【お妻木】
御ツマキ(お妻木)は、
安土桃山時代に活躍したとされる女性です。
明智光秀の実妹もしくは義妹と伝わります。
御ツマキについては史料ごとに
姉となっていたり、
妹のなっていたりと表記のゆれがあります。
それらの記述が全て同一人物を指すのか
否かは詳細ははっきりとはしていません。
けれども、明智光秀もしくは
その正室である妻木煕子の近親者として、
織田信長に近い位置にあった女性が
天正年間に活動していたものと
推察されています。
また、この時代の女性の名称として、
嫁ぎ先でも、実家或いは出身地の
名称などで称されていました。
【「オツマキ」が登場する史料】
【1.「戒和上昔今禄」】
「戒和上昔今禄」、
天正4年(1576)6月28日の条に
「惟任妹ツマ木殿ヲ以テ被仰出」
とあります。
「戒和上昔今禄」は、
奈良の興福寺の僧が記した、
奈良の興福寺と東大寺との
間の争いに関する裁判の記録とのことです。
「惟任」は明智光秀のことを指しています。
「惟任日向守光秀」といいます。
この時、惟任の妹であるツマ木が
織田信長の使者として奈良へ出向き、
興福寺と東大寺の調停役を務めたこと
が書いてあるそうです。
お妻木の仲介によって話がまとまると、
兄である明智光秀が実務にあたっています。
これは織田信長の記録の中で、
唯一の女性使者の記録でもあるそうです。
【2・「言経卿記」】
「言経卿記」とは
公家の山科言経(やましなときつね)日記です。
天正7年(1579)5月2日の条に、
京都に来た織田信長の所へ、
山科言経が御機嫌伺いに行きました。
織田信長は、顔面に腫れ物が出来ていたため、
面会は出来ませんでした。
そこで女房衆であるツマキ等に
会って贈り物をしたとのことです。
「ツマキ」が
織田信長の女房衆であることが
確認出来る史料であるとのことです。
スポンサーリンク
【3.「兼見卿記」】
「兼見卿記」とは、
吉田神社の神主である吉田兼見の日記です。
天正7年9月25日条には、
「惟任姉妻木在京之間罷向、
双瓶・食籠持参、他行也、渡女房館皈」
と記されているのが確認できているそうです。
吉田兼見が、
明智光秀の姉である妻木を訪ねた時に、
双瓶 (一 対 の酒 徳利)、
食籠(食物を盛る器)を持参しましたが、
出かけて留守だったので、
女房館に預けて帰ったという内容とのことです。
なお、この日記では姉と記されていますが、
これは妹の書き間違いだと現在では推察されています。
【4.「多聞院日記」】
「多聞院日記」とは、
興福寺多聞院の僧の日記のことです。
天正9年(1581年)8月20日の条で、
「去七日八日ノ比欺、
惟任ノ妹ノ御ツマキ死了、信長一段ノキ
ヨシ也、向州無比類力落也」
と記されているそうです。
これを現代文に訳すると、
去る8月の7日か8日頃か、
光秀の妹「御ツマキ」が死去した。
信長は一段ノキヨシといい、
向州は
(明智光秀のこと、日向守を略して向州ともいう)
比べものにならないほど力を落としたといいます。
【「一段ノキヨシ」】
この「多聞院日記」のなかの記述にある
「一段ノキヨシ」の解釈をめぐって、
とある論議が成されています。
それはツマキが
織田信長の重要な側室で
あったのではないかということです。
「向州無比類力落也」は、
明智光秀がたんに肉親である
妹(又は義妹)の死を悲しむだけではなく、
妹ツマキの死によって、
今後の織田信長との関係に
大きな不安を感じる状況になったことを
意味するのではないかと推察されているのです。
明智光秀の妹の「お妻木」の死後、
10ヶ月後に、本能寺の変が起きています。
【竹生島参拝における女房成敗】
お妻木が織田信長の女房衆であることは
既に判明しています。
お妻木が亡くなったとされる
天正9年(1581年)8月7日或いは8日の
4ヶ月ほど前に、
織田信長は、安土城の女房衆たちを成敗しています。
「信長公記」によりますと、
天正9年(1581年)4月10日に
織田信長は小姓5~6人を連れて
琵琶湖の竹生島に参拝に行ったそうです。
安土城から竹生島までは往復で
120キロの距離との事です。
安土城の女房達は、この遠路であるので
織田信長が恐らくは長浜城にて1泊するものと
考えてしまったようです。
