武田氏

恵林寺~1330年に開山された武田氏の菩提寺である臨済宗の古刹、庭園は国の名勝に指定されています。

恵林寺三門 附棟札一枚



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恵林寺

恵林寺(えりんじ)は、
山梨県甲州市塩山小屋敷にある寺院です。
山号は乾徳山(けんとくさん)。
臨済宗妙心寺派に属する寺院です。
甲斐武田氏菩提寺として知られています。
恵林寺(甲州市塩山)

【恵林寺の歴史】
【創建は鎌倉時代末期】
鎌倉時代の元徳2年(1330年)に、
甲斐国の守護職であった
二階堂貞藤(道蘊)が
笛吹川上流の所領牧荘を寄進し、
五山派の夢窓疎石を招き
開山したとのことです。
二階堂氏邸を禅院としたのが
始まりとされています。
もとは円覚寺派に属し、
関東準十刹の寺格を
有していたとのことです。

<方丈庭園>
恵林寺 方丈庭園

【室町時代前中期頃の恵林寺】
恵林寺は甲斐における
臨済宗の中心となり、
古先印元、青山慈永、龍湫周沢や
絶海中津らが勅命を奉じて
輪番住持となりました。
後には足利義満により
鎌倉禅林十刹に
準ずる寺格を与えられました。
恵林寺

応仁の乱後の復興】
応仁の乱で荒廃しますが、
甲斐武田氏の菩提寺に定められて復興し、
京都から高僧が招かれたとのことです。




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【戦国時代の恵林寺】
【甲斐武田氏と恵林寺】
戦国時代に恵林寺は
武田晴信(武田信玄)により
再興されたとのことです。
恵林寺 風林火山
天文10年(1541年)には
臨済宗妙心寺派の
明叔慶浚(みんしゅくけいしゅん)が
28世として招かれました。
明叔慶浚は飛騨国の国司・姉小路氏
被官である三木直頼の義兄で、
美濃大圓寺(岐阜県恵那市岩村町)
の住職であったとのことです。
明叔慶浚は景堂玄訥の法嗣で、
武田晴信に招かれるまで
駿河国の今川義元に招かれ
駿府の臨済寺(静岡県静岡市)住職として
駿河に滞在していたとのことです。
明叔慶浚は天文16年(1547年)に
武田領国となった信濃伊那郡の那恵寺に
招かれますが、飛騨へ戻ると
禅昌寺(岐阜県下呂市)を再興したとのことです。
臨済寺と賤機山

天文13年(1544年)には
第29世として
鳳栖玄梁(ほうせいげんりょう)が入寺し、
開山派の僧として初の住職となりました。
鳳栖玄梁は岐秀元伯
(ぎしゅうげんぱく、甲府長禅寺住職)・
希菴玄密(きあんげんみつ)の法兄で、
天文15年(1546年)には
積翠寺(甲府市上積翠寺町)における
武田晴信主催の連句会にも
出席しているとのことです。
積翠寺 武田不動尊

「葛藤集」によりますと、
永禄6年(1563年)には、
明叔慶浚と同様に
美濃大圓寺の住職であった
希菴玄密が恵林寺と
継続院両寺の住職として
招かれます。
希菴玄密はこれに応じますが、
恵林寺に入寺すると
すぐに弟子の快川紹喜に住職を譲り、
大円寺へ戻ったとのことです。
希菴玄密の甲斐における足跡では、
同年5月には大井夫人13回忌の
香語を読んでおり、
永禄10年(1567年)には
武田家御一門衆の穴山信君の求めに応じ、
穴山信君の父である
穴山信友の肖像に讃文を寄せているとのことです。

快川紹喜が招かれる】
永禄7年(1564年)には
武田氏により寺領が寄進されました。
永禄7年(1564年)11月に
美濃崇福寺から快川紹喜が招かれます。
快川紹喜は美濃土岐氏の一族で、
臨済宗妙心寺派・開山派の
仁岫宗寿の弟子となります。
快川紹喜は天文22年(1553年)にも
恵林寺へ入山し、天文24年(1555年)5月7日には
武田信玄の母である大井夫人の
年忌を務めており、
この翌年に美濃へ戻り
崇福寺住職となっていました。
崇福寺・本堂前の庭園

