【北条幻庵(北条長綱)】
北条 幻庵(ほうじょう げんあん)
正式な名称は、
北条 長綱(ほうじょう ながつな)、
またの名を「幻庵宗哲」といいます。
戦国時代の武将。
伊勢盛時(北条早雲)と
駿河の有力豪族であった
葛山氏の娘との間に生まれた四男です。
箱根権現社別当及び金剛王院院主。
【生涯】
【初代・伊勢盛時(北条早雲)の時代】
伊勢盛時(北条早雲)の
男子の中では末子となります。
幼い頃に僧籍に入り、
箱根権現社の別当寺金剛王院に入寺しました。
箱根権現は関東の守護神として
東国武士に畏敬されており、
関東支配を狙う伊勢盛時(北条早雲)が
子息を送って箱根権現を抑える狙いが
あったと見られています。
永正16年(1519年)4月28日、
父から4400貫の所領を与えられています。
なお、この頃の名乗りは菊寿丸でした。
【二代・北条氏綱と三代・北条氏康の時代】
大永3年(1523年)に、
兄である伊勢(北条)氏綱が、
父である伊勢盛時(北条早雲)の遺志を継いで
箱根権現を再造営しています。
この時の棟札には39世別当の海実と
並んで菊寿丸の名が見えるとのことです。
大永2年(1521年)から、
近江にある三井寺に入寺し、
大永4年(1524年)に出家しました。
この出家した年かその翌年に、
箱根権現の40世別当になったと思われ、
天文7年(1538年)頃まで在職しました。
別当になった際に長綱と名乗り、
天文5年(1536年)頃から
宗哲と名乗ったとのことです。
なお、宗哲の名とは、大徳寺系の法名であり、
大徳寺系は宗・紹・妙・義の中から
一字取ることを古格慣習としていたとのことです。
天文11年(1542年)5月、
玉縄城主である北条為昌の死去により、
(北条幻庵の甥で北条氏綱の三男)
三浦衆と小机衆を指揮下に置くようになりました。
天文12年(1543年)、
「静意」の印文が刻まれた
印判状を使用し始めたとのことです。
これは北条幻庵が自らの支配地強化に
乗り出したものと思われ、
その本拠地である久野(現在の小田原市)
の地名を取って「久野御印判」と呼ばれています。
永禄2年(1559年)2月作成の
「北条家所領役帳」によれば、
家中で最大の5457貫86文の所領を領有しました。
これは次に多い松田憲秀(2798貫110文)
のほぼ倍で、直臣約390名の
所領高合計64250貫文の
1割弱を一人で領有したことになります。
【一族の長老としての力】
このように政治家か
僧侶としての活躍が目立ちますが、
馬術や弓術にも優れ、
天文4年(1535年)8月の
武田信虎との甲斐山中合戦、
同年10月の扇谷上杉朝興との
武蔵入間川合戦、
天文15年(1546年)の
河越城の戦いなどでは
一軍を率いて合戦に参加しております。
また永禄4年(1561年)3月の
曽我山(小田原市)における上杉謙信との合戦で
戦功のあった大藤式部丞を賞するように
北条氏康及び北条氏政らに進言しています。
以上の様に、
一門の長老として宗家の当主や
家臣団に対し隠然たる力を保有していたのでした。
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【小机城の人事】
永禄3年(1560年)、
長男の三郎が夭折したため、
(小机衆を束ねた北条時長と同一人物説あり)
次男の北条綱重(北条氏信)に家督を譲りました。
また北条氏康の弟である
北条氏尭を小机城主としました。
しかし程なく北条氏尭が没してしまいます。
【息子たちを失う】
其の後、今度は永禄12年(1569年)に
武田信玄との駿河(静岡県)の
蒲原城の戦いにおいて
次男の北条綱重、
3男の北条長順らを
相次いで失ってしまいます。
同年に北条氏康の7男である
北条三郎(後の上杉景虎)を
養子に迎えて家督と小机城を譲り、
隠居して幻庵宗哲と号したのでした。
【家督は孫に継がせる】
永禄12年(1569年)、
越相同盟の成立により、
北条三郎(景虎)が越後の
上杉謙信の養子となった後は、
大甥である北条氏光に
小机城を継がせ、
家督は北条氏信(綱重)の子で
孫である北条氏隆に継がせました。