また、史料には、
「長浜城で1泊する」という旨を告げて
参拝したとあります。
恐らくは日ごろは激務であったことでしょうから、
チャンスとばかりにハネを伸ばし、
出かけてしまった女房達がいました。
ですが、織田信長は何と日帰りで
安土城に帰還したのでした。
まあ、恐らくは船で出立したことと思います。
天正9年といえば、
既に織田信長の琵琶湖船上ネットワークが
確立していた頃ですね。
織田信長にとっては、
船上にてゆっくりできたのかもしれませんね。
それ故、何も長浜城で1泊しなくてもいいと
判断したのかもしれません。
現代風にいえば「琵琶湖クルージング」でしょうか。
そうすれば、日帰りで
帰還できなくもなかったことでしょう。
スポンサーリンク
まあ、女房達の考えが甘かったといえば
それまでですが、
きっと休暇などなかったのかもしれません。
何せ「働き方改革」など全くなかった時代です。
まして超真面目で
常に何かしら動いていないと
気持ちが落ち着かなかったとされている織田信長は、
周囲にも自分と同じようにすることを
促していたとも言われています。
日帰りで帰還した織田信長は、
安土城の女房達の有様に大激怒したそうです。
そして、自分の任務を怠った
女房達を縛り上げます。
中には、桑実寺に出かけている
女房達も居たそうです。
なお、桑実寺は、
安土山に隣接している観音寺山の
中腹にあるお寺とのことです。
安土城とは思いっきり近い場所にありますね。
桑実寺に出かけていた女房達は、
桑実寺の長老に助けを求めたそうです。
ですが、このことが、
織田信長の怒りの炎に
油を注いだ結果となり、
仕事をさぼった女房衆と長老を
「御成敗」したとのことです。
「信長公記」には長老との記載ですが、
この長老とは、
一般的には桑実寺の高僧たちとされています。
また、桑実寺には、この事件の記録がないことから、
女房衆の管理監督者である男性の家臣
ではないか?とされているとのことです。
【「御成敗」の解釈について】
桑実寺の記録には、
女房達の御成敗の記録はないそうです。
また、この時代の「御成敗」は
必ずしも「死罪」ではなかったそうです。
織田信長は規則や道理に関しては
かなり厳しい人物であったと伝わっています。
なので、いくら自分が出かけて留守であるからとはいえ、
役目をさぼっていた者には、
「厳罰」に処するのは極めて当たり前なのでしょう。
綱紀粛正(こうきしゅくせい)ということでの御成敗。
綱紀粛正とは、国家の規律や秩序、
また政治のあり方や
政治家・役人の態度を正すことです。
武家社会において、国や領地を治めるうえでの
規則である「綱紀」は
かなり重んじられていました。
とはいえ、「綱紀粛正」だとして、
いちいち「死罪」にしては、
人材がいくらあっても足らなくなります。
現在なら、働きすぎて、
ちょっとの息抜きもとれないと訴えがあれば、
処罰の対象は上司である織田信長に
なりますけどね・・。
スポンサーリンク
「綱紀粛正」の対象となった女房達に
「お妻木」が含まれていたか
否かはわかりません。
ただ、女房達の役目も、
普段は激務だったと考えることができます。
【お妻木と信長】
そして、「お妻木」は
織田信長の唯一の記録に残っている
女性使者であるので、
相当の信頼があり、
また優秀であったことでしょう。
天下統一を目前に控えて、
業務もより一層ハードになっていったと思うのです。
そうした織田家を不休で支えていたことでしょう。
そんな意味で
「一段ノキヨシ」であったことでしょうね。
織田信長と側室のような、
個人的な関係があったか否かは
今となっては全くわかりませんが、
「信頼関係」の一つの証として、
そのような関係もあったかもしれませんね。
織田信長の好みとして、
美女であることは勿論の事、
頭が冴えていることも好みの一つであったとも
言われているくらいですから。
明智一族の女性は美形が多いとも
伝わっていましたし、
才色兼備であったと考えられます。
現代風に言うならば、
社長秘書、に近い役職だったのかもしれません。
【お妻木と光秀】
明智光秀にとっても、
お妻木は非常に頼れる妹でした。
竹生島事件の通り、
この頃の織田信長は、
ころころと気持ちや伝達が変化して、
立腹しやすく、