【快川紹喜が住職になる】
快川紹喜は恵林寺住職となると、
恵林寺を信玄の菩提寺と
定めているほか、美濃斎藤氏と
武田氏との外交関係にも
携わっているとのことです。
「武家事紀」によりますと、
天正3年(1575年)4月には
武田勝頼が喪主となり
武田信玄の三年秘喪明りの
葬儀が行われ、快川紹喜は
導師を務めたとのことです。
七回忌法要の際には
香語「天正玄公仏事法語」
を読んでいるとのことです。
快川紹喜は武田勝頼の代にも
政務顧問的な役割を
果たしているとのことです。




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武田氏滅亡と恵林寺】
天正10年(1582年)3月、
織田・徳川連合軍の
武田領侵攻(甲州征伐)により
甲斐武田氏は滅亡となります。
武田氏滅亡後、織田氏は
恵林寺に逃げ込んだ
佐々木次郎(六角義定)の
引渡しを要請しますが、
寺側が拒否したため
織田信忠の派遣した
津田元嘉・長谷川与次・関成重・
赤座永兼らによって恵林寺は
焼き討ちされてしまいます。
この際、快川紹喜が
燃え盛る三門の上で
「安禅必ずしも山水を須いず、
心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と、
「碧巌録」第四十三則の偈を発して
快川紹喜は火定したといわれています。
後代には快川紹喜の遺偈(ゆいげ)として
広く知られ、再建・改築された
三門の両側にも、
この偈が扁額として
掲げられているとのことです。
一方で、これは「甲乱記」では
快川紹喜と問答した
長禅寺僧高山と問答した際に
高山が発した言葉で
同時代の記録においては見られず、
近世には臨済宗の編纂物において
快川紹喜の遺偈として紹介されており、
快川の遺偈でなく後世の脚色である
可能性があるとの見方もあるそうです。
恵林寺三門 附棟札一枚

織田信長の死と寺の再建】
同年6月には本能寺の変により
織田信長が討たれ、
甲斐・信濃の武田遺領を巡る
天正壬午の乱を経て
三河国の徳川家康が甲斐を領します。
武田遺臣を庇護した徳川家康
織田氏による焼き討ちを逃れ、
那須の雲巌寺に遁れ潜んでいた
末宗瑞曷(まっしゅうずいかつ)を招き、
恵林寺を再建したとのことです。
恵林寺庭園 テラス

【恵林寺の門前市】
恵林寺周辺は
秩父往還・金山道が交差する
交通・流通の要衝地です。
金峰山へ向かう参詣客も多く、
このため古くから市場が
存在していたのでした。
永禄6年(1563年)の
「恵林寺領御検地日記」
「恵林寺領米穀并諸納物日記」によりますと、
恵林寺の寺領には
「三日市場」「九日市場」の
ふたつの市場が存在しており、
定期市として開かれていたとのことです。

【「三日市場」「九日市場」】
三日市場は恵林寺が所在する
塩山小屋敷南に塩山三日市場の
町名として残されているとのことです。
「九日市場」については
寺領内のいずれかに
存在していたと見られていますが、
地名・伝承いずれも現在は見られず
正確な所在地は不明となってしまっています。
双方とも戦国時代に門前市として、
恵林寺創建年代の鎌倉時代末期から
室町時代初期には
成立していたと
考えられているとのことです。
ちなみに「三日市場」に関しては
明応8年(1499年)時の
存在が確認されているそうです。




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【「三日市場」】
「御検地日記」「諸納物日記」では、
三日市場は軒数26間半で、
恵林寺に「公事」を納入する
公事屋敷が14間であったということです。

【「九日市場」】
九日市場は軒数21間半で、
公事屋敷が16間と記されているそうです。

【「公事」】
「公事」は恵林寺の年中行事や
仏事、月ごと・季節ごとに
納入される公事物を指し、
門前市の住民に納入が義務付けられ、
恵林寺の寺院経済を支えていました。

