【関口氏純】
関口 氏純(親永)・瀬名 義広
(せきぐち うじずみ(ちかなが)/せな よしひろ)は、
戦国時代の武将です。
今川刑部少輔家(今川関口家)の当主で
駿河今川氏の有力家臣でした。
主君である今川氏親から
偏諱を受けて親永に改めました。
ただし、現存文書の署名は氏純となっています。
駿河持船城主。
妻は今川義元の妹(養妹とも)とされていますが、
実兄の瀬名氏俊の話の
誤伝とする説もあります。
徳川家康の正室である
築山殿の父に当たります。
【生誕】
永正15年(1518年)
【死没】
永禄5年(1562年)
【改名】
義広⇒親永
【別名】
氏興、氏広、氏純
<氏純>
戦国遺文 今川氏編では「氏純」と
署名している人物を関口刑部少輔に
比定しています。
大石泰史「新発見の今川氏家臣の発給文書-為広・
為和歌合集紙背文書の検討から」
小和田哲男 編「今川氏とその時代 地域研究と歴史教育」
(清文堂、2009年)は、
古文書で確認できる実名は
「氏純」のみとしています。
【官位】
刑部少輔
【主君】
今川義元⇒今川氏真
【氏族】
瀬名氏⇒関口氏
【父】
瀬名氏貞
【母】
堀越貞基の娘?
【養父】
関口氏録
【兄弟】
氏俊、親永(義広)、氏次
【妻】
今川義元の妹
(養妹で井伊直平の娘とも)?
【出自】
今川一門の瀬名氏貞の次男です。
一族の関口氏禄(花沢城主)の養子となって
関口家の家督を相続しました。
駿河今川家の重臣かつ
室町幕府の奉公衆でもありました。
【異説】
異説によりますと
奉公衆である関口政興(刑部大輔)
の弟である氏兼(刑部少輔)が
駿河に下って今川氏に仕えて
堀越貞延の娘を娶りましたが
大永5年(1525年)に死去し、
後を継いだ嫡子の刑部(幼名:慶王)も
程なく没したために
瀬名氏貞の子である助五郎(親永・氏純)が
関口氏の婿養子になって相続したとのことです。
また、関口政興の子である
氏縁(彦三郎・刑部大輔)も
享禄4年(1531年)頃から今川氏に仕え、
息子の氏経(越後守)も
今川氏に仕えたということです。
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【最期】
永禄3年(1560年)、
今川義元が織田信長によって
桶狭間の戦いで討たれた後も
衰退する今川氏を支えました。
けれども娘婿である松平家康が
今川氏から独立したため、
今川義元の嫡男である今川氏真から
その去就を疑われた結果、
永禄5年(1562年)、
駿府屋形町の屋敷にて
切腹を命じられて果てました。
【北条氏規について】
なお、関口氏純は小田原北条氏からの
人質であった北条氏規
(今川義元の甥で、今川氏真の妻の兄)を
婿養子として関口氏を
継がせる予定であったとのことです。
これは今川義元の方針でもあったそうですが、
関口氏純が処罰されたことで
小田原北条氏から
返還を求められた結果、
小田原城に帰還したとする説を
唱える専門家もいます。
2023年NHK大河ドラマ
「どうする家康」では
渡部 篤郎(わたべ あつろう)さんが演じられます。
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