【藤原義懐】
藤原 義懐(ふじわら の よしちか)は、
平安時代中期の公卿。
藤原北家九条流、
摂政太政大臣・藤原伊尹の五男です。
官位は従二位・権中納言。
花山天皇の治世に
その外叔父として権勢を奮いましたが、
天皇の出家・退位に従い出家し、
政界を引退しました。
【生誕】
天徳元年(957年)
【死没】
寛弘5年7月17日(1008年8月20日)
【改名】
義懐⇒悟真(法名)⇒寂真
【官位】
従二位、権中納言
【主君】
円融天皇
【氏族】
藤原北家九条流
【父】
藤原伊尹
【母】
惠子女王(代明親王の娘)
【兄弟】
親賢、惟賢、懐子、挙賢、義孝、光昭、義懐、
周挙、行源、藤原為光室、
大納言君、藤原忠君室、
藤原隆家室、藤原為光妾、
為尊親王妃
【妻】
正室:藤原為光の長女
藤原為雅の娘、
日向守命茂の娘
【子】
尋円、延円、成房、伊成、
尋増、信懐、教忠、女子
【生涯について】
天禄3年(972年)16歳の時に
従五位下に叙せらますが、
同年に父である藤原伊尹が急死。
その2年後の天延2年(974年)には
二人の兄(挙賢・義孝)が
同日に病死するという災難に見舞われ、
若年時は不遇の時代を過ごしました。
ただ、同母姉の冷泉天皇女御懐子が
生んだ皇太子師貞親王がおり、
その数少ない外戚として、
天元2年(979年)には
春宮亮に任ぜられました。
永観2年(984年)、
正月従四位上に叙せられました。
同年8月に師貞親王が
花山天皇として即位すると、
蔵人頭に抜擢され、
その年のうちに正三位に
昇叙しました。
翌年の寛和元年(985年)には
従二位・権中納言に急速に昇進しました。
権中納言の官職自体はそれほど高官ではなく、
直ちに摂政関白に就任可能な
官職ではないのですが、かつては叔父の
兼通が天皇の伯父の資格で
権中納言から一気に
内覧内大臣に昇進して
そのまま関白に就任した例もあり、
藤原義懐もまた次の大臣・摂関の
有力候補の一人となったのでした。
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【三つ巴の対立】
けれども、天皇と藤原義懐、
そして父の代からの側近で
天皇の乳兄弟でもある
藤原惟成が中心となって推進した
荘園整理令といった新制の発布、
貨幣流通の活性化など、
革新的な政策は
関白の藤原頼忠らとの
確執を招いてしまいます。
さらに皇太子懐仁親王の
外祖父である
右大臣藤原兼家も
花山天皇の早期退位を願って、
天皇や義懐と対決の姿勢を示しました。
そのため、宮中は義懐・頼忠・兼家の
三つ巴の対立の様相を呈して
政治そのものが
停滞するようになっていったのでした。
【藤原忯子の死】
さらに混乱に拍車を掛けたのが
花山天皇の女性問題でした。
藤原為光の娘である藤原忯子に
心動かされた花山天皇は、
藤原忯子を女御にする事を望みました。
また藤原義懐の正室は
藤原忯子の実の姉でした。
花山天皇は直ちに藤原義懐に
義父である藤原為光の説得を命じました。
娘婿の必死の懇願に藤原為光も
藤原忯子の入内を決めました。
けれども、花山天皇の寵愛のし過ぎが
藤原忯子に無理を強いてしまい、
結果的には病死させる事と
なってしまいました。
【天皇は出家したい】
これにショックを受けた
花山天皇は出家して
藤原忯子の供養をしたいと
言い始めました。
藤原義懐は天皇の生来の気質から、
出家願望が一時的なものであると見抜き、
藤原惟成や更に
関白頼忠も加わって
花山天皇に翻意を促しました。
【寛和の変】
しかし、寛和2年(986年)6月23日、
花山天皇は深夜藤原道兼に促されて
宮中を後にしました。
その後三種の神器が
兄の道隆や異母弟道綱らの手により
皇太子の許に運ばれました。
全て道兼兄弟の父親である
藤原兼家の策略だったと
伝えられています。
【花山天皇、出家してしまう】
藤原義懐が花山天皇の「失踪」を
知ったのはその後のことでした。
義懐と惟成は必死に花山天皇の
居所の捜索にあたりました。
しかし、時はすでに遅しで、
藤原義懐が元慶寺(花山寺)にて
花山天皇を発見した時には
花山天皇は既に出家を済ませていたのでした。
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【敗北を受け入れ出家】
自分達の政治的敗北を悟った藤原義懐は
惟成と共にその場で出家したのでした。
なお、「枕草子」の「小白河といふ所は」
の段には小白河第で6月18日から
21日に行われた法華八講に出席していた
出家する数日前の藤原義懐の事が
書かれているとのことです。
【その後の人生】
法名は悟真、受戒後は寂真。
僧侶となった藤原義懐は
比叡山の飯室に籠ったとのことです。
出家後、僅か数年で
複数の女性に手を出したと
言われる花山法皇とは対照的に、
藤原道長ら旧知の人達との交流は
残しながらも、その残り人生の
ほとんどを仏門の修行に費やしたとのことです。
その死を聞いた人々は
「義懐は極楽往生を遂げたに違いない」
と語り合ったと言われているとのことです。
【息子たちも出家】
なお、二人の息子である尋円・延円も
父である藤原義懐と共に出家し、
続いて成房も長保4年(1002年)、
伊成も寛弘6年(1009年)に出家と、
藤原義懐の息子は若くして
多くが出家の道をたどったということです。
2024年NHK大河ドラマ
「光る君へ」では
高橋光臣(たかはし みつおみ)さんが
演じられます。
円融天皇~政治に関与し兼家と疎隔・対立するも、藤原詮子との間に後の一条天皇が誕生します。
花山天皇~藤原氏の策略で19歳で出家、独創的な発想の持ち主で好色、観音巡礼が後に「西国三十三所巡礼」として継承。
藤原忯子(弘徽殿の女御)~花山天皇の寵愛を受けた女御、懐妊するも夭逝し寛和の変の引き金となる。
藤原兼家~熾烈な権力闘争に勝ち、のちの藤原氏最盛期を築いた人物です。
藤原頼忠~従兄弟の兼通とは親しく兼家とはライバル、天皇の外戚になれず失意のうちに世を去る。
藤原詮子~藤原道長の姉、国母となりやがて日本最初の女院となって、権力を握り政治に介入する。
藤原道隆~藤原道長の長兄、容姿端正、明朗で豪快、気配り上手な優れた跡継ぎでしたが病で急逝します。
藤原道兼~父は藤原兼家、兄は藤原道隆、弟は藤原道長、待望の関白に就くも数日でこの世を去る。
藤原道長~初めは目立たずも後に政権を掌握、「一家立三后」をなし「この世をば わが世とぞ思ふ」と詠む。
藤原伊周~藤原道隆の嫡男、急速に出世するも叔父・道長との政争に敗れ失意のうち世を去る。
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