【武田氏の「陣屋」「御蔵」】
市場には武田氏によって設けられた
「陣屋」「御蔵」があったそうです。
年貢・公事物などが納入され、
市場において銭貨と交換され、
武田家の財政を支えていたとのことです。
この点は徳川氏時代にも
引き継がれており、
塩山三日市場に所在する
十組屋敷は武田家の陣屋
であったということです。

【「名請人」】
門前市の住民(「名請人」)は
三日市場と九日市場で共通する人物がおり、
恵林寺の経営に深く関わる僧であると
考えられているとのことです。
また、武田氏の下級家臣となっている
禰宜やその一族も見られるとのことです。
その他の百姓も惣百姓と呼ばれる
有力農民で構成されており、
専業の商職人ではなく
地侍・有力農民が
商業に携わっている事例が多いことが
甲斐国の特徴であることが
指摘されているとのことです。

【門前市の住民】
門前市の住民は借家人であり、
別に屋敷を貸し与える
家持層がいたと考えられています。
両市場とも定期市であることから、
住民は普段は農業等に従事し、
市日には屋敷地において
商業を行っていたと見られています。
恵林寺 白猫

【江戸時代の恵林寺】
【武田信玄百回忌】
江戸時代の寛文12年(1672年)は
武田信玄百回忌に際して
恵林寺で法要が実施されました。
武田遺臣の子孫である
曲淵吉貸・三枝守俊らが主導して
武田家ゆかりの旗本や
諸大名家の家臣・浪人らから
奉加を集め信玄供養塔が
造立されたとのことです。
この際に作成された「恵林寺奉加帳」には
上野国館林藩家臣に
柳沢安忠(形部左衛門)と
その子息である弥太郎(吉保)
の名が見られるとのことです。




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柳沢吉保の信玄への崇拝】
柳沢吉保の主君である
館林藩主である徳川綱吉
徳川将軍家を継承し、柳沢吉保は
徳川綱吉の「側用人」となります。
さらに宝永元年(1704年)に
柳沢吉保は甲府藩主となります。
柳沢吉保は武田信玄を崇拝し、
柳沢氏系図では柳沢家の祖を
武田家に連なる一族として
位置づけているとのことです。
宝永2年(1705年)4月12日に
柳沢吉保は恵林寺において
武田信玄の百三十三回忌の法要を実施し、
伝信玄佩刀の太刀銘来国長を奉納し
自らが武田信玄の後継者であることを
強調している、とのことでした。

【柳沢氏に至る系譜として】
また、柳沢吉保は同年に
柳沢家の系譜を記した
「甲斐少将松平吉保家世次第」と
恵林寺へ奉納した和歌
「法性院殿百三十三回忌詠歌」
を作製しているとのことです。
「甲斐少将松平吉保家世次第」では、
柳沢家が甲斐源氏の始祖である
源義清・清光から
一条信経・時信の甲斐一条氏、
さらに時信の子・時光からはじまる
青木氏を経て柳沢氏に至る系譜を
強調しているとのことです。

【「法性院殿百三十三回忌詠歌」】
「法性院殿百三十三回忌詠歌」は
柳沢吉保が武田信玄の百三十三回忌の
法要の際に奉納した和歌を記したものです。
柳沢吉保が詠んだ
「百あまりみそしみとせの夢の山
かひありていまとふもうれしき」
の歌が記されているとのことです。
これは、柳沢吉保が武田家に関わる
歌枕である夢山(山梨県甲府市の愛宕山)の地に
133年の歳月を経て
訪問がかなったことを
感激する内容であるとされているそうです。

【恵林寺と永慶寺と柳沢吉保】
さらに、柳沢吉保は一蓮寺など
甲斐国内の寺院に自身の
肖像画を奉納しているとのことです。
宝永7年(1710年)には
黄檗宗の僧である
悦峯道章(えっぽうどうしょう)を招き
現在の甲府市岩窪町に
永慶寺を創建しています。
永慶寺と恵林寺には法量・像容が
ほぼ同一な彫像としての
柳沢吉保座像を奉納しているとのことです。
柳沢吉保は正徳4年(1714年)に死去し
永慶寺に埋葬されましたが、
享保9年(1724年)に
柳沢氏が大和郡山藩へ
転封された際に
永慶寺も大和へ移転され、
柳沢吉保は恵林寺内に改葬されました。
柳沢吉保の子である吉里も
自ら手がけた武田信玄像を
恵林寺へ奉納しているとのことです。
大和郡山城 門