物事などや家臣たちの
好き嫌いも一層激しくなっていったと
言われています。
また天下統一を目の前にして、
織田家臣団も激務で
主君の織田信長の指令や伝達も
変わりやすく頻繁にあったことでしょう。
そうした主君の織田信長の近くで
仕えているお妻木が明智光秀に
もたらしてくれる情報は
常に重要かつ有益なことだったのでしょう。
お妻木は織田信長だけではなく、
兄(義兄)である
明智光秀の活躍を支えてくれた
大切な一人でもありました。
また、この頃は既に
正室の煕子は他界していました。
お妻木が義理の妹であるとした場合、
その面影などに、
どこかに正室の煕子と
重ねてみていたのかもしれません。
だからこそ、「お妻木」の死は、
公私ともに明智光秀にとって深い影を落とし、
落胆させていったものだと
推察することができます。
【桑実寺】
桑実寺(くわのみでら)は、
滋賀県近江八幡市安土町桑実寺にある天台宗の寺院。
山号は繖山(きぬがさやま)です。
本尊は薬師如来、開山は定恵。
別名は桑峰薬師と称されています。
【創建】
標高433メートルの観音寺山の中腹にあり、
西国三十三所観音霊場の32番札所である
観音正寺へと登る途上に位置しています。
寺伝によりますと、
天智天皇の四女、
阿閉(あべ)皇女(元明天皇)の
病気回復を僧に祈祷させていました。
すると、琵琶湖から薬師如来が降臨し、
阿閉皇女の病気を治して去ったということです。
それに感激した天智天皇の勅願により、
藤原鎌足の長男、定恵が、
白鳳6年(677年)に
創建したと伝えられています。
寺名は、定恵が唐から持ち帰った
桑の実をこの地の農家にて栽培し、
日本で最初に養蚕を始めたことに由来しているそうです。
【室町幕府】
1532年には室町幕府12代将軍足利義晴が、
ここに仮の幕府を設置しています。
のちに15代将軍足利義昭も滞在していました。
【安土城】
一時期荒廃していましたが1576年、
安土に居をかまえた織田信長によって保護されていました。
【伽藍】
【本堂】
国の重要文化財
室町時代初期再建、
桁行五間・梁間六間・一重・入母屋造・檜皮葺き
【鎮守三社】
天和元年(1681年)建立
【大師堂(経堂)】
大正2年(1913年)再建
【地蔵堂】
地蔵堂は明和6年(1769年)11月再建
【鐘楼】
寛永21年(1644年)2月建立。
【重要文化財】
<本堂>
<紙本著色桑実寺縁起2巻>
※毎年5月3日〜5日は
「紙本著色桑実寺縁起絵巻」他
寺15点を公開するとのことです。
但し、雨天時は文化財保護の観点から
中止するとの事です。
スポンサーリンク
【拝観時間】
午前9時~午後4時30分
【入山料】
大人:300円
小人:150円
【交通アクセス】
【電車】
JR琵琶湖線 「安土」駅 徒歩25~30分程度
JR琵琶湖線 「安土」駅 下車 車で5分程度
【車】
名神高速竜王ICから車で30分程度
【駐車場】
普通車5台
※博物館のそばの林道の終点にあるそうです。
【所在地】
近江八幡市安土町桑実寺675
【電話】
0748-46-2560
※紅葉の季節や晩秋の頃に訪れると
より一層の風情を感じられるかもしれません。
<場所>
<場所2>
福知山城~初代城主は明智光秀~領民に慕われた証の御霊会、城代は婿で重臣の明智秀満
光秀の妻・明智煕子と明智一族の墓がある西教寺~互いを支え合い深い絆で結ばれた夫婦~
亀山城(丹波国)~明智光秀の丹波経営の拠点~やがて本能寺へ向かう
明智光秀の墓と産湯の井戸~桔梗塚~もう一つの光秀生存説、生誕地伝説と土岐四郎元頼(基頼)
明智神社と称念寺~あけっつぁまと妻の黒髪~明智光秀の越前時代の居住地
妻木城と士屋敷と崇禅寺~明智光秀の正室・煕子の出身と妻木築城主の明智(土岐)頼重とは?
明智城址と天龍寺と明智一族、築城主の明智頼兼(土岐頼兼)とは?
「戒和上昔今禄」の天正4(1576)年6月28日の条に「惟任妹ツマ木殿ヲ以テ被仰出」はありません。
『松雲公採集遺編類纂』の中に、「天正四年丙子六月廿八日 戒和上昔今禄」という表紙外題持つ史料があり、それを「戒和上昔今禄」と呼ぶことにしたのです。
そして、天正五(1576)年十一月二十三日に「則乳人ヘ惟任妹御ツマ木殿ヲ以テ被仰出趣者」とあります。