【上浜田中世建築遺構群(浜田歴史公園)】
県指定の史跡となっており、
中世の在地武士の居館跡の遺跡として有名です。
現在、その居館跡が確認された周辺は
「浜田歴史公園」として整備保存されています。
発掘調査の結果、
中国や朝鮮からの舶来品となる陶磁器、
国産品の陶磁器などが出土しました。
そして年代測定の結果は、
鎌倉時代半ば~室町時代となり、
出土品の特徴から武家屋敷跡と推定される、
建物跡も見つかりました。
すなわち、武士の屋敷跡・城跡と言う事になります。
けれども一体誰の屋敷があったのか?など、
史料や伝承が全く無い状態です。
そのため、正式な史跡の名称としては、
上浜田中世建築遺構群、
浜田歴史公園として保存されています。
場所的には渋谷氏の早川城から約2km、
車で5~6分の距離にあるのが、
この上浜田中世建築遺構群です。
建物跡としては、少なくとも
8棟あったことが判明しており、
その配置から武家の特徴が出ているとのことです。
この場所は、かつての渋谷荘にあたり、
渋谷氏の菩提寺である長泉寺も近いので、
渋谷氏の屋敷だったと推測されますが、
海老名市教育委員会によりますと、
渋谷氏一族である
大谷氏の屋敷の可能性があると指摘しています。
【大谷重茂は鶴田氏の祖】
渋谷氏一族の大谷氏といえば、
渋谷重国の嫡男である渋谷太郎光重には、
舟木重直、早川実重、吉岡重保、
大谷重茂、曽司定心、落合重定
の子供たちがいますが
其の四男である
大谷重茂の屋敷であった可能性がある、
ということになります。
この大谷館主である大谷重茂は、
のちに薩摩に渡って鶴田氏の祖となります。
それ以外は何者か、よくわかっていません。
なお、鶴田重茂(鶴田重諸)
と表記する場合もあります。
最も鶴田氏の祖となる
大谷重茂(鶴田重諸)は
承久3年(1221)の承久の乱で
既に討ち死にしていたため、
薩摩国鶴田へ移住したのは
その2代目となる
鶴田重行であったそうです。
鶴田重行は
祁答院の佐志(現:さつま町宮之城地区)
へ館を築きましたが、
すぐさま鶴田城を築城し
そこを本拠としたとのことです。
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【薩摩での鶴田氏】
鶴田氏は他の渋谷一族と同様に、
守護の島津氏に従っていましたが、
やがて島津氏が総州家と奥州家とに
分かれて争うようになると、鶴田家も
否応なくこれに巻き込まれていくのでした。
4代目となる鶴田重成は
奥州家の島津元久につきましたが、
他の渋谷一族4家は総州家の
島津伊久についたのでした。
【嫡流の断絶】
応永8年(1401年)、
鶴田重成が他の4家に討ち負け、
本拠を追われて菱刈
(現:鹿児島県伊佐市菱刈)
へと去ったとのことです。
このため、鶴田氏は4代で
没落することとなったそうです。
【鶴田氏の子孫は現在も存続】
こうして嫡流は断絶となりましたが、
島津歳久が死んだ際に殉死した鶴田主税や、
北郷忠虎臣下の鶴田貞明などもおり、
鹿児島衆中、加治木衆中、
谷山衆中などにも庶流もしくは
別系統と思しき鶴田姓が見えており、
現在も鹿児島市には
子孫がいらっしゃるとのことです。
また庶流の湯田氏も島津氏の家臣として
存続したのでした。
【渋谷氏・早川城のその後】
なお、早川城は、その後、
小田原北条氏によって、
大きく改修されていますので、
現在は果たして本当に、
渋谷氏の本拠であったかは不明となっています。
渋谷氏の屋敷としては、長後の天満宮が、
渋谷氏長後居跡と推定されています。
また、縄文時代から平安時代にかけての
竪穴式住居跡や、古墳も近所にはあることから、
この辺り一帯は、
今では想像できないような
集落として栄えていたようです。
【所在地】
〒243-0412 神奈川県海老名市浜田町5−13
【交通アクセス】
海老名駅東口より相鉄バス
「浜田歴史公園」下車すぐ
【駐車場】
ありません
渋谷氏長後居跡~河崎基家が館を構え、その子である河崎重家、さらに孫である渋谷重国が居住しました。
河崎氏館について~渋谷氏の祖でありやがて近江源氏の佐々木氏を援助し間宮氏に続く
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