恵林寺に伝わる史料として、
検地帳簿である「恵林寺領検地帳」が
残されているとのことです。




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【近現代の恵林寺】
明治4年(1871年)の
武田信玄公三百回忌に際しては、
山梨郡中萩原村(甲州市塩山中萩原)出身の
幕臣・真下晩菘(ました ばんすう)が
松本楓湖(まつもとふうこ)筆の
「武田二十四将図」を奉納しています。

【大小切騒動】
明治5年(1872年)には、
明治政府による地租改正に際して、
江戸時代以来の甲州三法のひとつである
大小切税法を廃止する案が浮上し、
これに対して甲府盆地の
旧田安家領の村々を中心に
反対運動が発生したとのことです。
山梨県令の土肥謙蔵は当初は
一揆勢に対する融和路線を取っていましたが、
後に陸軍から派遣された兵が到着すると
一転して果断な処置を行い、
この時に土肥は一揆勢の村役人を
恵林寺に集結させ、
一度与えた黒印状を没収してしまいました。
騒動はこれにより収束しましたが、
土肥は免官により辞職し、
藤村紫朗が新県令として
後任として着任しました。

【20世紀の火災】
明治30年(1905年)には
火災に見舞われて
壮大な堂宇の大半を焼失していしまいました。
その後再建され現在に至っているとのことです。

【伽藍】
明治30年(1905年)の出火で
焼失した後、再建したものもありますが
(方丈・庫裡)、
桃山様式の四脚門
(国の重要文化財)や
夢窓国師作といわれる庭園(恵林寺庭園)
(国指定の名勝)があります。
恵林寺庭園

<方丈庭園>
恵林寺 方丈庭園

<本堂>
恵林寺 本堂

<明王殿>
武田信玄公が生前に対面で摸刻させたという、
等身大の不動明王が安置されており、
「武田不動」として尊崇されています。

<うぐいす廊下>
日本の古来の建築物に見られる、
人が床の板の上を歩く事により
きしみ音が鳴る様に
つくられた仕組みとなっており
これをうぐいす張りといいます。
外部侵入者の危険探知の為に
設けられたのがはじまりとのことです。
廊下を歩くと、うぐいすの鳴くような音が
聞こえてきます。
恵林寺 うぐいす廊下

<庫裡>
恵林寺 庫裡の鬼瓦

<庫裡・内部>
恵林寺 庫裡内部

<庫裡・内部入口>
恵林寺 庫裡・内部入口

<開山堂>
恵林寺 開山堂

<柳沢廟>

<佛舎利宝塔(三重塔)>
恵林寺 佛舎利宝塔(三重塔)

<木造柳沢吉保坐像>
江戸時代(18世紀)に制作された
柳沢吉保の寿像です。
木造・玉眼・彩色。
像高は85cm。
像内幹部前面材上方の墨書によりますと、
宝永7年(1710年)11月、
柳沢吉保53歳の姿を写で、
仏師・大下浄慶の作とされています。
太刀(銘山城守国重)が付属されています。
恵林寺 木造柳沢吉保坐像

<柳沢吉保肖像画>
山梨県甲府市太田町の一蓮寺や
韮崎市清哲町青木の常光寺、
奈良県大和郡山市の永慶寺
(旧地は甲府市岩窪町)には
柳沢吉保が元禄15年(1702年)に
描かせた柳沢吉保画像が伝来し、
彫像も肖像画と同様に
束帯・冠姿で、右手に笏を持っています。
永慶寺の吉保夫妻像とほぼ
同一の像容・法量であり、
肖像画とも共通性が
見られることから、
彫像制作の際に
柳沢吉保肖像が
参考にされた可能性が
指摘されているとのことです。




