【阿伎留野城】
天竺山が城跡ですが三内神社の
参拝路となっていて
道は整備されています。
ただし最後の階段は崩れている所もあります。
迂回路もあり、背後より主郭に行くこともできます。
【歴史・築城】
阿伎留城は三内氏の居城です。
鎌倉時代に三宮孫四郎綱遠が築き、
江戸時代に名主を務めた子孫の
源左衛門昌国のときに
三内氏を名乗り地名も同様に
改めたということです。
三内神社は
延暦24年(805年)の創建と伝わり、
当初は三ノ宮大明神という
名称でしたが、
地名とともに神社の名称も
改められたとのことです。
【三宮氏(三内氏)】
三宮氏は純粋な武士ではなく
三内神社の神人を兼ねた土豪でした。
天正18年(1590年)の北条氏滅亡のときに
三宮中務大輔国政は
八王子城の加勢に加わり討死したということです。
多摩丘陵の古城址では
武州南一揆に参加した
小宮氏の居城ではないかと
推測されてもいますが、
大悲願寺に梵鐘を奉納している
事実からもこの付近の有力者
であったことは確かな模様です。
しかも小宮氏は戸倉城という
堅固な居城を擁していることから、
阿伎留城はやはり
三宮氏の居城ではないかと
見られているそうです。
【最寄り駅】
JR東日本五日市線終点の「武蔵五日市」駅。
三内神社が鎮座する天竺山は、
駅舎前から東側に見え、
徒歩で行けるとのことです。
山麓には拝殿があり、
標高310mの山頂には本殿があります。
五日市町郷土館発行
「郷土あれこれ」の
「五日市の城
(執筆は中世城郭研究家、中田正光氏)」に
「阿伎留城は南一揆(武州南一揆)
が築いたと推定できる」と記載があるとのこと。
スポンサーリンク
【南一揆について】
南一揆は、
秋川から南多摩にかけての
武装集団です。
他には、群馬の上州一揆、
千葉の上総本一揆、
埼玉県川越周辺の
北一揆が知られています。
【南一揆誕生の背景】
南北朝以来の戦乱で
農民らは田畑を荒らされ、
重税、労役(兵役)に苦しんでいました。
武蔵は関東管領上杉氏が
支配していましたが
内部抗争に明け暮れており、
これらの戦乱で、
常に農民達が犠牲になっていました。
平時は農業に従事した
地侍と呼ばれた武士層の者達が、
やがては農民を率い領主に
対抗するようになりました。
周辺の村々と連帯し、
大きな一揆へと成長していきました。
【南一揆の統率者】
平山氏、小宮氏、梶原氏が知られています。
五日市在住の武士は、
貴志氏(来住野氏)、高尾氏、
網野氏、私市氏、青木氏、
浜中氏、戸倉氏、土士田氏、
小机氏、三内氏、宮本氏、萩原氏らです。
【現状】
三内神社奥ノ院
【遺構】
郭・土塁
【所在地】
〒190-0162 東京都あきる野市三内
八王子城~日本100名城で日本遺産となった関東屈指の山城、城主は北条氏照でした。
北条氏照~北条氏政の同母弟、文武両道で外交手腕に長けており、兄を補佐し盛衰を共にしました。
武蔵・戸倉城~築城は小宮氏で後に八王子城の支城として大石定久の隠居地の一つと伝わります。
檜原城~鎌倉武士の花形の末裔で武蔵七党・西党の一族の平山氏が築城、豊臣方には徹底抗戦しました。
幸神屋敷~平山左衛門尉綱景の屋敷とも土豪の幸神氏の屋敷跡とも伝わります。
この記事へのコメントはありません。