【毛呂山城跡(毛呂氏館跡)】
毛呂山城は「毛呂氏館」とも呼ばれています。
毛呂氏は藤原季仲の子・季清を祖とする一族で、
季清の子、毛呂季光は源頼朝に信任され、
源氏一門に準じた待遇でした。
その後も毛呂氏は越生郷から
比企郡にまで勢力を拡大し、
戦国時代末期の当主、
毛呂顕重は北条氏の配下となり、
関東各地に転戦しました。
天正18年(1590年)、
豊臣秀吉の小田原攻めがはじまると、
毛呂顕重以下の毛呂一族は
八王子城の守備を命じられましたが、
落城にともない一族の多くは討死し、
毛呂氏は滅亡しました。
現在、城址には毛呂顕季、顕繁父子により
大栄5年(1525年)に
開基されたと伝わる長栄寺が
いまも残っており、
毛呂氏一族の墓と供養塔があります。
また裏山の山林内には
土塁と空堀の遺構が残っています。
長栄寺のお墓、池を通り過ぎ、
急勾配の坂道を登った右側に看板があるそうです。
(訪れた時には見つけられませんでした)
墓を通ると館跡があるそうですが、
倒木が多く整備はあまりされてはいません。
城跡は長栄寺の裏手にあり、
長栄寺建立の際に本郭跡は
改変され東側の土塁は消失し、
崖となっています。
西側土塁の後には
浅くなってはいますが、空堀が見られます。
長栄寺自体は、二の郭跡になるようです。
地図上の毛呂城址への道は
個人宅を横切る形でついてます。
毛呂氏館跡、毛呂氏墓・供養塔のみ確認できます
【縄張形態】
山城
【標高(比高)】
115m(30m)
【築城主】
毛呂氏
【築城年】
鎌倉時代
【主な城主】
毛呂氏
【遺構】
曲輪、土塁、空堀
【指定文化財】
埼玉県選定重要遺跡
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【所在地】
〒350-0446 埼玉県入間郡毛呂山町小田谷695
【交通アクセス】
(電車)
JR八高線「毛呂」駅から徒歩25分程度。
(車)
圏央道「狭山日高」ICから25分程度。
【駐車場】
あります。
【毛呂氏】
毛呂氏は藤原北家の流れで、
中世、武蔵国入間郡毛呂郷の在地領主でした。
「毛呂流大谷木家系図」では、
太宰権帥藤原季仲の子周防前司季清が
毛呂郷に移り毛呂冠者を
称したとのことです。
季清の毛呂土着には、
武蔵七党の一つである丹党との
婚姻関係があった模様です。
毛呂冠者季清の子が
毛呂氏の基盤を築いた
毛呂太郎季光となります。
毛呂季光は源頼朝に仕えて、
奥州合戦への参陣・頼朝の上洛に
供奉にするなど、側近として活躍しました。
「吾妻鏡」」の記述をみますと
その人柄と力量をもって
源頼朝から篤い信頼を受けたのでした。
そして、源氏一門に準ずる待遇を受け、
豊後守に補任され、
毛呂郷の地頭職を安堵されたのでした。
毛呂季光の子季綱も頼朝に近侍、
建久4年(1193年)、
比企郡の泉・勝田の地を賜っています。
季光・季綱父子ののち、
毛呂の動向は知られなくなります。
北条氏の執権政治が確立されるとともに、
多くの御家人と同様に
勢力を失っていったものとみられます。
毛呂郷に拠って鎌倉時代から
南北朝の動乱時代を生き抜きました。
室町時代になると、
武州北一揆の構成メンバーの一人に
毛呂三河守がみえます。
室町時代の関東は、
鎌倉府によって治められていました。
が、鎌倉公方は京の幕府と
対立することが多く、
それを管領上杉氏が制御しました。
けれども足利持氏が公方になると、
幕府との対立が深刻化します。
やがては管領上杉氏との対立に発展し、
上杉禅秀の乱、永享の乱、結城合戦と
戦乱が続発しました。
足利持氏の滅亡後、
足利成氏も上杉氏と対立して
享徳の乱を起こします。
やがて事態は、
管領山内上杉氏と
一族の扇谷上杉氏の対立へと動きます。
毛呂顕繁(顕重)は
山内上杉氏に属し、
永正元年(1504年)の立河合戦に
出陣、奮戦したとのことです。
戦後、毛呂顕繁は
戦没者の供養のために
念仏鉦をつくったと伝えられています。
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小田原北条氏が相模から武蔵へと進出。
大永4年(1520年)、
北条氏綱が扇谷上杉氏を逐って
江戸城を奪うと、
毛呂顕繁はいち早く北条氏の傘下に参じました。
管領山内上杉憲政は、扇谷上杉朝興とともに
上州兵を率いて毛呂に侵攻、
毛呂要害に制裁的攻撃を加えました。
北条氏綱はただちに救援の兵を送り、
毛呂城は開城して和議が成立しました。
毛呂合戦と呼ばれる戦いで、
北武蔵が北条氏勢力下に
組み込まれていく画期となる事件でした。
北条氏の麾下に属した毛呂氏は、
越生の報恩寺・安楽寺・医王寺に
保護を加え、毛呂館の近くに
長栄寺を開基するなど、
着々と在地領主としての立場を
強化していきました。
毛呂顕繁のあと、土佐守顕季、
大膳・土佐守秋重と続き、
北条氏に属して各地を転戦しました。
天文21年(1552年)、
上杉憲政が越後の
長尾景虎(のち上杉謙信)を頼って
関東から落去すると、
北条氏の勢力が関東で更に拡大します。
けれども永禄3年(1560年)、
上杉憲政を擁した長尾景虎が
関東に侵攻してきます。
以後、北条氏と上杉氏の対立が続きます。
永禄4年春、長尾景虎は長駆して、
小田原城を包囲、攻撃します。
このとき参陣した関東諸将の幕紋を
記録したのが「関東幕注文」で、
足利衆に「毛呂安芸守 かりかね」、
勝沼衆に「毛呂 かりかねのもん」
と記されています。
これら毛呂氏は同族と思われ、
北条氏に属した毛呂氏以外に、
毛呂一族が自立した
動きをしていたこととなります。
関東で北条氏と上杉氏が
抗争を繰り返しているころ、
中央では織田信長が
天下統一に向けて邁進していました。
天正6年(1578年)、
上杉謙信が死去し、
天正10年には甲斐武田氏が滅亡しました。
こうして、滝川一益が
関東管領として厩橋城に入城、
織田勢力が関東に伸張してきたのでした。
が、天正10年6月2日、
本能寺の変が起こり、織田信長が死去します。
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神流川の戦いで
滝川一益を破った北条氏は、
関東の統一に向けて
北関東に兵を発します。
一方、中央では明智光秀、
柴田勝家を滅ぼした羽柴(豊臣)秀吉が
天下人に躍り出ました。
そして北条氏は天正18年(1590年)、
豊臣秀吉からの攻撃を受けます。
この小田原北条氏攻めに際して、
毛呂土佐守秋重は北条氏に味方して
八王子城に籠城し、
豊臣勢の攻撃の前に
一族とともに討死しました。
ここに、鎌倉時代より
毛呂を支配した毛呂氏の
在地領主としての歴史は
幕を閉じたのでした。
その後、毛呂土佐守秋重の後裔は
徳川家に召されて旗本として存続、
毛呂秋重の弟秋綱の流れも
大谷木氏と改め、
宗家と同様に徳川家旗本として続いたとのことです。
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