【河崎氏館】
桓武平氏秩父(ちちぶ)氏の一族であり、
武蔵(むさし)河崎荘(神奈川県)を領した
河崎基家がこの地に館を構えていました。
通称は小机六郎といいました。。
現在の稲毛神社周辺が河崎氏館であったと推定されています。
そして河崎基家が山王権現をこの地に勧請し、
以後「河崎山王社」「堀の内河崎権現」とされ、
更に「五社山王」「三社宮」と改称されて、
明治時代に入り神仏分離令によって
「稲毛神社」となりました。
稲毛神社の境内にある弁天池は、
河崎氏館の周囲に巡らされた
堀の跡であると伝わっているそうです。
河崎冠者基家とその子である河崎重家の
親子二代にわたってこの地に住んだとされています。
【所在地】
〒210-0004 神奈川県川崎市川崎区宮本町7−7
【駐車場】
なし。
近所のコインパーキングを利用してください。
【交通アクセス】
JR・京急「川崎」駅から徒歩8分程度
【その後の河崎氏】
河崎重家の子共である渋谷重国の代になった応保年間、
武蔵国豊嶋郡谷盛(東京都渋谷区・港区)から
相模国高座郡渋谷荘(神奈川県綾瀬市・藤沢市・大和市)
までを領して渋谷荘司と称したとのことです。
そして渋谷重国は渋谷氏の祖となりました。
其の後家督は次男の渋谷高重が継いだそうです。
長男の渋谷光重は渋谷上庄・美作河合郷などを相伝。
1247年の宝治合戦の恩賞として
薩摩国の高城郡・東郷別府・入来院・祁答院・鶴田を下賜され、
渋谷光重は長男の渋谷重直を相模国の渋谷荘に留め、
他の5人の男子に薩摩の各領地を与え、
それぞれ東郷氏 (薩摩国)、
祁答院氏、薩摩鶴田氏、入来院氏、高城氏(薩摩国)となりました。
【その後の河崎館】
河崎基家の孫である渋谷重国は
現在の神奈川県綾瀬市にある
早川城に住んでいたとされますが
定かではないそうです。
平治の乱では源義朝の陣に従ったとされています。
源義朝が敗れたのち、
所領を失って陸奥国へ逃れようとした
近江源氏の嫡流である佐々木秀義と
その子らを渋谷荘に引き留めて援助し、
佐々木秀義を婿に迎えたとのことです。
そしてそれから約20年もの間、
佐々木氏秀義は
渋谷氏の世話を受けたとされています。
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治承4年(1180年)8月の
源頼朝挙兵では佐々木秀義の息子たちは
源頼朝に従い、
渋谷重国は源頼朝から加勢を打診されます。
けれども平氏に対する旧恩から
石橋山の戦いで
平家方の大庭景親の軍に属したのでした。
石橋山の戦いで源頼朝が敗れると、
8月26日、大庭景親が渋谷重国のもとを訪れ、
源頼朝に従った佐々木兄弟の妻子を
捕らえるよう要請するのでした。
けれども渋谷重国は拒否。
大庭景親はやむなくそのまま戻っています。
夜になって佐々木兄弟は途中で行き会った
阿野全成を伴って渋谷重国の館へ帰着しました。
渋谷重国は喜んで彼らを匿ってもてなしたということです。
その後、源頼朝に臣従して
所領を安堵され、
子の渋谷高重と共に御家人となったのでした。
しかし、渋谷高重は
建保元年(1213年)5月、
横山時広の娘婿であった事から、
和田合戦で和田方に付いて討ち死にしました。
【佐々木氏が河崎館に入る?】
鎌倉幕府が成立した後、
佐々木氏は渋谷氏の世話の元、
河崎荘を領地として河崎館に入ったとされています。
【小田原北条氏の時代の河崎館】
【間宮氏】
時は流れて・・・
この時代になりますと、
佐々木氏の一党である間宮氏が
河崎館(川崎城)にいたそうです。
間宮氏の発祥は佐々木氏の一党なので、
元は近江でしたが、
南北朝の時代に近江から伊豆に入り、
その伊豆で間宮氏を名乗り、
そして河崎の地へときたと言われています。
その子孫であった間宮信盛がこの河崎館にいて、
北条早雲が相模東部に進出すると
一早く家臣となったそうです。
最もこの時代は
「間宮館」に住んでいたとされており、
その間宮館は
京急川崎駅から徒歩3分にある
宗三寺と言われています。
宗三寺から現在の稲毛神社一帯が
館の敷地であったのかもしれません。
権現山城~京急「神奈川」駅より徒歩2分。青木城跡と併せて訪れたい街中の古戦場・城跡です。
その信盛の跡を継いだのは子の間宮信元でした。
更にその嫡男である間宮康俊が跡を継ぎました。
間宮康俊は玉縄衆で重臣となりました。
この間宮康俊も1532年から
北条氏綱がはじめた鶴岡八幡宮の造営工事に
天文5年(15366年)から奉行として参加しています。
間宮康俊の居館は笹下城(神奈川県横浜市港南区笹下)でした。
笹下は元々は佐々木城であったとのことです。
其の後、間宮一族は、
杉田間宮、笹下間宮・氷取間宮と分かれていきました。
豊臣秀吉の小田原征伐の時に
間宮康俊は中山城で討ち死にしました。
【間宮氏子孫】
◆間宮林蔵
樺太(サハリン)が島である事を確認し
間宮海峡を発見した人物
⇒小田原北条氏滅亡後に常陸国筑波郡に移り住んだ間宮氏の後裔
◆杉田玄白
⇒杉田間宮氏の後裔
「解体新書」を著した蘭学医。
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