【大河内城】
大河内城(おかわちじょう)は、
三重県松阪市大河内町城山
にあった日本の城(山城)です。
城は丘陵の北端に築造されており、
東に阪内川、北に矢津川、
西側と南側には深い谷が入り
自然の要害でした。
【城郭構造】
山城
【築城主】
北畠満雅
【築城年】
応永19年?~応永22年?
【廃城年】
天正4年(1576年)
【遺構】
曲輪跡、堀切・土塁
【指定文化財】
三重県指定史跡
【城について】
応永22年(1415年)、
南朝の伊勢国司北畠満雅が
両統迭立を履行しない
幕府に対する挙兵の際に、
備えとして築城されました。
弟の北畠顕雅を入れました。
これにより北畠顕雅は、
北畠氏諸流・大河内氏の祖となりました。
北畠顕雅は、兄・満雅をよく助け
活躍しましたが正長元年(1428年)、
北畠満雅が討ち死にすると、
その子である教具はまだ7歳であった為、
北畠顕雅が職務を代行し、
足利義教との和睦交渉を纏めました。
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伊勢北畠氏からは
大河内、木造、坂内、田丸、
星合、岩内、藤方、波瀬の諸氏が
分かれ出て、それぞれ御所と称しました。
木造御所は北畠庶流の筆頭でしたが、
木造御所は度々幕府側に付き、
宗家と対立しました。
そのため田丸御所(田丸城)・
坂内御所(坂内城)・
大河内御所(大河内城)の三家が
北畠三御所となりました。
そのなかでも大河内御所は
代々筆頭とされ、
宗家が絶えたときは、
これを継ぐ立場でありました。
【大河内城の戦い】
永禄年間、
前伊勢国司であった北畠具教が、
織田信長の伊勢侵攻に対し、
嫡子である具房と共に
多芸の霧山城(北畠神社)より
大河内城に本拠地を移し、
永禄12年(1569年)8月28日より
籠城戦を行いましたが、
織田信長の次男である
織田信雄に北畠の家督を譲る条件で和睦し、
10月3日、具教、具房親子は
城を退去しました。
天正4年(1576年)、
織田信雄が南伊勢を統治する拠点を
田丸城に移したため、廃城となりました。
【所在地】
〒515-1105 三重県松阪市大河内町城山
【駐車場】
大河内地区市民センター付近に
案内板と駐車場があります。
【交通アクセス】
JR紀勢本線・近鉄山田線「松阪」駅から
三重交通バス「道の駅飯高駅」方面もしくは
「柚原ゆき」バスに乗り「大河内バス停」下車
※バス運行状況については最新の情報をご確認下さい。
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織田信雄~織田信長の次男、散々な目に遭うも長生きしその血筋は明治維新まで受け継がれました。
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