【最期と年齢に関して】
天正17年(1589年)11月1日に死去。
享年は97歳とされています。
北条幻庵の死から9ヵ月後の
天正18年(1590年)7月、
小田原北条氏は豊臣秀吉に攻められて敗北。
戦国大名としての小田原北条家は滅亡しました。
【生まれはいつ?】
ただし、この年齢はあくまでも
「北条五代記」の記述によるものです。
現在の研究では一級史料や手紙などの
古文書などと多くの矛盾が見られることから、
その信頼性に疑問が持たれております。
幻庵の生年を永正年間
と推定している研究者もいます。
その根拠として、
大永3年(1522年)、
兄である北条氏綱が
箱根権現に棟札を納めた際、
北条幻庵の名が菊寿丸と記されており、
この時点で北条幻庵は
当時の成人と見られる15歳未満だった
可能性が極めて高い、
ということからだそうです。
これが事実とすれば
享年は15年以上若くなります。
一説に文亀元年(1501年)
生まれという説があります。
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【没年はいつ?】
また、没年に関しても
現在では疑問視されており、
天正12年(1584年)、
天正13年(1585年)
などの説があるそうです。
【北条幻庵の人となり】
【多彩な文化人】
作法伝奏を業とした
伊勢家の後継者として
文化の知識も多彩で、
和歌・連歌・茶道・庭園・一節切りなどに
通じた教養ある人物でした。
なお、茶道は山上宗二から学んでいます。
【器用な手先で鞍鐙・尺八を製作】
手先も器用であり、
鞍鐙作りの名人としても知られ、
「鞍打幻庵」とも呼ばれていました。
他にも一節切り尺八も自ら製作し、
その作り方は独特で、
幻庵切りと呼ばれていました。
伝説によれば、
伊豆の修善寺近郊にある
瀧源寺でよく一節切りを吹き、
滝落としの曲を
作曲したとも云われています。
文化人としての北条幻庵の事跡は数多いです。
【和歌への深い造詣】
天文3年(1534年)12月18日に
冷泉為和を招いて歌会を催し、
天文5年(1536年)8月には
藤原定家の歌集「藤川百書」の相伝者である
高井堯慶の所説に注釈書を著し、
天正8年(1580年)閏8月には
板部岡江雪斎に古今伝授についての
証文を与えています。
このように和歌への造詣の深さは
当代一流でありました。
【連歌にも長けています】
また連歌にも長けており、
連歌師の宗牧とは
近江時代から交流を持ち、
天文14年(1545年)2月に
小田原で宗牧と連歌会を催したとのことです。
古典籍の蔵書家でもあり、
藤原定家の歌集や「太平記」
を所蔵していました。
狩野派の絵師とも交流がありました。
【行儀作法の心得や庭園】
北条氏康の娘(吉良氏朝に嫁いだ)が
嫁ぐ際に「幻庵おほへ書」という
礼儀作法の心得を記した書を記しており、
北条幻庵が有職故実や
古典的教養に通じていた事は明らかです。
北条5代の菩提寺である
早雲寺の庭園も造りました。
【小田原北条五代に仕える】
記録の残っている家臣では唯一、
初代の伊勢盛時(北条早雲)から
5代目の北条氏直まで、
小田原北条氏の全ての
当主に仕えた人物です。
また、庶民とも気安く接する
度量があったということです。
【「北条五代記」による幻庵の評価】
「北条五代記」は北条幻庵について
「早雲寺氏茂、春松院氏綱、大聖寺氏康、
慈雲院氏政、松巌院氏直まで五代に仕え、
武略をもて君をたすけ、
仁義を施して天意に達し、
終焉の刻には、手に印を結び、
口に嬬をとなへて、即身成仏の瑞相を現ず。
権化の再来なりとぞ、人沙汰し侍る」
と評しているとのことです。
【北条幻庵屋敷跡】
【所在地】
〒250-0055 神奈川県小田原市久野1590
土塁や築山の跡があります。
【交通アクセス】
【バス】
「小田原」駅より久野方面行バス一五分
「公民館前バス停下車
※駐車場はありませんが
停車スペースなら1台程度あります。
目印は「久野保育園」となります。
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