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【柳沢吉保公廟所に安置】
本像柳沢吉保が
正徳元年(1711年)7月に制作し
恵林寺に奉納した寿像で、
恵林寺境内の
柳沢吉保公廟所に安置されています。
前年の宝永7年(1710年)には
甲府に永慶寺が落慶しており、
8月10日には柳沢吉保が帰依した
黄檗宗の僧・悦峯道章(えっぽうどうしょう)
により開堂されています。
隠居後の柳沢吉保が
恵林寺の東方に宛てた書状では、
柳沢吉保は自らの寿像が
武田家ゆかりの恵林寺に
奉納されることに対する喜びが
記されているとのことで、
この文中の寿像が
恵林寺の吉保坐像にあたると
考えられているとのことです。
また、柳沢吉保が
家臣の薮田重守に宛てた書状
(豊田家史料)によりますと、
寿像が安置される堂宇は
永慶寺の柳沢吉保夫妻像安置の堂宇を
模して建てられたということです。

【永慶寺に埋葬された後に恵林寺に改葬】
正徳4年(1714年)に
57歳で死去した柳沢吉保は
菩提寺である甲府の永慶寺に
埋葬されました。
が、享保9年(1724年)に
柳沢氏が甲斐国から
大和国郡山へ転封されると、
永慶寺も柳沢吉保夫妻像ら
什物とともに大和郡山へ
移転されました。
これに際して、柳沢吉保は
永慶寺から恵林寺に改葬されたのでした。
<柳沢吉保公墓所>
恵林寺 柳沢吉保公墓所

【仏師・大下浄慶】
本像を制作した仏師・大下浄慶は
京都七条仏所の康清の孫で、
甲府八日町(甲府市中央)に
居住していたとのことです。
「甲斐国志」によりますと、
浄慶は恵林寺の武田不蔵尊を
制作した人物で、
柳沢吉保夫妻像は子の
次郎右衛門とともに
制作したということです。
翌年の宝永8年(1711年)3月に
浄慶は法橋位に
叙せられているとのことです。

【武田不動尊】
武田信玄の菩提寺である
恵林寺明王殿には
武田不動尊と称される
不動明王坐像及び二童子像が
安置されています。
恵林寺 明王殿への橋
甲陽軍鑑」「甲斐国志」
巻七五によりますと
武田不動尊像は武田信玄が京から
仏師の康清を招聘し、
武田信玄と対面して彫刻させ、
武田信玄自らの頭髪を焼いて
彩色させたものであるということです。
現在では塗料が劣化し
黒ずんでいますが、
本来は不純物が少なく
銀を混ぜた群青の塗料を
2層塗っていたことが
判明しているとのことです。




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像内は内刳りされ、
像底には布張り漆塗の底板が
あることから、像内の空洞に
像内納入品を納めている
可能性も考えられていましたが、
X線写真による画像では
確認されてはいないとのことです。

中尊の不動明王坐像は
像高92.9cm。
胸前の条帛には金泥で
武田家家紋である
花菱文が描かれています。
「軍鑑」「国志」では
武田信玄の姿を写した像であるとする
伝承が記されていますが、
武田不動尊は左手に索、
右手に剣を持つ儀軌どおりの造形で、
相貌も伝統的な不動明王像の
表現であることが
指摘されているとのことです。
武田不動尊・二童子像
アクリルスタンド 販売

仏師康清は本像以外に
県内でいくつかの作品を残しいます。
大井俣窪八幡神社(山梨市)の
旧蔵であると考えられている
清水寺(山梨市)の勝軍地蔵像や、
円光院(甲府市)の勝軍地蔵像・
刀八毘沙門天像などが
知られているとのことです。

劣化が進んでいるため
2021年から
東京芸術大学のチームにより
修復と調査が行われているとのことです。
調査結果やスキャンした映像から
再構成した3Dモデルが
公開される予定であるそうです。

【交通アクセス】
(車)
中央自動車道「勝沼」IC⇒
国道20を大和・大月方面へ⇒
「柏尾」交差点を左折⇒
「等々力」交差点を右折⇒
「西広門田橋南」交差点を左折⇒
「中沢ガード北」交差点を左折。

