【下野・網戸城】
「あじとじょう」と読みます。
小山政光の妻である寒川尼は
源頼朝の乳母を務めた女性で
信任が厚く文治3年(1187年)に
網戸郷の地頭に任じられています。
寒川尼の死後に寒川尼の孫である
網戸朝村が網戸城を築いています。
現在は網戸神社になっています。
【築城年】
1293~99年
【築城者】
結城(網戸)朝村(小山朝村)
【主な城主】
網戸氏
【廃城年】
嘉吉4年(1444年)
【遺構】
土塁・空堀
【概要】
網戸城は現在の
網戸神社周辺を中心として、
思川と巴波川に囲まれた
低地に築かれた平城でした。
かつての規模は10.8ヘクタールほどもあり、
かなり大規模な城郭であったとのことです。
主郭の他に、西城、中城、外城
といった地名が
残されており、地名の上からも
複郭構造の城であった模様です。
また御城沼、しらじ沼といった地名も
残っているとのことです。
主郭は網戸神社の東側に
あったといわれていますが、
現代は思川の堤防工事によって
中央部を切断されています。
また神社の西南の「中城」、
神社西北の「西城」には堀跡が
残されているとも言われていますが、
これも現代では判明しにくいとのことです。
なお、「栃木県の中世城館跡」では
「旧網戸小学校があった場所」
であるそうで現在の網戸神社の
西側地点であるとのことです。
城址案内板は網戸神社の
参道入口に立てられています。
網戸城は代々の網戸氏の
居城でしたが、
南北朝の争乱で
網戸重朝は奥州で討死し
子の網戸村重も
結城合戦で敗れて討死しました。
その後は会津へ逃れて
蘆名氏に仕えて奥州へ移ったため、
網戸城は廃城となったということです。
現在の城跡には、
網戸神社、長慶寺が建っています。
またその近くにある称念寺には
寒河尼と網戸(結城)朝村の墓があります。
【網戸氏】
寒河尼の死後、
寒河郡と網戸郷の地頭職は
結城朝光(結城氏の祖)が受け継ぎました。
さらに結城朝光の子である
時光が「寒河氏」、
同じく子の朝村が「網戸氏」を名乗っています。
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南北朝時代である
建武4年(1337年)3月16日
「後醍醐天皇綸旨写」(伊勢結城文書)で、
白河結城氏の結城宗広は
御醍醐天皇より「下野国寒河郡闕所」
を与えられています。
【結城(網戸)朝村】
結城 朝村(ゆうき ともむら)は、
鎌倉時代の武将です。
【生誕・死没】
不明
【別名】
上野十郎、
網戸十郎
【氏族】
結城氏
【父】
結城朝光
【母】
伊賀光泰娘
【兄弟】
朝広、平方朝俊、寒河時光、山川重光、
朝村、朝長、宗政、宗泰、小磯時広、
河原田朝綱
【子】
長広
嘉禎4年(暦仁元年)(1238年)5月16日、
鎌倉幕府4代将軍である藤原頼経の前で
籠からにげた鳩を弓で射て傷つけることなく
生け捕りにし周囲を驚嘆させたということです。
その功で同20日、二条家御簡衆となりました。
仁治2年(1241年)11月29日、
酔余の矢により三浦・小山両党の
喧嘩のもとをつくってしまいました。
弓の名手として幕府恒例の行事では
つねに射手を務めたということです。
康元元年(1256年)11月23日、
北条時頼の出家に殉じて出家し、
法名を蓮忍と号しましたが、
自由出家の廉で出仕を
一時停止されました。
文応元年(1260年)1月20日、
宗尊親王の昼番衆となっています。
【寒河尼の墓・結城(網戸)朝村の墓】
網戸十郎朝村の開祖と伝えられる称念寺(称年寺)。
その境内に小山政光の妻・寒河尼と
その孫・結城(網戸)朝村の墓所があります
その墓守をしているかのように立つ
ツゲの老木は「おやま百景」
にも選ばれています。
朝村は朝光の子で、
網戸に住み網戸十郎と名乗りました。
【所在地】
〒329-021小山市網戸2025~2030
【駐車場】
網戸神社の参拝者用の駐車場が
境内にあるとのことですが
よくわかりませんでした。
神社の鳥居の斜め向かい付近に
空き地があり、
参拝者と思われる車が
止まっていました。
【交通アクセス(網戸神社)】
JR宇都宮線「間々田」駅から
車で約10分程度、
徒歩で約40~50分程度
小山城~小山氏の始祖である小山政光が平安時代に築城、下野国最大の武士団を率いていました。
寒河尼(網戸尼)~源頼朝の乳母で結城朝光の母、女地頭となり長寿を全うしました。
中久喜城~平安末期に小山政光が築城、小山氏城跡として国の史跡に指定されています。
結城朝光~誇り高く抜け目ない政治力と巧みな弁舌で鎌倉幕府に重きを成していきます。
結城城~結城朝光が築城、室町時代の結城合戦の舞台、その後廃城になるも水野宗家が入り幕末まで続きました。
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