐ西にある竹ノ下となりました。
足利尊氏の参陣で志気が上がる
足利尊氏軍が押し気味に戦局が展開し、
さらに翌日になって大友貞載と塩冶高貞が
足利尊氏軍に寝返ったため、
新田義助軍は総崩れとなり敗走。
その報を受けた新田義貞は、
箱根口の戦いでは大勝しながらも、
退路を断たれるおそれが出たため、
軍を撤退させました。
この情勢を見て手越河原の戦いで
投降し新田義貞軍に加わっていた
佐々木道誉も足利尊氏軍に寝返り、
新田義貞軍も総崩れとなりました。
この時に尊良親王の近侍であった
中将二条為冬が戦死。
13日には伊豆国府を足利尊氏軍が奪回し、
新田義貞軍は東海道を総崩れで敗走しました。
交戦勢力
新田軍(京方)VS足利軍
新田義貞・脇屋義助
VS
足利尊氏・足利直義
【所在地】
〒410-1313 静岡県駿東郡小山町竹之下227
※碑がある場所です。
【停車スペース】
碑がある付近の路肩に停車できます。
停車は短時間でお願いします。
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