(バス)
JR中央線「塩山」駅南口から
西沢渓谷行、「恵林寺前」下車  

(タクシー)
JR中央線「塩山」駅から約20分
(1500円くらい)

【駐車場】
無料です。
<恵林寺駐車場>
本堂そばの駐車場です。
50台程との情報アリ。
<所在地>
〒404-0053 山梨県甲州市塩山小屋敷2265

<恵林寺パーキング>
※恵林寺総門(黒門)近くの駐車場です。
25台ほど駐車可能。参道を散策したいときは
こちらがおススメとのことです。
<所在地>
〒404-0053 山梨県甲州市塩山小屋敷1548−1

【拝観について】
拝観は有料、信玄公宝物館は別料金

【拝観時間】 
午前8:30~午後4:30(年中無休)
宝物館は12月~3月の間は
毎週木曜日が閉館となります

【拝観料】
<恵林寺>
()は団体(20名以上)
大人:500円(400円)
小・中・高校生:300円(300円)
恵林寺庭園

<信玄公宝物館>
()は団体(20名以上)
大人:500円(400円)
高校生:400円(300円)
小・中学生:100円(100円)
※おススメです!!




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【所在地】
〒404-0053 山梨県甲州市塩山小屋敷2280

滞在所要時間:35分~

武田信玄~風林火山の軍旗のもとに、戦に明け暮れ駆け抜けていった53年の人生でした。

黄金の武田信玄像~恵林寺に隣接しているお土産・食事処「信玄館」にあります。

躑躅ヶ崎館(武田氏館跡)~武田信虎が築城し、信玄、勝頼と3代続いた戦国大名武田氏の中心地です。

積翠寺にある武田信玄公産湯の井戸跡と背後の要害山城、続日本100名城です。

武田勝頼~甲斐源氏・戦国大名としての甲斐武田氏最後の当主、素質と環境が合わず悲劇が訪れます。

旧高野家住宅 甘草屋敷~国の重要文化財に指定された民家建築で江戸幕府御用の甘草の栽培と管理を担ってきました。

武田義清(源義清 (武田冠者))~常陸国出身で配流となった先の土地に根差して甲斐源氏の祖となりました。

武田氏館と湫尾神社~ひたちなか市武田は甲斐武田氏発祥の地でした。

武田信義~甲斐源氏であり武田氏の初代当主となり、武田信玄の遠いご先祖様です。

武田信成~武田信時の系統で安芸守護武田氏から甲斐国守護武田宗家となりました。

武田信春公館~甲斐源氏第12代及び武田氏9代当主であった武田信春の居館跡です。

栗原氏館跡(甲斐国)~甲斐守護・武田信成の子である武続が始祖となる栗原氏の館跡です。

穴山信君(穴山梅雪)~武田氏の家臣で御一門衆、信玄から厚い信頼がありましたが、勝頼の代になると裏切ります。

甲斐・琵琶城~武田氏第13代当主武田信満の庶子である倉科信広が築城したとのことです。

中牧城(浄古寺城)~武田信玄時代に築城、後に徳川家康家臣が城代、遺構規模が多い城跡。

小田野城(小田野山城)(甲斐国)~甲斐源氏である安田義定が築城したと伝わる山梨県内最古の部類の山城。

御坂城(甲斐)~標高1500mの峠に小田原北条氏が築城、徳川方の鳥居元忠らが黒駒合戦で勝利しました。

稲葉良通~稲葉一鉄・頑固一徹の語源である西美濃三人衆~多才な人物で信長に好かれる

崇福寺~岐阜城の麓~織田信長・織田信忠の霊廟があるところ、稲葉一鉄の修業の寺

織田信長について~駆け足で手短にわかる織田信長の49年の華麗で残酷な生涯

徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!

臨済寺~今川家の菩提寺で幼き徳川家康が教育を受けた場所、2代目住持は名軍師の太源雪斎。

武蔵・小川城 (宝清寺)~築城は武蔵七党・西党の小川氏で寺の開基は甲斐武田氏縁者の青木氏。

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